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アウトサイダー  作者: 君島極
第一章:灯が消えない場所 | 第三節:積み重ねる炎
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第13話:雨宿りの出会い

見下ろす高さの声が届く。


語尾が柔らかく跳ねる。


肩の力がふっと抜け、彰はそのまま振り向いた。


いちばん近くで、銀色の瞳と目が合う。


深い藍色の髪を二つに結んだ女の子が立っていた。


膝下のワンピースに、小さな鞄。


落ち着いた仕草のまま、やわらかく笑っている。


その瞬間、シトラス系の柔軟剤の香りがふわりと流れた。


二つ結びを留めた薄い水色のヘアゴムが小さく揺れる。


そこへ付いたしずく形のチャームが、照明を受けてかすかに光った。


(……お姉さん、かな?)


「大丈夫? もしかして、迷子?」


「……う、うん。はぐれちゃって……父さんと母さん」


「だよね。ここ、広いもん。私もさっき危なかった」


彼女は胸元のパスケースから、折り畳みの案内図を取り出した。


「どこ行きたいの? 出口? 受付?」


「受付に戻りたい。あと……大きいホールのほう」


「了解。たぶんこっちだと思う」


そう言って、彼女は彰の手をそっと取る。


強く引くわけでもないのに、不思議とそのまま歩幅が揃った。


その感覚だけで、足先の迷いが少しほどけていく。


雨の匂いに混じって、シトラス系の柔軟剤の香りがふっと漂った。


その残り香が、吸い込んだ息の中に静かに残る。


「あ、私、ゆう。中等部二年なの。あなたは?」


「龍胆彰です。……10歳」


「そうなんだ。しっかりしてるね」


その言葉だけで、背筋が少し伸びた。


ゆうは案内図を片手に歩き出す。


けれど時々、首を傾げて立ち止まった。


迷うたび、一度だけ息を挟んでから次の道を選ぶ。


その不思議な間の取り方に、彰も自然と歩幅を合わせていた。


「えっと……ごめん、こっちじゃなかった。戻ろう」


「たぶん……あの青い線、受付のほうだと思う」


「ほんとだ! 助かった」


顔を見合わせて笑う。


紙擦れの音が、指先で小さく鳴った。


窓越しの雨が淡く反射し、案内板の青が少しにじんで見える。


どこかで扉の閉まる重い音が響いた。


その中で、繋いだ手の温度だけがじんわり残っている。


張りつめていた気持ちが、少しずつほどけていった。


ゆうは案内図を見比べながら、何度か通路を曲がる。


そのたび小さく立ち止まり、首を傾げてからまた歩き出した。


「うーん……こっちじゃないな」


「えっと……あ、さっきの展示エリア見える」


「ほんとだ。じゃあ、もう近いかも」


雨音が少し遠のく。


代わりに、人の話し声や足音が少しずつ戻ってきた。


ゆうが顔を上げる。


「あっ、たぶんあっち!」


指差した先には、大きな案内表示と広い通路が見えていた。


彰も思わずそちらを見る。


そのまま通路を抜けた瞬間、視界が一気に開ける。


高い天井と、大きな掲示板。


人の気配が戻り、空調音に話し声が重なっていく。


「彰!」


美咲の声だった。


広報の人と並んで、誠と美咲が早足でこちらへ向かってくる。


美咲の歩幅が一気に大きくなり、そのまま彰の肩を抱き寄せた。


肩越しに、速い鼓動がそのまま伝わってくる。


誠は張っていた息をようやく吐き出し、安堵したように肩の力を抜いた。


「よかった……どこ行ってたの?」


「ごめん。展示、見てたら……迷っちゃって。お姉さんに連れてきてもらった」


彰が振り返る。


すると、ゆうの家族らしき三人もこちらへ駆け寄ってきた。


「ゆう! 心配したぞ」


「もう、勝手に行っちゃだめよ」


ゆうも少し申し訳なさそうに肩をすくめる。


張っていた空気が、そこでようやく一段ゆるんだ。


「息子が助かりました。本当にありがとうございます」


誠が深く頭を下げ、美咲も続く。


「いえ、お互い様です。うちのももう中学生で、つい大人と同じつもりで目を離してしまって……」


「こちらこそ。うちはまだ十歳で、助かりました」


ゆうの母がやわらかく微笑む。


その横で、広報の人も胸へ手を当て、ようやく安堵したように息を吐いた。


少し離れた場所で、彰はゆうへ顔を向ける。


ゆうも一歩だけ近づき、自然に視線を合わせた。


「あきらくん、インサイダーになりたいの?」


「うん。今日、表彰されて……」


彰は少し照れくさそうに胸のメダルを見せる。


ゆうは一瞬だけ目を丸くし、それからぱっと笑った。


「すごい。私もね、将来インサイダーになりたいの。養成学校の中等部に通ってるんだ」


「ほんと? じゃあ、いつか一緒に!」


その瞬間、ゆうの家族の後ろから柔らかな声がした。


「彰くん、だよね? さっき、取材で会った」


顔を上げると、黒髪の若い男性がカメラを提げて立っていた。


「あ……あの時の……記者さん!」


「覚えててくれたか。うちの妹が迷子になって、お世話になったみたいだね」


「あ、あの……俺のほうが助けてもらったので……!」


ゆうがその横へ駆け寄る。


「お兄ちゃん!」


その呼び方で、彰はようやく二人が兄妹なんだと気づいた。


指先へ、小さな熱が戻る。


空調の音が少し遠のき、自分の呼吸だけが耳の奥へ戻ってきた。


そのとき、兄のカメラのランプが点いた。


ピピッ、と小さな電子音が響く。


空気の焦点が合うみたいに、その場が少し静まった。


「せっかくだし、記念に一枚撮っておこうか」


兄がカメラを構える。


「えっ、いいんですか……?」


「もちろん」


ゆうが嬉しそうに彰の隣へ並ぶ。


兄はファインダーをのぞき込みながら、少しだけ立ち位置を直した。


「はい、こっち見てー……はい、チーズ!」


フラッシュが光る。


白い壁が、一瞬だけ昼みたいに明るくなった。


光が消えたあとも、ゆうの笑顔だけがまぶたの裏へ残っている。


カメラが短く確認音を返し、兄は背面モニターを見ながら微笑んだ。


「この一枚、ちゃんと残しておくよ。……また会えたら、見せる」


ゆうは胸元のパスケースへ触れ、その透明ポケットを指でとんとんと叩いた。


何かを大事にしまうみたいな仕草だった。


その横で、兄がカメラを下ろしてやわらかく笑う。


「ありがとう、彰くん。――きっと、またどこかで会えるさ」


「……はい!」


その瞬間、ホールの空調が一段だけ低く唸った。


「そろそろ行かないと。飛行機、間に合わなくなる」


ゆうの父が時計を見ながら声をかける。


「あ、そうだった。これから家族で奄美大島に行くの。海、すっごく綺麗なんだって」


「いいなぁ。気をつけてね、楽しんで」


ゆうは少し後ろを振り返り、明るく笑った。


「じゃあ、りんどう――あきらくん。インサイダーになったら――また会おうね」


彰は大きくうなずいた。


「……うん、約束!」


ゆうの両親が軽く頭を下げながら、傘を手に出口の方へ向かう。


ゆうもその後ろを追いかけながら、もう一度こちらを振り返って手を振った。


自動ドアの向こうでは、雨の光が淡く広がっている。


彰も大きく手を振り返す。


その姿が少しずつ遠ざかっていくのを、黙って見つめていた。


けれど、上げた手だけがなかなか下ろせない。


掌へ残ったぬくもりだけが、雨の気配の中でも消えずに残っていた。


「本日はありがとうございました」


広報の女性職員が、出口まで見送りに来てくれていた。


誠と美咲が頭を下げ、彰も慌てて続く。


「ありがとうございました!」


そのまま外へ出る。


雨はまだ細く降り続いていた。


ガラス越しに見えていた協会本部が、今は頭上へ大きく広がっている。


彰は思わず足を止め、もう一度だけ振り返った。


白い柱と青いラインを抱えた建物が、雨粒を反射しながら静かに空へ伸びている。


(……また来たい)


その気持ちだけが、雨粒の向こうに静かに残る。


次は、表彰される側じゃない。


ちゃんとインサイダーとして、この場所へ来たい。


そのときだった。


車寄せの先で、黒塗りのハイヤーのライトが静かに光る。


「あっ」


朝の運転手が、すでに車の横で待っていた。


帽子へ軽く手を添え、穏やかに笑う。


「お帰りなさいませ」


その言葉だけで、張っていた力が少し抜けた。


「よろしくお願いします!」


彰が頭を下げる。


「お疲れさまでした」


運転手はやわらかく微笑み、そのまま後部ドアを開いた。


彰たちは車へ乗り込む。


扉が閉まると、外の雨音が少し遠のいた。


ハイヤーは静かに動き出す。


窓の外では、協会本部の灯りが雨粒へ滲んでいた。


「どうでしたか? 本部は」


運転手がミラー越しに問いかける。


「すごかったです!」


彰はすぐ顔を上げる。


「御剣さんにも会えて、食堂もあって、訓練するところも見えて……!」


興奮したみたいに、言葉が次々に出てきた。


運転手は穏やかに頷く。


「それは良かった」


美咲も小さく笑った。


「ほんと、一日中目を輝かせてました」


「迷子にもなったけどな」


誠が苦笑する。


「うっ……」


彰が少し肩を縮めた。


そのやり取りに、運転手も静かに肩を揺らす。


ハイヤーは高速道路へ入った。


雨の向こう側で、協会本部が少しずつ遠ざかっていく。


その隣には、建設中の新本部が見えていた。


巨大な骨組みが、灰色の空へ静かに伸びている。


彰は窓へ額を寄せたまま、その景色を見つめていた。


少しだけ寂しい。


それでも視線は、遠ざかる協会本部からなかなか離れなかった。


(……インサイダーになりたい)


その気持ちだった。


朝よりも、ずっと強く手の中に残っている。


やがて車は住宅街へ戻っていった。


見慣れた景色が窓の外へ流れ始める。


気づけば、空も少しずつ暗くなり始めていた。



――龍胆家・リビング/夜


家の空気は、昼の雨の名残が消え、温かいお茶の香りで満ちていた。


テーブルの上には、表彰状とメダル。


御剣さんのサイン色紙はスタンドへ立てられ、その横には協会のロゴ入り黒いエコバッグがさりげなく置かれている。


彰は今日の出来事を、息継ぎも忘れる勢いで話していた。


御剣さんに会ったこと。


肩へ触れられた瞬間の重み。


カメラの赤いランプ。


展示エリアで見た剣の光。


迷子になって、ゆうが手を引いてくれたことまで。


「ゆうさんも、インサイダーになりたいって」


「まぁ。親切なご家族だったわ」


「しっかりお礼が言えてよかった」


誠は頷き、湯呑を持つ指先を少しだけ緩めた。


そのとき、つけたままのテレビから、聞き覚えのある名前が流れた。


『続いては、ゴブリンから幼馴染を守った小学生、龍胆彰君の話題です』


「えっ」


彰が勢いよく画面へ顔を向ける。


テレビには、壇上で表彰状を受け取る自分の姿が映っていた。


『龍胆君は先日、林へ現れたゴブリンに木刀一本で立ち向かい、襲われていた幼馴染の少女を救いました』


映像が切り替わる。


胸へメダルを掛けられ、緊張した顔で頭を下げる彰。


続いて、インタビュールームで答えている姿まで大きく映し出された。


『御剣さんや焔さんみたいに、みんなを守るインサイダーになりたいです!』


「うわっ……!」


彰は耳を赤くし、思わず顔を伏せる。


「ちゃんとできてるじゃない」


美咲は嬉しそうに画面と彰を見比べた。


「恥ずかしいんだよ……!」


その横で、誠も口元をわずかに緩めていた。


『インサイダー協会は、その勇気ある行動を称え、龍胆君へ感謝状を贈りました――』


映像がスタジオへ戻ろうとした、そのときだった。


甲高いチャイム音が、温かな空気を切り裂く。


ピロリロリン――。


テレビ画面が切り替わり、アナウンサーの表情が強張った。


『緊急ニュースです。先ほど、奄美大島で大規模なダンジョンブレイクが発生した模様です。現地のリゾート施設および周辺地域で、モンスターの侵入による被害が出ているとの情報……』


彰の手が止まる。


握っていたリモコンへ、一気に力が入った。


カチ、と不要なボタンを押してしまい、慌てて元へ戻す。


湯呑の縁が茶托へ触れ、コト、と小さく音を立てた。


テレビには、夜の海に滲む赤い点が映っている。


ヘリの揺れた映像が、何度も同じ海面を映し出していた。


画面がぶれるたび、残像だけがまぶたの裏へ張りつく。


走る人影。


波音みたいなノイズが重なり、映像がざらついた。


そのざらつきが、耳の奥まで入り込んでくる。


声が出ない。


(奄美大島……)


立ち上がろうとして、膝が空回りした。


座面がきしみ、背もたれへ肩が引き戻される。


さっきの笑顔。


二つ結び。


『綺麗な海なんだって!』


血の気が引き、指先が冷えた。


「父さん、母さん……! ゆうさんたち……!」


言い終わる前に、美咲の顔が蒼くなる。


「まさか……あんなに楽しそうに……」


「落ち着け。まだ断定はできない」


誠の声は低かった。


けれど、その目は画面へ釘付けになっている。


『現地の通信は断続的で、詳細は確認中。悪天候により、救助部隊の到着は遅れる見込みです――』


その言葉が、部屋の温度を一気に奪った。


お茶の湯気が細くなり、表彰状へ落ちる光まで冷たく見える。


彰は立ち上がろうとして、そこで動きを止めた。


昼間の熱だけが身体へ置き去りになったみたいに残っている。


息を吸おうとしても、途中で止まった。


(どうか……無事で)


彰は拳を握る。


喉の奥で、言葉にならない願いだけが何度も重なった。


『勇気、いいね。――その気持ち、ずっと忘れないで』


あの兄さんの声が、ざらついた画面の向こうで蘇る。


『――勇気を、忘れるな』


御剣さんの声も、同じ場所へ静かに重なっていった。


ふたつの言葉が胸の奥でひとつになり、小さな灯りみたいに残る。


今は、その光が暗い海の向こうまで届いてほしかった。


画面の海は遠い。


だから、握った拳だけはほどけなかった。


彰は画面を見つめたまま、ずっと拳を握り続ける。


指の跡が掌へくっきり残り、そこだけ少し熱を取り戻していた。



――その夜/龍胆家・彰の部屋


机の上には表彰状とメダルが並び、スタンドへ立てた御剣さんのサイン色紙が部屋の灯りを静かに反射していた。


テレビでは、夕方に放送された彰の表彰ニュースが、短いダイジェストで何度も繰り返されている。


スマホには《すごい》《ありがとう》の通知まで次々流れていた。


知らない誰かの言葉を見るたび、スマホを握る指へ力が入った。


(浮かれるな……でも、止まるな)


彰は机の引き出しから白い牙を取り出した。


掌へ乗せると、ひやりとした重さが返ってくる。


土の匂いや汗の塩気、あの瞬間の感触まで、まだ掌の上に残っていた。


窓を少し開ける。


夜風が入り込み、カーテンがやわらかく揺れた。


遠くでは車の音と犬の鳴き声が重なり、暗い夜空だけが静かに広がっている。


彰はノートを開き、“明日からやること”と書いた。


走ること。

木刀をもっと振ること。

逃げないこと。


思いついたことを、そのまま順番に書き足していく。


線でぐるぐる囲みながら、御剣さんの言葉を何度も思い返していた。


(焔さんに、また会った時、ちゃんとすごいって思われたい)


彰は立ち上がり、机の横へ立て掛けてあった木刀を手に取る。


握り慣れた感触が、掌へ自然と馴染んだ。


床を足裏で踏みしめ、狭い部屋の中で軽く構えを作る。


大きくは振れない。


それでも、踏み込みと重心移動だけをゆっくり確かめていった。


気づけば、背中へじんわり汗が滲んでいる。


それでも、不思議と足の運びは少し軽かった。


(陽菜も、父さんも母さんも、ちゃんと守れるようになりたい)


時計の針が静かに進んでいく。


彰はノートの端へ、もう一行だけ書き足した。


“負けない。逃げない。”


ぐっと力を入れたせいで、紙が少しだけへこんだ。


(明日は、少し早く起きよう)


木刀を元の場所へ戻し、部屋の明かりを落とす。


表彰状とメダルが、月の光を薄く返していた。


布団へ潜り込み、ゆっくり目を閉じる。


暗闇の向こうで、御剣さんの背中が遠ざかっていく。


その背中を、必死に追いかける自分の姿が浮かんだ。


眠りへ沈む直前、握っていた右手がふっとゆるむ。


(勇気を忘れない)


掌には、うっすら指の跡だけが残っていた。


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