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アウトサイダー  作者: 君島極
第一章:灯が消えない場所 | 第三節:積み重ねる炎
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第5話:幼き日の誓い

空気が沈み、時間がひと呼吸ぶん遅れた。


木立の影の奥から、緑色の肌がぬっと現れる。


背丈は低い。


けれど、前へ突き出した身体には妙な厚みがあり、濁った黄土色の目がぎょろりとこちらを向いた。


口の端から湿った息が漏れ、踏み出すたび、ぬちゃり、と嫌な音が土へ混ざる。


「……ゴブリン……?」


テレビや図鑑で見たことのある姿だった。


インサイダークエスト2の序盤で、何度も倒してきた“雑魚”。


――のはずなのに。


今、目の前にいるそれは、ゲームの中とはまるで違っていた。


生温い息も、まとわりつくみたいな圧も、全部がそのまま肌へ触れてくる。


「うそだろ……」


信じられなくてまばたきをする。


それでも影は消えなかった。


木刀を握る手が汗で滑りそうになり、彰は反射みたいに握り直す。


鼓動が強く打ち、耳の奥でどくどく響いた。


背中を、暑さとは違う汗がゆっくり伝っていく。


足裏へ土がまとわりつき、踏み出そうとしたかかとがわずかに遅れた。


「アキ……?」


耳元で、陽菜の声が小さく震える。


袖をつかんでいた手は、いつの間にか彰の腕ごとぎゅっと抱きしめるみたいに力が入っていた。


額が二の腕へこつんと当たり、その震えが布越しに伝わってくる。


「アキ、こわい……やだよ……」


肩へ顔を押しつける気配。


その小さな震えだけで、どれだけ怖がっているかが分かった。


「だ、大丈夫だよね……アキがいるし……」


途中で、陽菜の声が少し詰まる。


その瞬間、ゴブリンが一歩前へ踏み出した。


濁った目が、じっとこちらを捉える。


ぬちゃり、と湿った音が土へ滲むたび、陽菜の指先から力が抜けていくのが分かった。


瞳は恐怖へ縫い止められたみたいに動かない。


唇も、小さく震えるだけだった。


(陽菜……)


袖を掴む指先の震えが、やけにはっきり伝わってくる。


息を吸うたび、呼吸が浅くなっていく。


それでも、木刀を握った手へだけは少しずつ力が集まっていた。


(この前……あのカプセルの中で……動けた)


シミュレーターで見た景色が、頭の奥へよぎる。


飛んできた矢。


炎の向こうを踏み込んでいった感覚。


景色がゆっくり見えた、あの瞬間。


(あれはゲームで……これは……)


焔の背中が浮かぶ。


御剣の、迷いなく伸びる剣先。


陽菜の震える声だけが、頭の中へ強く残っていた。


(“守る”って……ああいうことか)


喉が熱くなる。


怖い。


足も少し震えている。


それでも、陽菜の震えが腕へ伝わるたび、別の熱が腹の底へ沈んでいった。


(だったら――今度は、俺がやる)


息をひとつ飲み込む。


靴の中で足の指がぎゅっと縮まり、土を掴んだ。


額へ張りついた前髪を手の甲で払い、彰は顔を上げる。


「陽菜、俺の後ろに」


片手で肩をそっと押し、一歩だけ後ろへ下がらせる。


そのまま自分は半歩前へ出た。


声は、自分でも驚くくらいはっきり通る。


背中へ入っていた力が、わずかに抜けた。


「アキ……!」


名前を呼ぶ声が、背中へぴたりと張りつく。


陽菜の気配がすぐ後ろにある。


その感覚だけで、逃げられなかった。


手に握った木刀が急に重く感じられる。


けれど、その重さごと肩で支えた。


(これ、練習じゃない……)


息が一瞬止まり、次の吸い込みが少し遅れる。


さっき自分で言った言葉が、遅れて胸の奥へ沈んでいった。


「逃げようよ……お願い……」


陽菜の涙混じりの声が背中から届く。


「……大丈夫。俺が前に立つ。守るから」


言葉が、胸の内側で一度だけ強く響いた。


木刀を構える。


腰を落とした瞬間、重心が足裏へ深く沈んだ。


その直後、ゴブリンの喉から低い唸り声が漏れる。


それは次の瞬間には獣みたいな咆哮へ変わっていた。


身をかがめたと思った瞬間、影が地面から消える。


間を置かず、しなるような軌道で右腕が振り上がった。


黒ずんだ鉤爪が、斜め上から彰へ叩き落とされる。


「来る……っ!」


空気を裂く風切り音と同時に、身体が反射みたいに動いた。


木刀を体の前へ構える。


次の瞬間、黒ずんだ鉤爪が真正面から叩きつけられた。


鈍い衝撃が、腕ごと全身へ突き抜ける。


「っ――!」


木刀がぎり、と軋んだ。


重い。


想像していたより、ずっと重かった。


手首から肩まで一気に痺れが走り、踏ん張った足が地面から浮く。


「うわっ……!」


景色がぐるりと回転し、そのまま背中から湿った土へ叩きつけられた。


肺の中の空気が一気に押し出され、視界が白く弾ける。


「……っぐ、はっ……!」


肘を打った場所から鋭い痛みが走った。


口の中へ土の味が広がり、その奥に鉄っぽい血の味まで混ざる。


低い唸り声が近づいてくる。


ぬちゃり、と湿った足音がまた土を踏んだ。


(……立て)


喉の奥が、ごくりと鳴る。


「立て……立て……!」


気づけば声が漏れていた。


震える腕で地面を押す。


掌へ土と小石が食い込み、持ち上げた膝がぐらりと揺れた。


それでも、なんとか身体を支える。


ふらつく足を無理やり前へ出した。


背後には、陽菜がいる。


その感覚だけで、倒れたままではいられなかった。


「うおおおおおっ!!」


喉が裂けそうなくらいの声が出た。


胸の奥へ残っていた熱が、一気に弾ける。


彰はそのまま前へ踏み込んだ。


がむしゃらに木刀を振り抜く。


湿った土が足元で跳ね、小石がぱらぱら散った。


ゴブリンが短く吠える。


再び腕が振り上がった、その瞬間だった。


動きが、急に遅く見える。


(……え?)


空気が重い。


蝉の声も、風の音も、どこか遠くへ引き伸ばされたみたいにぼやけていく。


目の前のゴブリンだけが、重たい水の中を無理やり動いているみたいに遅かった。


振り下ろされる腕。


爪の先についた汚れまで見える。


その軌道だけが、妙にはっきり目へ入ってきた。


「……っ」


右のこめかみが、針で刺されたみたいに痛む。


頭の奥で、何かが軋んだ。


(まただ……あの時と……)


シミュレーターで感じた“ズレ”が、一瞬だけ頭をよぎる。


どこを狙えばいいのか。


どう動けばいいのか。


考える前に、身体のほうが先に理解していた。


振り下ろされる腕の隙間。


わずかに空いた側頭部。


その位置だけが、不自然なくらい目へ浮かび上がる。


(ここだ)


次の瞬間には、もう木刀が動いていた。


割れかけた木刀の角が、空いたこめかみへまっすぐ走る。


ゴツン――。


重い感触が木刀越しに返ってきた。


指先まで痺れが走り、奥歯がかちんと鳴る。


こめかみの奥がきしみ、視界の端が一瞬だけざらついた。


それでも、鼓動だけは異常なくらい速く打っている。


「……っ!」


ゴブリンの動きが、ふっと止まった。


濁った目が白く剥かれる。


身体がぐらりと揺れ、数歩よろめいたあと、そのまま糸が切れたみたいに崩れ落ちた。


土煙がふわりと舞い上がる。


さっきまでまとわりついていた腐臭も、少しずつ薄れていった。


静寂。


止まっていた蝉の声が、遅れて林へ戻ってくる。


それなのに、その音さえどこか遠かった。


近くで聞こえるのは、自分の荒い呼吸と、背後で震える陽菜の息遣いだけだった。


「アキっ!」


陽菜の声が耳元で弾け、小さな身体が勢いよくぶつかってくる。


「うわっ――」


彰はよろめきながらも、木刀を握ったままなんとか踏みとどまった。


陽菜の手が、泥と汗で汚れた服をぎゅっと掴む。


顔を上げた陽菜の頬は、涙と汗でぐしゃぐしゃだった。


「……ほんとに、守ってくれたんだね」


喉を震わせながら、かすれた声で言う。


張りつめていたものが、その言葉と一緒に少しずつほどけていくのが分かった。


「ごめんね……私、何もできなかった……」


小さく落ちた声が、夕方へ傾き始めた林の空気へ溶けていく。


「……いいよ。俺、守るって言ったし」


言葉は、考えるより先に出ていた。


膝はまだ震えている。


肩も腕も痺れて、まともに力が入らない。


握った木刀も、ところどころささくれ立って今にも折れそうだった。


泥だらけの服へ汗が張りつき、擦り傷がじわじわ熱を持っている。


それでも、彰はまだ立っていた。


陽菜を背中へかばうみたいに立ちながら、彰は倒れたゴブリンを見下ろしていた。


(今の……なんだ……)


動きが遅く見えた感覚。


こめかみの奥へ走った痛み。


自分で考えるより先に、身体が勝手に動いたあの瞬間。


思い出そうとしても、うまく掴めない。


(……でも)


腹の底へ、別の重みがじわりと沈んでいた。


テレビで見てきた英雄たちは、もっと格好よかった。


焔の剣も、御剣の剣も、迷いなんかひとつもないみたいに見えた。


けれど今の自分は、泥と汗まみれだ。


腕は痺れたまま重く、陽菜の震える手もまだ袖を掴んで離れない。


膝はまだ震えていた。


それでも倒れなかった。


掌へ食い込む木刀のささくれが痛い。


握り直した指先へ、その感触だけがはっきり残っていた。


(なら――このまま、行く)


そう思った瞬間、荒れていた呼吸がほんの少しだけ整う。


林へ吹き込んだ風が、汗で湿った服を揺らした。


午後の陽はゆっくり傾き始め、木々の隙間へ夕焼け色が滲んでいる。


湿った土の匂いに混じっていた血の鉄臭さも、少しずつ薄れていった。


そのときだった。


倒れたゴブリンの身体が、淡く光り始める。


陽菜が息を呑んだ。


腐臭をまとっていた身体は、細かな光の粒へ崩れ、そのまま風へ混ざるみたいに空へ消えていく。


あとには、白い牙だけが地面へ残っていた。


彰はゆっくりしゃがみ込み、指先でそれを拾い上げる。


ぎざぎざした感触が皮膚へ当たり、ちり、と小さな痛みが走った。


まだ身体へ残っていた熱のせいか、呼吸だけが少し浅い。


「……ドロップ、か」


彰は掌の上の牙を見つめた。


ほんのり温かい。


握ると、脈打つみたいに微かな震えが返ってくる。


それでも、牙を握る指へ自然と力が入る。


胸元へ引き寄せた瞬間、昔どこかで聞いた言葉だけが頭をよぎった。


――モンスターを仕留めると、核や牙が残ることがある。倒した証だ。ときには金にもなる。


誰の声だったのかは、もう曖昧だった。


けれど言葉だけは、胸の奥へ沈むみたいに残っている。


彰は小さく息を吐き、木刀を持ち直した。


肩へかけると、さっきまで腕を軋ませていた重さが、少しだけ違って感じられる。


疲れているはずなのに、足取りだけは不思議と止まらなかった。


陽菜も、ようやく少し落ち着いたみたいに息を吐く。


けれど、彰の袖を掴んだ手だけはまだ離れない。


「……帰ろっか」


小さな声だった。


彰はうなずき、そのまま林の出口へ向かって歩き出す。


夕方の光が、木々の隙間から細く差し込んでいた。


踏みしめる落ち葉の音に混じり、蝉の声が林いっぱいへ広がっていく。


湿った土の匂いも、まだ足元へ残っていた。


さっきまでの出来事が嘘みたいに、林はいつもの空気を取り戻していた。


それでも、二人の歩幅だけは少し遅かった。


やがて木立が途切れ、夕日が視界いっぱいへ広がる。


山道を下りきった瞬間、湿った土と草の匂いが少しずつ薄れ、代わりに夕飯の匂いと住宅街の空気が流れ込んできた。


遠くで自転車のベルが鳴る。


蝉の声も、少しずつ林の奥へ溶けていった。

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