第3話:小さな拳と、夏の風
――夏の午後/龍胆家・道場
バンッ。
小さな拳が空を裂いた。
乾いた音が道場へ弾け、手のひらへじんとした痛みだけが残る。
蝉時雨が降りそそぎ、夏の熱気が肌へまとわりついていた。
大きめの道着の袖が揺れる。
龍胆 彰は、息を切らしながらも構えを崩さなかった。
「……はぁ、はぁっ……!」
汗が顎を伝い、荒い呼吸へ畳の青い匂いが深く混ざってくる。
腕も足も重い。
それでも――踏み込みだけは止まらなかった。
小さなつま先が畳を踏みしめるたび、きゅっ、と乾いた音が返る。
少し離れた場所で、その様子を巌が腕を組んだまま見つめていた。
「……ほう」
低く漏れた声に、彰の肩がぴくりと揺れた。
けれど次の瞬間には、また拳が真っ直ぐ前へ伸びる。
巌は目を細めた。
まだ幼い。
身体だって、これから出来上がっていく年齢だ。
それなのに、踏み込みの軸がほとんどぶれない。
息が乱れても足運びだけは崩れず、打ち終わった身体が自然に次の構えへ戻っていく。
畳を踏むたび、重心だけが妙に静かだった。
「……すごいな、彰」
彰がはっと顔を上げた。
「じいちゃん……!」
巌はゆっくり近づき、そのまま畳へ片膝をつく。
汗で濡れた彰の肩へ、大きな手がそっと置かれた。
「その年で、ここまで形を保てる子は初めてだ。 お前はちゃんと、“心・体・気”を繋ごうとしてる」
「しん・たい・き……?」
息を弾ませたまま、彰が不思議そうに首を傾げる。
巌は小さく笑い、彰のみぞおちへ指先を軽く当てた。
「拳を腕だけで振ってない。ちゃんと、ここから力を通そうとしてる」
触れられた瞬間、幼い身体がびくっと揺れる。
重心が前へ崩れかけたところを、巌の手が静かに支えた。
そのまま、ゆっくり元の位置へ戻される。
「ここに力が通ると、倒れない」
「ここ……?」
彰は自分のみぞおちを両手で押さえ、こてんと首を傾げる。
「焦るな。心と体と……気(魔力)を、ひとつにするんだ」
「心・体・気……?」
「そうだ。それが心体育成流だ」
巌は笑みを浮かべたまま、汗だくの彰を見つめた。
「……お前みたいな子がいるなら、心体育成流もまだ終わらんな」
彰は意味が分からないまま、それでも嬉しそうに目を輝かせた。
巌はその表情を見つめたあと、ゆっくり畳の向こうへ顔を向ける。
「……昔な、じいちゃんがまだ若かった頃だ」
彰の胸の動きが、そこで止まった。
「仲間を守るために、どうしても退けない場面があった。
そのとき……拳の奥で“何か”が弾けた。
紫と黒が混じった光が、体の芯から走ったんだ」
「ひかり……?」
彰は目をまん丸にしたまま、思わず前へ身を乗り出す。
「魔力を、拳から直接放ったんだ。 ワシが長く追い求めてきた――一悲願だった」
巌はそこで一度言葉を切った。
遠くで蝉の声が重なり、道場の熱気だけが静かに残る。
「……だがな、あれは一度きりだ。 二度と再現できなんだ」
畳へ落ちた視線が、そのまま動かない。
「今ではもう、流派の奥に残る“昔の話”になっとる」
彰は瞬きも忘れたまま、巌の口元だけを見つめていた。
紫黒の光。
仲間を守るための、一撃。
幼い彰は、知らないうちに拳をぎゅっと握りしめていた。
「じいちゃんみたいに……なりたい!」
その声に、巌は驚いたように目を丸くする。
けれど次の瞬間には、照れたように頬をかいて笑った。
「そりゃ……照れるな」
巌が頬をかいた、その直後だった。
扉が鳴る。
「彰。麦茶……持ってきたぞ」
ぎこちない声に振り向くと、父――龍胆 誠が、コップに入れた麦茶を持って立っていた。
腕は太い。
体格も大きい。
それなのに、表情の作り方だけはどうにも不器用だった。
「ほ、ほら……こぼすなよ?」
「父さん……自分で飲める!」
彰がむっと頬を膨らませる。
「……さっき畳にぶちまけただろ」
「こ、この前はたまたま……!」
誠が小さく息を吐き、巌は肩を震わせて笑った。
彰は顔を真っ赤にしながら両手でコップを受け取る。
慎重に口をつけた拍子に、冷えた麦茶が喉を通り、熱くなっていた身体が少しだけ落ち着いた。
そのときだった。
扉がガラッと勢いよく開く。
「アキー!! 迎えに来たぞ!!」
獅子堂 凱が、氷タオルを首に巻いたまま道場へ駆け込んできた。
走るたびタオルがぶんぶん揺れ、足元が少しもつれる。
「凱くん、待ってよ! 早いって!」
続いて虹咲 陽菜が顔をのぞかせた。
白いワンピースに、金の髪飾り。
揺れたスカートの裾まで、どこか落ち着かない。
陽菜はそのまま小走りで彰の元へ駆け寄ってきた。
「アキ! 準備できてる? 一緒に行こーっ!」
「早くねぇよ、陽菜が遅いだけだろ!」
凱が振り返って言い返すと、陽菜は胸を張ってにやっと笑う。
「さっき待ってくれーって言ってたじゃん!」
「言ってねぇ!!」
道場へ笑い声が広がる。
巌は肩を震わせ、誠も「……まったく」と呟きながら口元を緩めていた。
そのまま巌は立ち上がり、用意していた水を三人へ配っていく。
道場の隅では、小さな冷蔵庫が低く唸り、その隣の壺へ刻まれたルーンが淡く光っていた。
白い霧が水面へ薄く揺れ、近づくだけで空気がひんやり変わる。
陽菜が興味津々な顔で壺を覗き込んだ。
そのまま両手を側面へ添えた瞬間、
「ひゃっ!」
陽菜が肩を跳ねさせた。
「ねぇアキ! こっち、めっちゃ冷たいよ!」
誠は壺と冷蔵庫を見比べながら、小さく肩をすくめる。
「魔力が切れたらぬるくなるんだ。冷蔵庫のほうが安定してる」
その言葉へ、凱がすぐ胸を張った。
「でも停電したら終わりだろ。魔導壺は……巌さんが魔力入れればもつし!」
巌は笑いながら壺の縁を指でなぞる。
刻まれたルーンがふわりと光り、陽菜はその光を追いかけるみたいに顔を傾けた。
「どっちにも良さがあるんだ。だから“両方ある”と強い」
その言葉に、誠も小さく息を漏らす。
「……まぁ、それはそうだな」
道場へ、蝉の声がまた戻ってくる。
そのとき――道場の隅へ置かれた小さなテレビが、不意にニュース映像へ切り替わった。
『――福島県・崎川浜ダンジョンにて、微弱な“ブレイク兆候”を観測。インサイダーたちが、現地へ向かった模様です』
画面には、立入禁止テープの前で動き回る戦闘服姿のインサイダーたちが映っていた。
巌はそちらへ静かに目を向け、リモコンで音量を少し下げる。
その間にも、画面の端へ短いテロップだけが一度流れていった。
《――第三地区で誘拐の可能性。現在調査中》
誠の眉がわずかに動く。
だが巌は、すぐに視線を戻した。
「……騒ぐほどじゃねえ。兆候なら、よくある」
そう言いながらも、リモコンを持つ手だけが一瞬止まる。
けれど子どもたちの意識は、もうニュースではなく、淡く光る魔導壺のほうへ向いていた。
白い霧の向こうでルーンが揺れる。
その光を見た瞬間、陽菜がぱっと前へ飛び出した。
つま先で床を蹴り、そのまま巌の前へ身を乗り出す。
髪飾りが、しゃら、と軽く鳴った。
「ねぇ巌さん! 魔法おしえて!! 炎とか光とか――どかーんってやつ!!」
陽菜は両手をめいっぱい広げ、勢いそのままに“どかーんポーズ”を作る。
その様子に、凱が吹き出した。
「お前が魔法使ったら、家ごとどかーんだろ」
「しないもん!! ……たぶん!!」
陽菜がむっと頬を膨らませる。
その横で、彰も小さくうなずいた。
「陽菜なら……どかーん、だな」
「アキまで!? ひどっ!」
ぷんぷん怒る陽菜を見て、道場へまた笑い声が広がる。
巌は苦笑しながら後頭部をかき、陽菜の目線へ合わせるように腰を落とした。
「悪いな、陽菜ちゃん。わしには“教える免許”がないんだ」
「めんきょ?」
「魔法を教えるのには、国の許可がいるんだ。勝手に教えたら……牢屋行きだ」
「ろ、牢屋!? えええっ!!?」
陽菜の肩がびくんっと跳ねる。
「ねえ、見せてよ! 一回だけ! お願い!」
勢い余って身を乗り出し、そのままよろける。
小さな手が、巌の袂をちょんと掴んだ。
凱は腹を抱えて笑い、彰もつられるように吹き出す。
「やっぱ陽菜は牢屋だな」
「なんでよ!!」
陽菜が一歩踏み出し、頬をふくらませる。
「だって魔法使った瞬間、吹っ飛ばしそうだもん」
「吹っ飛ばさないもん!! もう! 二人とも絶対ひどい!!」
ぷんぷん怒っていても、陽菜の目はキラキラしていて――
巌はその光景を眺めながら、穏やかに目を細めた。
「……そんなに見たいか」
その声に、三人が同時に顔を上げる。
巌は苦笑まじりに肩をすくめた。
「見せるだけなら、問題ないか」
そう言って、指先を軽く立てた。
次の瞬間、小さな火がぽっと灯る。
炎は指先の上でゆらゆら揺れ、風もないのに呼吸するみたいに静かに形を変えていった。
近づいた頬へ、わずかな熱だけがそっと触れる。
「わあ……!」
陽菜が思わず一歩踏み出した。
伸ばしかけた手が、炎の熱へ気づいて途中で止まる。
彰も、目を見開いたまま火を見つめていた。
揺れる赤の奥で、ほんの一瞬だけ違う色が滲んだ気がした。
巌は何も言わないまま、小さく息を吐くように火を消す。
消えたあとも、熱だけが指先へわずかに残っていた。
「陽菜ちゃんが魔法使いになりたきゃ……大きくなって“養成学校”に行くんだぞ」
「……うん! 絶対いく!!」
陽菜が胸を張って宣言した。
その勢いにつられるみたいに、彰と凱もぐっと拳を握る。
三人とも、同じみたいに拳を握っていた。
そのときだった。
外から、どん、どん、と太鼓の音が響いてくる。
陽菜がぱっと顔を上げた。
「ほらアキ! お祭り始まっちゃうよ! 行こっ!」
凱も負けじと拳を突き上げる。
「りんご飴! 絶対食う!」
その声へ引っぱられるみたいに、彰もぱっと巌を振り返った。
気持ちが先に走り、足が半歩前へ出る。
「じいちゃん……行っていい?」
巌は優しく頷いた。
「もちろんだ。稽古は十分。……着替えてこい。わしも行くぞ」
「やったぁ!!」
三人の声が重なった、その直後――廊下の奥から軽やかな足音が近づいてきた。
「みんな、準備できてる?」
母・美咲が、夕陽みたいな笑顔で顔を出した。
「着替えてくる!」
彰はそう言って、慌てて家のほうへ駆けていった。
その背中を見送りながら、陽菜は嬉しそうに美咲へ飛びつく。
「美咲さん! お祭り楽しみ!」
「ふふっ、いっぱい食べようねぇ」
凱はその様子を見ながら、少し照れくさそうにそっぽを向いた。
誠は小さく息を吐き、視線だけを三人へ向ける。
「……汗、拭いてけ」
「あとでやるー!! 待ってー!!」
家の奥から彰の声が返ってきた。
ばたばたと慌ただしい足音が近づき、着替えた彰がそのまま廊下を駆け戻ってくる。
誠は三人の前へ出ると、彰の襟元をそっと整えた。
「……転ぶなよ」
彰は少し照れながら頷く。
「うん!」
次の瞬間には、三人そろって道場を飛び出していった。
重なった足音が庭を駆け抜け、夕方の風だけが少し遅れて吹き込んでくる。
「転ぶなよー!」
誠の声が後ろから飛ぶ。
「ちゃんと待ってなさいよー!」
美咲も笑いながら続いた。
陽菜は振り返って大きく手を振り、凱も「はやくー!」と叫びながら先へ駆けていく。
巌は肩を揺らして笑い、ゆっくり立ち上がった。
「……まったく、元気なもんだ」
縁側へ出た風が風鈴を揺らし、ちりん、と小さな音が鳴る。
そのまま誠と美咲も後を追い、巌も麦わら帽子を手に取って外へ出た。
夕焼けに染まった坂道の向こうでは、祭囃子の音が少しずつ近づいてくる。
三人の笑い声は、その音へ混ざるみたいに夏の通りへ広がっていった。




