第4話:夏祭りに残る手の温度
――夕暮れ/夏祭りの通り
坂道を下りるたび、祭囃子の音が少しずつ大きくなっていった。
先を走る凱が「あった!」と声を上げ、陽菜も提灯の灯りを見つけて嬉しそうに駆け出す。
彰もその後を追いかけ、人の流れと夏の熱気が混ざる通りへ飛び込んでいった。
提灯の赤や橙の灯りが夕焼けへ溶け込み、風に揺れた光が足元へ長く伸びている。
屋台から流れてくる綿菓子の甘い香りと、ソースの焦げる匂いが混ざり、人の笑い声や呼び声が通りいっぱいへ広がっていた。
背の高い客が横を通り過ぎ、その足元を小さな子どもたちがするりと駆け抜けていく。
そんな人混みの熱へ押されるみたいに、彰の足取りも自然と速くなっていた。
「うわぁ……!」
思わず漏れた声に、美咲がくすっと笑う。
隣で歩きながら、彰の頭をぽん、と軽く撫でた。
「すごいねぇ。いつもより賑やかだ」
彰は撫でられた頭に手をやり、その感触を確かめる。
そのまま、提灯の列を見上げた。
「……なぁ、あれ、たこ焼きか?」
誠が前を歩きながら屋台を指さす。
その後ろで、巌がゆっくり頷いた。
「たこ焼きに、焼きそばに、綿菓子……。食べすぎるなよ、彰」
「たこ焼き! 焼きそば! ぜんぶ食べたい!」
「アキ、ほらほら、あっち金魚すくいだよ!」
離れたところから、陽菜の弾む声が飛んできた。
浴衣の裾を揺らしながら、桶へ向けて腕をぶんぶん振っている。
「りんご飴もあるぞ!」
凱も目を輝かせながら、提灯の並ぶ通りを指差した。
陽菜と凱のはしゃぐ声を追いかけるように、彰も人混みの中を歩いていく。
その少し後ろでは、美咲と誠が並び、さらに後ろから巌の下駄の音だけが静かに続いていた。
人混みの熱と屋台の湯気が混ざり合い、提灯の灯りが風へ揺れている。
呼び声と笑い声が絶えず重なる中、陽菜がきょろきょろと辺りを見回した。
そのときだった。
「あっ、見て! 金魚すくい!」
声を弾ませ、そのまま人混みの隙間へ駆けていく。
凱も「おっ、いいじゃん!」と肩をぶつけるように並び、彰も二人を追いかけて足を速めた。
最初の屋台は、金魚すくいだった。
水を張った大きな桶の中を、小さな赤い影がいくつも揺れている。
水面が提灯の光を反射し、きらきらと細かく瞬いた。
覗き込む人影が揺れるたび、光が水の上で途切れては繋がっていく。
「わぁ……!」
陽菜が身を乗り出した。
瞳が丸くなり、金魚を追うたびに体が小刻みに揺れる。
その勢いに押されるように、彰の足も半歩だけ前へ出た。
「やってみるか?」
後ろから誠が声をかけ、財布を取り出そうとする。
「……ええと、これじゃなくて……あ、こっちか」
慣れない屋台用の小銭入れを探しながら、誠の手が少しだけもたついた。
電子マネー用の端末を取り出し、屋台のおじさんへ差し出す。
読み取り音が、ぴっと小さく鳴った。
「お父さん、はい、ここタッチ」
横から美咲が自然に手を添え、画面を押す場所を指差す。
誠は一瞬だけむっとした顔をしながらも、そのまま素直に指を伸ばした。
「わ、わかってる……」
少しだけむくれた声で返しながら、端末へタッチする。
画面に「決済完了」の文字が表示された。
「はいよ、三人分な」
屋台のおじさんが、ポイを三つ差し出す。
「アキ、がんばって! 一匹くらいは取りなよ!」
陽菜は両膝をつき、ポイを握ったまま桶の縁へ身を寄せた。
期待で肩がぷるぷる揺れている。
「負けねぇぞ。俺は二匹だ!」
凱も隣へ並び、水面を睨む目だけがやけに真剣だった。
彰は小さく息を吐き、水面へ映った自分の顔を一度だけ見る。
提灯の光が揺れ、その奥を赤い影がゆっくり泳いでいた。
そっとポイを差し入れる。
金魚の尾が水を弾き、赤い影がふわりと横を抜けた。
力がうまく乗らない。
「……あ」
すくいあげた瞬間、紙が破れた。
水がぽたりと腕へ落ち、赤い影がするりと桶の中へ逃げていく。
「うぅ……」
彰の肩が落ちかけた、そのときだった。
「ほら、ここ。もっとこう、ゆっくり」
後ろから、美咲がそっと手を伸ばす。
小さな彰の手へ、そのまま優しく重なった。
角度がほんの少し変わり、水面の揺れが静かに落ち着いていく。
指先を伝う水の冷たさに、後ろから重なった手のぬくもりだけが残った。
息が喉で止まる。
次に吐いた空気が、提灯の灯りの下へゆっくりほどけていった。
「……とれた」
白いポイの真ん中で、小さな金魚がひとつ揺れている。
「やったじゃない、彰」
後ろから、美咲が嬉しそうに笑った。
「やった……!」
彰も思いきり胸を張る。
その横では、陽菜の袋に赤い影がひとつ。
凱の袋は、まだ空っぽだった。
「なんでだよ!? おかしいだろ!」
悔しそうに凱が叫ぶ。
その横で、陽菜は「ふふーん」と得意げに鼻を鳴らした。
胸へ抱えた金魚袋の中では、赤い影がゆらゆら揺れている。
少し離れた場所では、巌の視線だけが静かにこちらへ残っていた。
手を後ろで組み、小さくひとつ頷く。
提灯の灯りに照らされた口元へ、穏やかな笑みがふわりと浮かぶ。
そのまま人の流れに押されるように歩き出すと、通りの奥ではヨーヨー釣りの水面が揺れていた。
隣ではくじ引きの箱が鳴り、甘い匂いとソースの匂いが交互に鼻をくすぐっていく。
「次あれ! ヨーヨー!」
陽菜が先に駆け出し、そのあとを凱と彰も追いかけた。
屋台の並ぶ通りを歩くたび、提灯の灯りが肩や頬を赤く染めた。
人の流れに合わせて金魚袋の水が揺れ、袋の中の赤い影もゆっくり向きを変えている。
「あなた、綿菓子……買おうか?」
「お、おう。……子どもたちの分だけだぞ」
「なんで私が入ってないの」
美咲が肘で軽くつつく。
誠が言葉に詰まって視線を逸らした、その横で、美咲はくすっと笑いながら巌のほうを振り向いた。
「お父さんも、食べますか?」
巌は少し目を丸くする。
「……綿菓子か」
提灯の灯りを見上げるように目を細め、それから小さく頷いた。
「……うむ。頼む」
どこか照れたような返事に、誠が思わず呆れた声を漏らす。
「父さんも食うのかよ……」
そう言いながらも、口元だけは少し緩んでいた。
誠はそのまま屋台へ向き直る。
「五つで」
「はいよー」
屋台の奥で、小さな装置が低く唸る。
淡い光がくるりと走り、白い糸が宙へ細く引かれていった。
回転に合わせて糸が何層も重なり、綿菓子が少しずつ形を持っていく。
猫のかたち。
犬のかたち。
ふわふわのまま輪郭だけが整えられ、屋台の灯りを受けて白く揺れていた。
「かわいい……!」
陽菜の声が、ふわっと弾む。
やがて五本そろって手渡されると、美咲は受け取った綿菓子を見てくすっと笑った。
「ちゃっかり自分の分も入ってるのね」
「雰囲気が大事だ! 雰囲気が! なあ、父さん」
誠が振り返ると、巌も小さく肩を揺らす。
「……ああ。そうだな」
その返事に、誠の口元もわずかに緩んだ。
「ほら、彰」
少し遅れて、誠の手が綿菓子を差し出してくる。
「ありがとう、父さん!」
彰は嬉しそうに手を伸ばした。
その瞬間――足元の石畳のくぼみへつま先が引っかかる。
わずかに熱を持っていた地面が、足裏でずるりと滑った。
「あっ」
「ほら、危ない……!」
誠の大きな手が慌てて彰の肩を支える。
勢いのまま身体が引き戻され、次の瞬間、こつん、と額同士が軽くぶつかった。
「いってぇ……」
「……わ、悪い」
誠が気まずそうに視線を逸らす。
彰はおでこをさすりながら、手元の綿菓子を見つめた。
倒れそうになった拍子に、誠の手がまだ棒を支えたまま残っている。
口を開きかける。
けれど言葉になる前に、笑いのほうが先に漏れた。
「……大丈夫だよ、父さん」
その声に、誠もようやく小さく息を吐く。
「わぁ……!」
次の瞬間には、陽菜、凱、そして彰が一斉に綿菓子へかぶりついていた。
ふわふわの甘さが口の中でほろりと溶け、祭りの熱気とは違う柔らかな香りが鼻へ抜けていく。
彰は思わず頬を緩め、そのまま隣へ視線を向けた。
誠も、巌も、子どもたちと同じ高さまで綿菓子を持ち上げている。
口の端へ白い糸を少しつけたまま、二人とも黙って綿菓子をかじっていた。
その姿を見て、美咲がそっと笑う。
「……大きな子どもが、二人増えたみたいね」
優しい息と一緒に、美咲も綿菓子をひとくちちぎった。
口へ入れた瞬間、甘さがふわりと広がり、すぐに溶けて消えていく。
残った白い糸が指先へ絡みつき、丸めようとしたそばから熱で小さく潰れた。
「……おいしいわね」
柔らかな灯りの下で、綿菓子の甘さと人の笑い声が混ざり合う。
祭囃子の音が遠くで揺れ、人混みの熱がゆっくり通りを流れていった。
そのときだった。
通りの奥で誰かが立ち止まり、人の流れが一気に横へ逸れる。
肩が強くぶつかり、足元の砂がずるりと滑った。
「アキ、こっち見てくる!」
陽菜がぱっと顔を上げ、そのまま狐のお面が並ぶ屋台へ駆け出していく。
揺れた浴衣の裾が、人混みの間でぱたぱたと跳ねた。
「ちょっ、待てよ!」
凱も慌ててその後を追いかける。
「おい、離れ……!」
誠が手を伸ばすより早く、人の波が横から押し寄せた。
背中と肘がぶつかり合い、視界がざわつく。
踏み荒らされた砂が足元で滑り、祭囃子の音まで遠く濁って聞こえた。
息を吸おうとしても、うまく入ってこない。
提灯の灯りだけが、人の肩越しに揺れている。
「――っ」
陽菜のリボンが、人混みの奥へ消えた。
「陽菜!? 凱!? どこだ……!」
流れる背中の隙間を、必死に目で追う。
赤い帯を探しても、見えるのは知らない浴衣と肩ばかりだった。
「彰!」
その瞬間、美咲の手が彰の手首をぎゅっと掴む。
「離れちゃだめでしょ!」
強く言いながらも、握る手の強さには、はっきりと心配が滲んでいた。
「……ご、ごめん」
声は小さく、提灯のざわめきに少し震えて混ざった。
美咲はすぐ誠を振り返った。
「あなた! 私は彰といるから、陽菜ちゃんたちはお願い!」
美咲の叫びに、誠がすぐ頷いた。
「わかった! こっちは任せろ!」
そのまま誠は人混みへ踏み込み、巌も逆方向へ視線を走らせながら歩き出す。
「……凱! 陽菜!」
飛ばした声は、人の波へぶつかるように広がり、そのまま祭囃子とざわめきの奥へ呑まれていった。
美咲は彰の肩へ手を置き、人混みから少し外れた場所までゆっくり引いていく。
提灯の光が届く場所まで来ると、そのまましゃがみ込み、彰と目線を合わせた。
「迷子って、こわいよね」
「……うん」
彰が小さく頷く。
美咲は握った手へ、もう一度そっと力を込めた。
「大丈夫。手を離さなければ、絶対一緒にいられるからね」
その声を聞きながら、彰の指先へ少しずつ力が戻っていく。
ざわめきの奥から、聞き慣れた声が割り込んだのは、その直後だった。
「陽菜ちゃん、こっち!」
彰の肩がびくっと跳ねる。
次の瞬間、人混みの隙間から誠に手を引かれた陽菜と凱が飛び込んできた。
その少し後ろには、巌の姿も見える。
「ちょっと目を離すとこれだ……。離れるなって何度も言ってるだろ」
誠は陽菜の頭へ手を置き、少し強めに撫でる。
そのまま何か言いかけるように口を開き、けれど最後には小さく息を吐いた。
「ごめんなさい……」
陽菜が肩を縮める。
「……ごめん」
凱も気まずそうに下を向いた。
その空気を見て、巌が肩を揺らす。
「しゃーねぇな。次から気をつけろ」
その一言で、誠の肩から力が少し抜けた。
周囲のざわめきが、提灯の向こうへゆっくり遠ざかっていく。
彰は、美咲に握られた自分の手を見つめた。
遅れて残っていた手の強張りが、ほどけていく。
その手の温度だけは、しばらく消えなかった。




