第16話:消えた四人と胸に残るざわめき
――一年後・夏/龍胆家・道場
蝉の声がじりじり続き、赤い陽が障子の隙間から差し込む。
畳の目が濃淡で縞を描き、湿った草の匂いが鼻先をくすぐった。
彰は一人、木刀を振る。
「はっ、ふっ……!」
踏み込むたび畳が鳴り、乾いた衝撃が壁に跳ね返る。
こめかみから伝った汗が顎先で揺れ、ぽたりと落ちた瞬間が妙に大きく響いた。
(もっと速く。もっと強く。……まだ届かない)
豆の縁が軋む痛みが、今日の積み重ねを教えてくる。
一度だけ息を整え、振り下ろした。
木刀の鋭い風切り音が、道場に短く弾ける。
ふと振り返ると、扉のところに誠が立っていた。
片手に――冷えた水筒。
「……水、飲め」
余計な言葉は添えない。
それでも、差し出す手つきだけは驚くほど丁寧だった。
「ありがとう」
冷たい水が喉を通り抜け、火照っていた身体が少し落ち着いた。
誠は手ぬぐいを畳み直しながら、黙って立っている。
「無茶を続けると、踏み込みが雑になる。……今日はもう夕飯だ」
「あと少しだけ……いける」
そう返すと、誠は鼻を鳴らし――
口元が、わずかにほどけた。
「好きにしろ。ただし……倒れるなよ」
扉へ向かう足を止めないまま、誠は声を落として付け足した。
「……お前が頑張ってるのは、ちゃんと見てる」
彰は小さく息を吸う。
張っていた肩が、少しだけ落ちた。
誠の足音が板張りの廊下へ遠ざかっていく。
彰は木刀を壁へ立てかけ、汗で湿った道着の襟を軽く引いた。
母屋へ続く渡り廊下を歩くたび、板が小さく鳴る。
開け放たれた窓から、夕餉の匂いが流れ込んできた。
カレーの香りだった。
腹の奥が、遅れて空腹を思い出す。
居間へ戻ると、美咲が夕食を並べていた。
汗で張りついた道着を見た瞬間、美咲の眉がふっと緩む。
「彰、ちゃんと水分取ってる? 無茶しすぎないでね。武術のことはあまりわからないけど……体、壊したら意味ないんだから」
エプロンの端で手を拭いながら、皿を差し出してくれる。
「それにね、今日は栄養のあるものいっぱい作ったの。いっぱい食べて、ちゃんと元気でいてよ?」
「うん。……ありがとう、母さん」
美咲は皿を置く手を一度だけ止めた。
「大丈夫。ちゃんと飲むようにしてるよ。……さっきも父さんが、水、持ってきてくれたし」
「え?」
美咲は目を瞬かせ、そっと誠の方を見る。
誠はそっぽを向いたまま、「……う、うむ」と返した。
その返事に、美咲がふっと笑みを漏らす。
テーブルには湯気を立てるカツカレー。
黄金色の衣が光を返し、ルーの香りが一気に食欲を引き上げた。
「さっきの踏み込み、悪くなかったぞ」
「本当よ。動きがきれいになってきたわね」
三人の影が、畳の上で重なっていた。
「……まだまだ。でも、ちょっと速くなってる気がする」
彰は湯気の向こうへ小さく息を吐き、背筋を伸ばした。
誠がゆっくり頷く。
「焦らなくていい。強さは積み重ねだ。慌てるより、確かに踏み込め」
美咲は笑いながら、スプーンを差し出した。
「カツが冷めないうちに食べてね」
皿を受け取りながら、彰は小さく「ありがとう」と呟く。
熱いルーを口へ運ぶ。
香辛料の香りが抜け、遅れて腹の虫が小さく鳴いた。
(強くなれる。……まだいける。もっと先へ――)
握ったスプーンへ、ゆっくり力が戻っていく。
そのとき、不意にテレビからニュースの声が流れた。
スプーンが途中で止まる。
画面には、黒い防護服に銀のロゴをつけたインサイダーたちが映っていた。
崩落したトンネルの中で、市民を救い出している。
『今夜の特集は、インサイダー協会の活動です。彼らは、モンスター討伐に限らず、災害救助や都市防衛など、社会の安全を支える任務を担っています』
誠がスプーンを置き、テレビへ目を向けた。
「……あれが、この国の“正義”の形だ。俺たち一般市民の知らないところで、世界を回している」
美咲も画面を見つめたまま、小さく頷く。
「本当に大変なお仕事よね。災害の現場も、事件の対応も……みんな命を張って動いてるんだから」
彰は黙ったまま、その声を聞いていた。
テレビの光が畳の目を白くなぞり、壁の時計の影を長く伸ばす。
結界の光や崩れた瓦礫の向こうで、人を庇うインサイダーたちの背中が動いている。
その姿が、彰の中であの日の焔と重なった。
(俺も、いつか――あの背中に追いつきたい)
その瞬間、ニュースのトーンが変わった。
彰は眉間へ力を寄せ、スプーンを持ったまま動きを止める。
美咲も気づいたように手元へ目を落とし、指先にわずかに力が入った。
『続いてのニュースです。インサイダー養成学校・中等部の研修旅行で、四名の生徒が行方不明になっています――』
音量は変わらない。
それでも、その言葉だけが食卓へ重く落ちた。
制服姿の写真が、一枚ずつ画面へ映し出される。
速報帯の赤い文字が端をゆっくり流れ、さっきまで近くにあったカレーの香りが、急に遠く感じられた。
『六菱 小夜さん。(十五歳)』
彰の指へ、スプーンの重みが沈む。
『氏原 圭司さん。(十四歳)』
一拍置き、次の写真へ切り替わる。
『杉下 唯さん。(十四歳)』
スプーンを持つ手が止まる。
『アンナ・スミルノーワさん。(十五歳)』
笑っているはずの写真なのに、その表情だけが妙に遠い。
知らないうちに、スプーンを強く握り込んでいた。
男性キャスターが表情を引き締める。
『四人は先週末、関東山地で行われた野営研修の最中に姿を消しました。テントには私物が残され、争った形跡もなく、モンスターの痕跡も確認されていません』
女性キャスターも静かに頷いた。
『過去に例がなく、協会は事件と事故の双方を視野に捜査を進めています。状況は依然、見えていません』
『未来を担う生徒たちが突然姿を消しました。詳しい状況は、現在も確認中です』
食卓の空気が、ゆっくり冷えていく。
『はい。十五歳前後の子供たちです。ご家族やクラスメイトの不安は計り知れません』
『当日の周辺で不審な人物や異常を見た方は、インサイダー協会まで情報提供をお願いします。ホットラインは画面下です』
赤い帯に番号が流れ、静かな電子音が淡く続く。
窓の外を走る車のライトが障子を横切り、三人の影を一瞬だけ揺らした。
『若い命が無事であることを、心から願いたいですね』
『一刻も早い発見が待たれます』
キャスターたちが静かに頷き合い、画面は次のニュースへ切り替わっていく。
彰の肩に、知らないうちに力が入っていた。
「……中等部の……生徒……」
声は最後まで続かなかった。
「そんな……」
美咲のスプーンが、ぴたりと止まる。
そのまま膝の上へ手を置き、小さく息を吐いた。
誠は顎へ手を当てたまま、視線を落とす。
「六菱……やはり本家の娘か」
「六菱って、そんなにすごいの?」
彰が聞き返す。
「ただの金持ちじゃない。日本、いや世界の防衛を裏から支える一族だ」
誠はテレビを見たまま続けた。
「そのご令嬢が消えた。――ただ事では済まん」
美咲が茶碗を置く。
ことり、という小さな音だけが、静かになった食卓へ残った。
◇
その夜。
布団に横たわっても、眠気はなかなか来なかった。
天井の木目を目で追うたび、ニュースで映った四人の顔が浮かぶ。
笑っていた写真だけが、暗がりの中へ残って離れない。
遠くを走る救急車のサイレンが、夜の中へかすかに遠ざかっていった。
(インサイダーなら、全部助けられるって思ってた)
(でも……同じ学校のやつが、急にいなくなるなんて)
息を吐く。
けれどテレビへ向いた視線だけが、うまく離れなかった。
窓の外は静かだった。
蝉の声も遠のき、夜気だけが薄く部屋へ入り込んでくる。
それでも、胸の奥のざらつきだけは消えなかった。
布団の端を指先でつまむ。
知らないうちに力が入り、その皺だけが暗がりに残る。
――六菱。
その名前だけが、夜の静けさに沈んでいた。




