第6話:英雄の言葉
――夕方/家の裏の林→龍胆家
太陽は傾き、木々の影が長く地面に伸びている。
帰り道のアスファルトも、さっきより少しだけ熱がやわらいでいた。
歩くたび、膝の奥がずきんと鳴る。
陽菜は、まだ彰の袖をつかんだままだった。
震えは少し落ち着いたのに、指先だけはなかなか離れない。
彰は歩幅を落とし、遅れて隣へ並ぶ。
夕日が、二人分の影を前へ細く伸ばしていた。
「ねえ、アキ」
陽菜が、小さく袖を引く。
「……もう、ひとりで、ああいうのに向かっていかないでね」
横から向けられた瞳は、まだ少し潤んでいた。
「今日だって……すごく、こわかったんだから」
「……わかってる」
彰はうなずき、握られている袖の上からそっと手を重ねる。
「でも……守りたかったんだ」
陽菜は一瞬だけ目を見開いた。
それから困ったように、それでもどこか嬉しそうに笑う。
「……もう。そんなこと言うの、ずるい」
陽菜が小さく笑う。
そのまま二人の歩幅が自然と揃っていった。
泥と汗の匂いに混じって、薄く残った血の臭いが風へ流れていく。
膝はまだ痛む。
指の痺れも、こめかみの奥に残った違和感も消えてはいない。
それでも、彰は一歩ずつ前へ足を運んだ。
つないだ手が一度だけ小さく揺れる。
陽菜の指先は少し冷たいのに、手のひらだけが妙に熱かった。
やがて林を抜け、小さな家の屋根が見えてくる。
その瞬間、張っていた肩の力がほんの少し落ちた。
「……もう、着いたんだね」
「うん。……帰ってこれた」
言葉にしただけで、足取りが少しだけ確かになる。
彰は靴底を草むらへ軽くこすりつけ、そのまま門へ向かった。
玄関を開けた瞬間、奥から誠が駆けてくる。
険しい顔で彰と陽菜を見た、その次の瞬間だけ、眉の力がわずかに抜けた。
腰へ手を当て、ひと息つく。
けれど次の瞬間には、もう彰の肩へ手が伸びていた。
「……彰! こんなに遅くまでどこに行ってた! 怪我してるじゃないか!」
最後の言葉だけ強くなる。
視線は泥だらけの服と傷へ吸い寄せられていた。
その後ろでは、美咲も不安そうに立ち尽くしている。
「陽菜ちゃんの家にも連絡したけど、誰も知らないって……!」
声が少し震えていた。
彰は息を整えようとする。
けれど、言葉が途中で何度も引っかかった。
「……裏の林で……出てきて……ゴブリンで……俺が倒した」
言葉がうまく繋がらない。
それでも彰は、息を挟みながら必死に説明した。
陽菜をかばったこと。
夢中で木刀を振ったこと。
倒したあと、牙が残ったことまで。
「これ……」
彰はポケットから白い牙を取り出し、掌へ乗せて見せる。
震える指先を、もう片方の手でそっと押さえた。
誠は何も言わず、それを見つめていた。
一度、陽菜へ視線を向ける。
それから、もう一度彰へ戻した。
強く握っていた拳が、ゆっくりほどけていく。
胸の前で指を組み、深く息を吐いた。
やがて、誠の拳が彰の額へ落ちる。
「無茶をするな、バカ者ッ!」
鋭い声だった。
けれど、落ちてきた拳骨は思ったよりずっと軽い。
額の痛みより、誠の震える声のほうが耳の奥へ残った。
「……うん」
彰は背筋を伸ばし、短くうなずく。
誠はしばらく何も言わなかった。
それから、ようやく押し殺すみたいに息を吐く。
「本当に……無事でよかった。お前が、ちゃんと戻ってきてくれて」
低く落ちた声と一緒に、肩がわずかに震えた。
額へ置かれた手が、そのまま傷を確かめる手つきへ変わっていく。
「ごめんなさい。でも……陽菜、助けなきゃって……!」
彰の声も少し震えていた。
隣で陽菜が小さくうなずき、そのまま一緒に頭を下げる。
「ごめんなさい……」
涙でかすれた声が、静かな部屋へ落ちた。
「アキがいなかったら、私……」
最後まで言葉にならない。
陽菜は服の裾をぎゅっと握りしめる。
彰はその手へそっと触れ、代わりに指を握った。
その瞬間、台所のほうから美咲が駆け寄ってくる。
「よかった……ふたりとも……ほんとによかった……!」
そのまま彰と陽菜をまとめて強く抱きしめた。
腕の中は温かい。
強張っていた肩が、ようやく少しだけ下がった。
陽菜の肩が小さく震え、そのすすり泣きが服越しに伝わってきた。
彰も思わず腕を回し、美咲の背中へしがみつく。
伝わってくる鼓動が、少しずつ落ち着いていった。
こめかみの奥がつんと痛む。
彰は長く息を吐き、熱くなった目元を指先でそっと拭った。
その様子を見つめていた誠が、静かにスマホを取り出す。
「今日は家にいるはずだ……」
小さく呟きながら番号を押す指が、いつもより少し速かった。
呼び出し音が短く鳴る。
「ああ、焔。裏山にモンスターが出た。ゴブリンだ。彰が仕留めた。現場は林の奥――」
誠はスマホを耳へ当てたまま、相手の返答へ短くうなずく。
その横顔には、まだ緊張の色が薄く残っていた。
(焔さん……)
名前を聞いた瞬間、彰の肩が少しだけ引き締まる。
誠は何度か短く言葉を返し、やがて通話を終えた。
静かになった部屋へ、時計の秒針の音だけが落ちる。
誰もすぐには口を開かなかった。
その沈黙を破るみたいに、しばらくして庭のほうから重い足音が近づいてくる。
玄関の影が大きく揺れ、金属の留め具が小さく鳴った。
現れたのは、スーツの上からでも分かる鋼みたいな体格と、鋭い目をした男――獅子堂焔。
凱の父であり、インサイダーとして知られる存在だった。
「……まずは、無事でよかった」
焔の視線が、彰と陽菜を静かに行き来する。
それからゆっくり彰の前へ歩み寄り、自然に目線を合わせるよう少しだけ腰を落とした。
大きな手が、彰の肩へ置かれる。
「彰君。陽菜ちゃんを守ってくれて、本当にありがとう」
「い、いえ……俺……夢中で……」
舌が上顎へ張りつき、言葉が途中で止まる。
彰はつばを飲み込み、一度だけ視線を落としてから、もう一度焔を見上げた。
焔の目はまっすぐだった。
その視線に押されるみたいに、自然と背筋が伸びる。
「……君はよくやった」
焔の低い声が静かに落ちる。
「モンスターに向かったのは、紛れもない勇気だ。胸を張れ」
肩へ置かれた手が、わずかに強くなった。
その重みが、背中の奥へまっすぐ落ちていく。
「君は――立派なヒーローだ」
その言葉を聞いた瞬間、室内の音が少し遠のいた。
「勇気は、家族や仲間を守る力だ。そして、それは未来を支える力にもなる」
焔は彰を見たまま続ける。
「その資質は、これから必ず形になる。覚えておけ。それがインサイダーの責務だ」
言葉が終わるころには、肩へ置かれていた手の力もゆっくり抜けていた。
最後に、ぽん、と軽く肩を叩かれる。
鼓動が少し速い。
呼吸もまだ浅い。
それでも、背筋だけは自然と伸びたままだった。
「……はい」
彰は右手を胸元へ当て、小さくうなずく。
気づけば、胸元へ下げた木刀の柄へ指が触れていた。
その横で、陽菜が小さく息を呑む。
涙の跡はまだ残っている。
それでも、もう視線は逃げていなかった。
「……アキ、よかった」
陽菜が小さく笑う。
その声を聞いた瞬間、張っていた呼吸が少しだけ軽くなる。
彰も静かにうなずく。
陽菜の笑顔だけが、なかなか目から離れなかった。




