第2話:刻まれた終焉
――空に、世界の終わりが刻まれていた。
駅前で誰かが汗を拭きながら空を見上げる。
「……暑っ」
帽子のつばをつまみ直し、額へ当てた缶の冷たさに小さく息が漏れた。
夏の陽炎が駅前広場を揺らし、舗装路は灼けた空気をじわじわ照り返している。
まとわりつく湿気が首筋へ張りつき、背中の布もなかなか離れない。
誰も大きな声を出さないまま、駅前には夏の重たい空気だけが残っていた。
「氷、入れ忘れた?」
「いや、もう全部溶けたよ」
カフェでは人間の学生に混じって、尖った耳のエルフの少女が氷を鳴らして笑う。
屋台からは香ばしい匂い。
火の代わりに灯された小さな魔導石が、赤く脈打っている。
観光客らしき体格のいいドワーフの一団がタブレットの地図を覗き込み、ビジネスマンは通話を切ってため息をついた。
「ここ曲がれば近いらしい」
「ほら、合ってるって」
老夫婦はベンチで団扇をあおぎ、小さな子が母の手を引いて、水遊びをせがむ。
「ちょっとだけね」
「やった!」
何人かの目が、同じ方向へ揃う。
母親はベビーカーの影を動かし、日傘の角度を少しだけ変えた。
頭上を、浮遊電車が静かにすべり抜けていく。
「見て! あれ新型だ」
誰かの声が上がった。
車体のルーンが青白く明滅し、通過の瞬間だけ、ひんやりした風が頬へ遅れて触れる。
足元では、舗装路の補修跡へ魔導の紋様がうっすら残っていた。
その上を踏むたび、熱がほんの少しだけやわらぐ。
科学と魔法が、当たり前みたいに隣り合っている街だった。
信号が青へ変わる。
列が一歩前へ詰まり、揃った靴音が舗装路を乾いた音で叩いた。
流れは止まらない。
視線だけが頭上の電車から外れ、また人波と信号の動きへ引き戻されていく。
「でも、見たくないのに、つい見上げちゃうよな」
だが、その空には誰もが逸らせない刻印があった。
サングラスを押し上げる指が、陽に透ける。
雲ひとつない青空の真ん中に、巨大な滅亡時計。
「でか……」
ルーンと数列が組み合わされた表示盤は不気味な白光を放ち、街路樹の影を夜のように濃くした。
数列は、ゆっくりと減っている。
「今……何か、ズレた?」
「気のせいじゃない……音がする」
鉄が擦れるような低い電子音が広場へ響き、その余韻だけが長く残った。
一瞬だけ、広場の空気が止まる。
見上げていた人々の表情も、その場へ置き去りになったみたいに動かない。
隣の人間と目が合う。
けれど、誰も何も言わないまま視線だけが逸れていった。
足裏へ、舗装路の熱が遅れて戻ってくる。
広場の喧騒も、やがて何事もなかったみたいに元の高さへ重なり始めた。
――滅亡時計。
目を逸らしても、視界の端から消えなかった。
「なんなんだ、あれ」
「人類の罰だろ」
その直後、誰もその話を続けなかった。
人々は足を止めたまま、視線だけをスクリーンへ残している。
広場のざわめきまで、一瞬だけ遠のいた気がした。
握り直された買い物袋だけが、きゅっと小さく鳴る。
やがてスクリーンのカウントダウンが消え、代わりに過去の記録映像が流れ始めた。
記念番組か何からしい。
『――あの日から、すべてが変わった』
ノイズの走る映像の中で、裂けた街の奥から深淵みたいなダンジョンが口を開いていた。
その闇から、異形の群れが次々とあふれ出してくる。
巨影が空を覆い、炎の翼が都市を焼き払った。
黒い鱗の巨体が波頭を砕くたび、地響きみたいな低音が広場の空気まで震わせる。
滅亡時計の数列へ、赤黒いノイズが走った。
点滅する避難誘導の矢印を追い、人々が手を取り合って駆けていく。
そのすぐ隣では、屋台の鉄板からソースの甘い匂いが立ちのぼっていた。
スクリーンの中の惨状とは、不釣り合いなくらい平和な匂いだった。
『人類は理解した。この時計はもう、幻ではないと』
しかし――その反応も、長くは続かない。
「慣れって怖いよね」
視線は長く続かず、すぐにスマホと今日の予定へ戻る。
頭上の滅亡時計は、細部の数列までは拾えない。
駅前の巨大スクリーンに、同じ数字が常時表示されている。
視線が、自然とそこへ吸い寄せられる。
画面隅に〈速報/一次報〉の白い小札。
テロップ下には小さく〈※捜査継続中〉。
『世界滅亡まで、あと29年358日15時間32分10秒』
『……9秒』
『……8秒』
テロップの年数だけが、現実の時間としてうまく飲み込めなかった。
秒は刻み続けている。
それなのに、その重さだけがどこにも落ちてこない。
「はい、また減りましたー」
乾いた笑い声へ、ストローでグラスをかき混ぜる音だけが重なった。
カフェでケーキをつついていた女性たちが、無造作に空を見上げる。
「……また減った」
「もう七十年もこんな調子でしょ」
「ゼロになったら何が起きるんだか」
「どうせインサイダー協会の予算目当てよ」
肩をすくめたまま、フォークの先で苺を転がす。
氷だけが、グラスの底でちり、と鳴った。
通りがかりのサラリーマンも、額へハンカチを押し当てながら苦笑する。
「世界の終わりより、今月の締切の方が近いんだが……」
ネクタイをゆるめ、そのまま革靴で地面を軽く蹴った。
少し離れた場所では、杖をついたオークの老人が空を見上げている。
「……また短くなったな」
杖先が石を擦り、乾いた音が小さく途切れた。
「これは……神の罰じゃ……」
その声も、夏の蝉時雨へ紛れて消えていく。
ベンチの影では、人々がペットボトルを傾けながら、ただ目の前の暑さだけを気にしていた。
その空気を引き裂くみたいに、突然ノイズが走る。
耳を裂く警報音が、街へ重なった。
「え、なに」
「アラート?」
広場のスクリーンが真紅の閃光へ染まり、映像が切り替わる。
人々の首が一斉に上を向いた。
飲みかけの手まで空中で止まり、広場のざわめきだけが一瞬遅れて消えていく。
次の瞬間、スクリーンへ粉じんの舞う崩落現場が映し出された。
その上を、赤いテロップが走る。
《ダンジョンブレイク発生》
《対象エリア:第三区画・市街地》
逃げ遅れた人影の中へ、ひとつの影が割り込む。
少女を抱えて走る男の姿――。
――獅子堂 焔。現役Aランクインサイダー。
「焔様だ!」
「さすが……あんな状況で子どもを!」
拍手が起こり、隣で誰かが口元を押さえる。
瓦礫を飛び越えた刹那、焔は少女を片腕で抱えたまま、迫る火花を手で払い落とした。
焔の掌から、淡い橙色の光が輪みたいに広がる。
次の瞬間、空気が内側から弾けた。
ひと呼吸遅れて衝撃が走り、迫っていた火花がまとめて散っていく。
「今、光った……魔法だ!」
肩車の少年が息をのむ。
「速っ」
「今、素手で?」
広場に歓声が満ち、少年は口を開けたままスクリーンへ見入っていた。
「……すごい……」
「父ちゃん! 俺もインサイダーになる!」
父親は一瞬目を丸くし、それから笑いながら少年の頭をくしゃりと撫でる。
「おお、言ったな。なら、強くなれよ」
掌の温かさへ、少年の熱がそのまま重なった。
スクリーンの中では、焔が燃え上がる街の中を迷いなく駆け抜けている。
その姿を見上げる人々の目には、確かに“光”が映っていた。
そのときだった。
映像が一度だけ大きく乱れる。
白いノイズが走り、次の瞬間、けたたましい警報音と一緒に赤黒い警告表示がスクリーンを覆った。
「え、なにこれ」
「緊急速報……?」
紙袋を持つ手に力が入り、袋が指から滑りかける。
《――緊急速報》
《テロリスト集団“アウトサイダー”出現情報》
一瞬で、空気が凍りついた。
湧き上がっていた歓声が、冷水を浴びせられたみたいに消えていく。
老夫婦は顔を見合わせ、団扇の動きを止めた。
「……またあいつらか」
「病院まで停電になったらしい」
「世界を壊す連中だ」
スマホを見つめる人々の表情が、少しずつ硬くなっていく。
ドワーフの母親は子どもの目をそっと覆い、低い声で囁いた。
「……大丈夫、気にしなくていいわ」
子どもは不安そうに服の裾をつかみ、そのまま胸元へ顔を埋める。
光と影。
英雄とテロリスト。
世界は単純な二元論で語られていた。
「結局、全部あいつらのせいってことにするんだ」
誰かがそっと空から視線を外し、足もとを確かめるように一歩を踏みしめた。
その動きは、広場の人波へ自然に溶けていく。
片隅では、ひとりの青年が胸元へ手を当て、一度だけ立ち止まっていた。
袖口から覗いた銀の鎖が、滅亡時計の赤い光を一瞬だけ反射する。
「……行くか」
呟いた声は、熱を帯びた空気へそのまま消えていった。
青年は懐中時計の蓋を閉じ、そのまま群衆の中へ紛れていく。
歩き出した瞬間、その瞳に金色の光がかすかに揺れた。
人々は、その数字の意味から目を逸らしたまま、また日々の暮らしへ戻っていった。
スクリーンの速報が一度だけ途切れた。
次の音は、空から直接落ちてきた。
『――世界滅亡まで、残り、29年と、358日と、14時間と、21分と、8秒です』
無機質なのに、どこか綺麗すぎる女性の声だった。
空から直接、頭の内側へ響いてくる。
その瞬間だけ、街の音が止まった。
歩いていた人々が足を止め、誰もが反射みたいに空を見上げた。
けれど次の瞬間には、また人の声と喧騒が重なり始める。
滅亡時計だけが、変わらず夜空で秒を刻み続けていた。




