第8話:夜に芽生えたおもい
――夜/龍胆家・彰の部屋→陽菜の部屋
家族とのやり取りを終え、彰は階段を上がった。
夕暮れの赤はもう消え、家の中には夏の夜の静けさが広がっている。
足取りは、少しだけ軽かった。
誠の言葉も、美咲の笑顔も、耳の奥へまだ温かく残っている。
けれど、自室のドアを閉めた瞬間だった。
今日一日の重みが、遅れて身体へ押し寄せてくる。
彰はドアノブから手を離しきれないまま、そのまま額を扉へ預けた。
肩で大きく息を吐く。
汗のぬめりが、まだ肌へ残っていた。
「……ふう」
静かな部屋に、自分の呼吸だけが小さく響く。
カーテンの隙間から入った夏の風が、熱の残る頬をゆっくり撫でていった。
彰は窓へ手を伸ばしかける。
けれど、そのまま取っ手へ触れる前に指を止める。
彰はベッドへ倒れ込み、そのまま天井を見上げた。
鼓動は、まだ少し速い。
耳の奥では、自分の脈打つ音がくぐもって響いている。
木刀を握っていた指の皮は裂けたままだった。
布団へ触れるたび、じん、と鈍い痛みが返ってくる。
擦り傷のひりつきも、服へ残った土のざらつきも、まだ肌の上へ残っていた。
彰は袖口を鼻先へ寄せる。
土と汗の匂いが、微かに立ちのぼった。
「……くっさ」
小さく声が漏れる。
それでも、彰は袖を鼻先から離さなかった。
土と汗の匂いに混じって、どこかまだ林の空気が残っている気がした。
ベッドへ身体を沈めたまま、天井をぼんやり見つめる。
(……あのとき、陽菜を守れたのって……たまたまだったのかな)
もし、一撃が外れていたら。
もし、足が動かなかったら。
そう考えた瞬間、枕の端をつかむ指が冷えた。
彰は両手を腹の上で重ね、そのまま息をゆっくり数え始める。
「いち、に……さん……」
数えるたび、さっきまで押し込めていた怖さが少しずつ浮かび上がってきた。
――あれで、本当に良かったのか。
彰は枕の位置を直し、指先でカバーの縁を何度もなぞった。
ざらりとした感触へ呼吸を合わせるみたいに、ゆっくり息を吐く。
閉じたまぶたの裏へ、ゴブリンの濁った目が浮かんだ。
迫ってきたときの重たい圧。
振り下ろされた腕。
思い出しただけで、背中の奥がひやりと冷える。
逃げたい、という感覚も確かにあった。
それでも、身体は前へ出ていた。
陽菜を守りたい。
その気持ちだけが、足を押していた気がする。
絶対に、あの背中を下がらせたくなかった。
みぞおちが重い。
うまく息を吸えないまま、シーツを握る指だけが固まっていた。
それが何なのかは、まだ分からない。
彰はシーツを握りしめる。
親指の爪が食い込むところまで力を込めても、握りしめたシーツの皺だけは、なかなかほどけなかった。
「……むだじゃ、なかったんだよな」
吐いた息が布団へ触れ、音になりきらないまま静かに抜けていく。
道場で心体育成流を習ってきたこと。
木刀を握り続けてきた時間。
ゲームの中で、気づけば剣のキャラばかり選んでいたこと。
シャドウボックスで、息が切れるまで何度も足を動かしていた感覚。
全部が、頭の中で少しずつ繋がっていく。
テレビの向こうで見てきた御剣や焔への憧れも、ずっと目の奥に焼きついていた。
踏み出した瞬間の感覚が、まだ足裏に残っている。
彰はゆっくり上体を起こし、そのまま背筋を伸ばした。
誠には怒鳴られた。
『無茶をするな、バカ者ッ!』
あの声が、まだ耳の奥へ残っている。
けれど、そのあとに落ちた言葉も忘れられなかった。
『……立派だった』
彰は胸元のTシャツをぎゅっと掴んだ。
怒鳴っていたはずなのに、そのあと一瞬だけ緩んだ誠の表情が頭へ残っている。
張っていたものが、そこで少しだけほどけた。
そして、焔の言葉も思い出す。
『君は……立派なヒーローだ』
夕日の逆光で、焔の表情はよく見えなかった。
それでも、あの声だけは、耳の奥へ真っ直ぐ残っている。
横では、涙をこらえきれない陽菜がこちらを見ていた。
その顔を思い出した瞬間、目頭が少し熱くなった。
彰はまぶたの端を指で軽くぬぐう。
ヒーロー。
テレビの向こうで見てきた焔や御剣の背中が頭へ浮かぶ。
彰は枕元のリモコンへ手を伸ばしかけた。
けれど、そのまま途中で止める。
「今は……いいや」
小さく呟き、手を引っ込める。
そのまま目を閉じた瞬間、頭の奥へ別の景色が浮かんだ。
インサイダー養成学校の訓練場。
剣を振る音が重なり、ぶつかり合った金属音が広く響いている。
踏み込むたび、熱い息が白く揺れた。
その列の中へ、自分も立っている。
隣では陽菜が笑い、凱がいつもの調子で肩を組んできた。
さらにその先には、まだ顔も知らない誰かたちの姿まで見える。
未来で出会う仲間たち。
その中へ、自分も立っている気がした。
彰は思わず身体を起こす。
床へ足をつけ、踏み込みを確かめるみたいに重心を落とした。
足裏が床を押し返す。
軸が、まっすぐ通る。
(もっと剣をがんばろう)
床を踏む足裏から、静かに熱が広がっていく。
(もっと強くならなくちゃ)
今日、震えながらも立ち向かった感触を、むだにしたくなかった。
次は、もっとちゃんと守りたい。
彰はベッドの縁へ座り直す。
そこへ木刀があるみたいに右手を握り、柄の感触を確かめるように指へ力を込めた。
「……よし」
小さく息を吐く。
さっきまで張っていた力が、少しずつ抜けていった。
それでも握った右手だけは、まだ熱を残している。
遠くで鳴る風鈴の音を聞きながら、彰はゆっくり布団へ潜り込んだ。
まぶたを閉じても、今日見た景色だけはまだ薄く残っている。
それでも、意識は少しずつ眠りへ沈み始めていた。
その途中だった。
ふいに、脳裏へ紅い花びらが一枚だけ舞う。
綺麗なはずの色なのに、一瞬だけ濁って見えた。
理由もなく、シーツに触れた背中がざらりとする。
けれど、その感覚も長くは続かなかった。
花びらは闇へ溶け、そのまま静かに消えていく。
外では、夏の風が街の灯りのあいだを静かに流れていた。
その風は遠く離れたもうひとつの窓をくぐり抜ける。
月明かりが、白いシーツの端を淡く照らしていた。
◇
――同時刻/陽菜の部屋
陽菜はベッドの上で膝を抱えていた。
同じ夏の夜空の下。
息だけが、喉の手前で何度も引っかかる。
灯りを落とした部屋は静かで、遠くを走る車の音だけがぼんやり聞こえていた。
カーテンの隙間から入った夜風が、熱の残る頬をそっと撫でていく。
それでも抱えた布団の皺だけは、まだほどけなかった。
陽菜はつま先を布団へ押し込み、小さく肩をすくめる。
外では虫の声が続いている。
その音を聞きながら、陽菜は深く息を吐いた。
「……はぁ」
考えないようにしても、意識だけが勝手にあの林へ戻っていく。
目を閉じた瞬間、暗い木立の景色が浮かんだ。
息が詰まる。
低いうなり声と、湿った土を踏む音が耳の奥へ蘇る。
あの気配が、また足元から這い上がってくる気がした。
陽菜は布団をぎゅっと抱き寄せ、そのまま額を押しつけた。
「……こわい」
小さく漏れた声が、すぐ闇へ溶けていく。
泣きそうになった、その瞬間だった。
『大丈夫。俺が前に立つ。守るから』
彰の声が、耳の奥へはっきり蘇る。
気づけば、目の前にはあの背中があった。
震えていたはずなのに、一歩も下がらない。
泥まみれになっても、何度でも立ち上がって、ずっと前に立っていた。
その姿が、頭から離れない。
陽菜は胸元を押さえ、小さく息を飲む。
「……アキ……ヒーローみたい、だった」
呟いた瞬間、頬が熱くなる。
布団をなぞる指先が、さっきまでとは違う理由で止まらなかった。
陽菜は指先で布団の上を何度もなぞる。
憧れだけじゃない。
尊敬とも、少し違う。
もっとあたたかくて、でも胸の奥をぎゅっとさせる何かが、ずっと残っていた。
息がうまく吸えない。
鼓動だけが耳の近くで鳴っているみたいだった。
「……これ……恋、なのかな」
言葉にした瞬間、心臓がどくんと跳ねた。
陽菜は慌てて顔を布団へ埋める。
足先だけが小さくばたばた揺れた。
「うぅ……どうしよう……」
布団へ顔を押しつけたまま、小さく唸る。
(これ……アキにバレたら……やだ)
怖かったはずなのに、頬の熱だけはまだ引かない。
泥だらけになっても、震えながら自分の前へ立ってくれた。
それでも最後まで、逃げなかった。
あの背中が、まだ頭から離れない
「……また、守ってくれる、かな……アキ」
小さく漏れた声が、静かな部屋へ溶けていく。
自分で言ったはずなのに、その響きだけで、枕を抱く腕にまた力が入った。
陽菜は枕を抱き直し、そのまま頬を押しつける。
「……私も……守れるようになりたいな」
息と一緒に、ぽつりと言葉がこぼれた。
窓の外を見上げる。
「……アキも、こんな夜に、なにしてるのかな」
夜風がそっと髪を揺らし、前髪の先が頬をくすぐる。
さっきまで冷たかった風が、今はどこかやわらかかった。
陽菜はカーテンの端を指でつまむ。
月明かりに落ちた膝の影だけが、まだ静かに揺れて見えた。
その名前を口にしただけで、頬の熱はなかなか引かなかった。
この気持ちが何なのか、まだうまく分からない。
それでも――
今夜のことだけは、ずっと胸に残る気がしていた。




