第15話:夕暮れに刻む誓い
――数日後・夕暮れ/龍胆家・庭
道場での稽古を終えたあとだった。
まだ腕には、突きと受けの感覚が残っている。
心体育成流の型を繰り返したせいで、肩から前腕にかけてじんわり熱が残っていた。
門下生たちが帰ったあとも、彰だけは庭へ残っている。
雨の匂いはもう消えていた。
テレビのテロップも、別の街名へ変わっている。
それでも、称賛の拍手と島の速報だけは、手のひらのまめみたいに生々しく残っていた。
(……ゆう、無事でいて)
ひんやりした土の匂いが漂う。
葉を揺らした風が肌を撫で、前腕の産毛がかすかに揺れた。
彰は道場の壁へ掛けてあった木刀を手に取る。
掌のまめが、ざらついた柄へ触れた。
握り直すたび、木肌の硬さがじわりと返ってくる。
その小さな痛みが、不思議と気持ちを落ち着かせた。
使い込まれた木の香りが、ふっと鼻をくすぐる。
(……まだ足りない)
柄へ添えた指が、無意識に強くなる。
彰は一歩、足を踏み出した。
ゲームでも、ずっと剣を選んできた。
御剣さんを見て、“ああなりたい”って思った。
焔さんには、「君は――立派なヒーローだ」と言ってもらった。
けれど――あの日、協会の壇上で言われた言葉は、それまでと少し違っていた。
『君の勇気に、心から感謝する』
『鍛え続けろ。君はきっと、いいインサイダーになる』
その声が、今も耳の奥から離れない。
表彰状を受け取った時の手ざわり。
御剣さんの手の重み。
拍手の音。
全部が混ざり合って、“ヒーロー”って言葉だけが強く残った。
彰は木刀を振る。
乾いた風切り音が、夕暮れの庭へ細く残った。
一度、あの型でゴブリンを倒せた。
その感覚だけが、今も足裏へ残っている。
彰は握る位置を何度もずらしながら、木刀の感触を確かめた。
「……もっと、強くならなきゃ」
奥歯を噛み、息をひとつ吐き出す。
肩と背中へじんわり熱が広がり、足裏には乾いた土の感触が返ってきた。
背筋が自然と伸びる。
その瞬間、巌の言葉がふっと頭をよぎった。
彰は木刀を振る。
まっすぐ、ただまっすぐ。
乾いた風切り音が庭へ抜け、張りついた迷いまで削っていくみたいだった。
振り下ろした木刀の先が、乾いた土をわずかに削る。
――あの言葉が、重なる。
『焦るな。足は、ちゃんと前へ出る』
誠に何度も言われた言葉。
『武の道に近道はない。だが、守りたいものから目を逸らすな』
巌から聞かされてきた教え。
握った木刀の柄へ、わずかに力が入った。
道場の壁へ掛かった文字が、腹の底で揺れる。
けれど――
声だけが思い出せない。
どんな響きだったのか。
どんな顔で言っていたのか。
そこだけが、霧みたいにぼやけていた。
言葉だけが、置き去りにされたみたいに残っている。
六歳のあの日、彰は誘拐された。
覚えているのは、白い光と、肺を締め上げるような恐怖だけ。
その空白を埋めたのは、あとから何度も聞かされた話だった。
木刀の柄が汗で滑る。
彰はぎゅっと握り直した。
掌のまめがちくりと痛む。
誘拐された自分を連れ戻して、家の玄関で――息を引き取ったと聞いている。
どれだけ思い返そうとしても、浮かぶのは言葉だけだった。
声だけが、どうしても思い出せない。
その空白だけが、胸の前に立ち塞がるみたいだった。
掌の痛みで、ようやく意識が今へ戻る。
名前を思い浮かべた瞬間、木刀の先がわずかに揺れた。
けれど、まぶたを閉じれば浮かぶのは、ゴブリンの濁った瞳だった。
陽菜の引きつった顔。
喉で止まった声。
風が一度だけ、庭の土を撫でていく。
(……本当に守れるのか。あの夜は、偶然じゃなかったのか……)
弱気な声が、歯の裏をかすめた。
それでも、木刀を振る腕は止まらない。
巌が守ってくれたこの命で、今度は自分が誰かを守る。
肩が熱を持っても、腕が震えても、彰は踏ん張って木刀を振り続けた。
足裏で土を踏みしめる。
振るたび、空気が鋭く擦れた。
荒くなった呼吸に合わせて、汗が顎から落ち、乾いた土へ吸い込まれていく。
その瞬間、あの日の感覚がまた蘇った。
生臭い息。
濁った瞳。
地面を揺らした足音。
背筋を冷たくなぞるような恐怖。
その向こうで、震えながら立っていた陽菜の横顔が夕日に照らされる。
かすかに残っていた笑みまで、はっきり思い出せた。
(……守りきれなきゃ意味がない)
吐いた息が、庭の風へほどけていく。
彰は一歩、前へ出た。
振り下ろした木刀が、ぴたりと止まる。
静けさが落ちた、その瞬間だった。
雲の切れ間から差した光が、木刀の先を淡く照らす。
「……ヒーローになれるか」
口にした途端、息が少し震えそうになった。
彰は奥歯を噛み、木刀の柄を強く握り込む。
「いや、“なる”。……絶対に」
掌へ熱がこもる。
焔さんの声が、頭の奥で重なった。
『君は立派なヒーローだ』
その言葉が、握った木刀へもう一度力を戻した。
熱を持った掌へ、木刀の感触が深く食い込む。
腕は重い。
それでも彰は、木刀を見つめたままゆっくり息を整えた。
笑われてもいい。
まだ未熟でもいい。
それでも――あの日守れた笑顔を、これからも守りたかった。
木刀を振り抜いた、そのときだった。
ふと、視線の端に小さな影が映る。
道場の柱の陰から、陽菜がこちらを覗いていた。
声をかけるでもなく、胸の前で指先を重ねたまま、じっと彰を見つめている。
「……陽菜」
思わず名前を呼びかけて、唇が止まる。
声をかければ、きっと笑ってくれる。
それでも、その一歩だけが出なかった。
彰は木刀の柄を握り直す。
そして視線を返さないまま、もう一度まっすぐ木刀を振った。
(……弱いとこ、見せたくない)
見られているからこそ、余計に強く振る。
陽菜はスカートの裾をきゅっと握りしめたまま、柱の陰で立ち尽くしていた。
一歩踏み出しかけては、またそっと引っ込む。
何か言いたそうに唇が揺れる。
その気配だけが、風みたいに背中を押した。
「大丈夫……行ける」
彰は自分へ言い聞かせるみたいに呟く。
痛みも、震える腕も、今は全部前へ出るためのものだった。
木刀の柄を握り直す。
振り抜いた瞬間、肩から腕へ熱が走り、足裏へ強く衝撃が返ってきた。
それでも、彰は止まらない。
どん、どん。
打ち込み台を叩く音が、夕暮れの庭へ規則正しく響く。
その向こうで、陽菜がそっと唇を動かした。
声は聞こえない。
けれど、その口の形だけははっきり読めた。
(アキ)
――呼ばれた気がした。
彰は振りを止めない。
呼吸だけを整え、もう一度まっすぐ踏み込む。
重心が、自然と前へ落ちた。
振り抜いた木刀が空を裂く。
その音に合わせるみたいに、陽菜の瞳がわずかに揺れた。
陽菜は小さくうなずき、胸の前で手を組む。
(大丈夫……わたしが見てる)
その気配が前にあるだけで、彰の動きは止まらなかった。
夕暮れの庭には、木刀の音だけが規則正しく残っていた。




