第2話:蒼氷の視線
――龍胆家・居間/同じ朝
二度目の電子音が、居間から庭へ届いた。
彰は下がっていた木刀の切っ先へ気づき、脇へ置く。
汗を拭くのも後回しのまま、廊下を歩き出した。
居間へ入ると、誠はスマホの画面を見つめたまま短く頷いた。
「……ああ、焔か。久しぶりだな」
その声だけ、少し柔らかい。
彰へ気づくと、誠は受話口を手で押さえ、そのままこちらへ顔を向けた。
「彰。焔が協会の提携シミュレーターに凱君を連れていくらしい。陽菜ちゃんも行くそうだ。昔、“資質テスト”に使われていた施設でな。……お前も行くか?」
鼓動が、一気に跳ねた。
気づけば、つま先へ力が入り、そのまま半歩だけ前へ出ている。
「行きたい! 父さん、絶対行く!」
言った瞬間、自分の声が少し裏返った。
彰は慌てて口を閉じ、握った手へ力を込める。
親指同士が無意識に擦れ、その感覚だけが妙に熱かった。
(協会のシミュレーター……しかも、焔さんと……!)
誠はそんな彰を見て、小さく息を漏らす。
「そんなに嬉しいか」
「うん!」
それからしばらく、彰は何度も庭と玄関を行ったり来たりしていた。
庭へ出ては門の向こうをのぞき込み、戻ってきては時計を見る。
落ち着かないまま靴を履きかけ、まだ早いと気づいてまた脱ぐ。
その繰り返しだった。
「彰、まだ来ないわよ?」
美咲が苦笑しながら声をかける。
「わ、分かってるって」
そう返しながらも、彰の視線はまた庭のほうへ向いていた。
縁側へ腰を下ろしていた誠も、小さく息を吐く。
「そんなに何回も見に行っても、来る時間は変わらん」
「……でも、もうそろそろかもだし」
彰は庭石の脇で立ち止まり、そのまま門の向こうへ目を向ける。
春の風が庭木を揺らし、若葉の擦れる音が静かに重なった。
門の向こうを見ていないと、足先が勝手に動きそうだった。
そのときだった。
遠くから、低いエンジン音がゆっくり近づいてくる。
彰の肩がぴくっと跳ねた。
「……来た!」
門の向こうへ黒い大型SUVが姿を現し、そのまま広い庭先へゆっくり入ってきた。
タイヤが砂利を踏むたび、じゃり、と乾いた音が庭へ広がっていく。
側面のエンブレムが春の光を受け、鈍く光った。
彰は思わず一歩前へ出る。
けれど、その前に誠の声が飛ぶ。
「走るな。転ぶぞ」
「……っ、はい!」
SUVが静かに止まり、エンジン音がゆっくり落ちていく。
彰の足が、また前へ出かけた。
その音を聞きながら、彰は無意識に握った拳へ力を込めていた。
「ほら、そんな慌てなくても逃げないわよ」
後ろから、美咲が苦笑しながら声をかける。
「朝から何回も外見に行ってたんだから、この子」
「母さん!」
彰が顔を赤くすると、助手席の窓が下がり、玲奈が吹き出した。
「ふふっ、凱も同じよ。“まだ着かねぇの?”って、さっきから何回も聞いてたし」
「聞いてねぇって!」
後部座席から凱の声が飛ぶ。
その横では、陽菜が窓越しにぶんぶん手を振っていた。
「アキー! はやくー!」
焔が運転席で肩を揺らす。
「まあ、気持ちは分かる。俺も昔、初めて協会行く日は落ち着かなかったしな」
「焔が?」
誠がすぐ眉をひそめる。
「嘘つけ。お前、昔から図太かっただろ」
「いやいや、ちゃんと緊張してたって。玲奈にも笑われたし」
「だって前の日ほとんど寝てなかったじゃない」
玲奈が呆れたように返す。
そのやり取りを聞いているうちに、彰の肩の力も少し抜けた。
誠はSUVへ向き直ると、小さく息を吐いた。
「悪いな、焔。息子にいい経験だ」
「気にするな。親友の息子だ。――おう、彰」
焔がミラー越しに笑う。
「よろしくお願いします!」
彰は勢いよく頭を下げ、そのままスライドドアへ手をかけた。
車内へ乗り込むと、革張りシートの匂いがふわりと鼻先をかすめる。
シートベルトの金具がひやりと手首へ触れ、その冷たさに少しだけ呼吸が浅くなった。
足先が無意識にフロアマットを小さく叩き、彰は窓の外の焔の横顔をちらりと見上げた。
SUVはゆっくり庭を出て、街へ向かって走り出す。
住宅街を抜けるにつれ、窓の外の景色も移り変わっていった。
低い建物の向こうへ高層ビルが見え始め、道路脇のガラスへ朝の光が強く反射している。
空には細長い広告映像が流れ、ドローン型タクシーが何機もビルの間を横切っていった。
彰は窓へ顔を向けたまま、その景色を目で追っている。
街が近づくほど、窓へ映る自分の顔も少しずつ前のめりになっていった。
「この街は、俺たちが毎日守っている」
「インサイダーってのはな、思ってるよりずっと大変だ」
焔がハンドルを軽く回しながら言う。
「訓練もあるし、実戦じゃ失敗も許されない。今日の場所は今じゃ“遊び”に近いが、それでも学べることは多いぞ」
彰は背もたれから少し身体を浮かせた。
「ねえ、アキ。緊張してる?」
陽菜が前の座席へ手をかけ、ひょこっと顔をのぞかせる。
「ちょっと。でも、楽しみのほうがでかい」
「だよね!」
前の席で凱が振り向いた。
「勝負だかんな。俺は剣で行く」
「望むところ」
二人の拳が軽くぶつかる。
離したあとも、彰の手だけは少し熱を残したままだった。
窓の外では、高層ビル群が少しずつ近づいている。
その中で、焔が前方を指で示す。
「あそこに見える四角い建物、分かるか?」
彰は窓へ顔を寄せた。
ビル群の隙間。
灰色の建物がひとつ、少し離れた場所に見える。
窓も少なく、古い外壁には細かな補修跡まで残っていた。
「あれが、今日行く施設だ。昔、協会の資質テストにも使われてた」
「……あれが」
彰は無意識に膝へ置いた手へ力を入れる。
(……あそこに、行くんだ)
窓の向こうの灰色の建物から、目が離れなかった。
SUVはそのまま高架を降り、施設前のゲートへ近づいていく。
ゲート脇には制服姿の警備員が立っていた。
焔が窓を下ろすと、警備員の表情がぱっと変わる。
「焔さん! 今日はご家族で?」
「まあ、たまにはな」
焔が笑いながら答える。
「子どもたちに見せとこうと思ってな」
「なるほど。どうぞ、通ってください」
ゲートが低い駆動音を立てながら開いていく。
SUVはゆっくり敷地へ入り、速度を落としながら施設前で静かに止まった。
エンジン音が落ちる。
彰はシートベルトを外すと、少し早足で外へ出る。
地面へ降りた瞬間、コンクリートの硬さが靴底へまっすぐ返ってきた。
目の前には灰色の外壁が広がっている。
近くで見ると、建物は思っていたよりずっと大きかった。
彰は思わず見上げ、そのまま入口の奥へ視線を向ける。
「行くぞ」
焔の声に、彰たちは一斉に頷いた。
自動ドアが開いた瞬間、ひやりとした空気と電子機器の匂いが一気に流れ出してくる。
中へ足を踏み入れる。
天井の蛍光灯が規則的に瞬き、換気扇の低い唸りが奥で回り続けていた。
均された床は踏み込むたび硬い音を返し、その先にはカプセル型の機体がずらりと並んでいる。
金属がぶつかる高い音と短い電子音が重なり、その奥では笑い声や悔しそうな声まで混ざっていた。
彰は思わず足を止める。
さっきまで車の中で感じていた高揚が、足裏から床の硬さへ移っていく。
「ここが”シャドウボックス”だ」
焔が腕を組む。
「もともとはインサイダーの“資質”を見るために作られた施設でな。魔法は含まない。純粋な体の動き、判断、反応速度を見る」
一度言葉を切り、焔は壁際のモニターへ視線を向けた。
「今は測定には使ってない。だが――ここで取った動きの癖は、今のゲームにも結構残ってる」
「ゲーム……?」
彰の肩が小さく動く。
「“インサイダークエスト2”だ。協会が監修してる。ステージ構成も敵の動きも、このシステムをもとに作られてる部分が多い」
彰の指先が、無意識にズボンの縫い目をなぞった。
ゲームだったはずのものが、急に現実の匂いを帯びてくる。
焔はモニターのほうへ軽く顎を向けた。
「ほら、見てみろ」
彰は思わず一歩前へ出る。
画面の中では、シミュレーター用のデモ映像が流れていた。
入り組んだ路地。
崩れた瓦礫。
そこを駆け抜けるプレイヤーの動き。
どこか、見覚えがある。
ゲームで何度も見てきた景色と、空気の重なり方が似ていた。
「……ほんとだ」
気づけば、彰はモニターへかなり近づいていた。
鼓動が少し速くなる。
「今は訓練や息抜き用だ。点数が高くても、実戦で役に立つとは限らない。――あくまでゲームだからな」
焔はそう言って、小さく息を吐いた。
そのとき、少し離れた場所から声が上がる。
「総合スコア……8021!?」
「うそだろ、また更新してる!」
「適応・反応・総合全部高水準だぞ……!」
「この年齢で8000超え……上位数%どころじゃないぞ」
ざわめきが広がり、彰も思わずそちらへ顔を向けた。
並んだカプセルのひとつが開き、中から同じくらいの年頃の少女が姿を現す。
周囲ではスタッフが慌ただしく数値を確認し、モニターには次々とデータが表示されていた。
「すげぇ……」
誰かの声が重なる。
その空気に引っぱられるみたいに、彰の呼吸も少しだけ浅くなった。
さっきまで耳へ入っていた周囲の笑い声が遠のき、代わりに機械の駆動音だけがやけにはっきり聞こえてくる。
足裏に残っていた落ち着かなさが、すっと消えていた。
少女はスタッフの声へ軽く頷き、カプセルから降りる。
後ろで結ばれたポニーテールが肩のあたりで揺れ、光を受けた髪へ淡い紫が混じった。
ラベンダーアッシュブラウンの髪色が、角度によってわずかに色を変えて見える。
彰は、気づかないうちにその姿を目で追っていた。
少女が正面を向いた瞬間、近くの空気がわずかに静まる。
蒼氷色の瞳がまっすぐ前を向いていた。
強く睨んでいるわけじゃない。
それなのに、視線だけが自然とそちらへ引っぱられる。
細身の身体のまま一歩前へ出る。
その動きに合わせるみたいに、周囲のざわめきが少し遅れて戻ってきた。
彰は無意識に背筋を伸ばしていた。
「……さすがだ。神楽月凛だな」
焔が小さく息を漏らす。
「父さん、あのスコア、すげぇの?」
凱が思わず身を乗り出す。
「ああ。神楽月家は代々の家系だ」
焔は視線をモニターへ向けたまま続ける。
「小さい頃から、手順も呼吸も叩き込まれてる。史上最年少でインサイダーデビューなんて話が出るのも分かる」
その言葉を聞きながらも、彰の視線だけはまだ凛のほうへ残っていた。
凛は歓声へ特に反応も見せず、タオルで汗を押さえながらゆっくり視線を巡らせている。
その動きが、不意にこちらで止まった。
蒼氷色の瞳が、子どもたちを順番に捉えていく。
彰の番へ来た瞬間――呼吸が止まる。
(……え)
視線を外そうとしたのに、身体だけがぴたりと固まった。
絡まった指へ力が入り、そのままほどけない。
次の瞬間には、もう凛の視線は別の場所へ向いていた。
何事もなかったみたいにタオルを肩へ掛け直し、そのままスタッフのほうへ歩いていく。
それなのに、彰だけがまだ視線を戻せなかった。
胸の奥へ、小さな違和感だけが残る。
その空気を切り替えるみたいに、焔がぱん、と手を叩いた。
「さあ、やってみるか」
焔が笑う。
「ゲームだ。楽しめ」
――挑戦1:凱
「先陣は俺だ!」
凱が迷いなく剣モードを選択する。
モニターへ映し出されたのは、崩れかけた仮想の廃街だった。
路地の奥から敵影が次々と現れる。
凱は真正面から踏み込んだ。
大きく振り抜いた斬撃が最初の敵をまとめて吹き飛ばし、そのまま勢いを止めず次の敵へ切り込んでいく。
「はっ、はっ!」
剣を振るたび、画面の中で火花が散る。
最初のうちは流れも噛み合っていた。
けれど敵の数が増え始めた瞬間、横からの攻撃への反応がわずかに遅れる。
踏み込みながら無理やり押し返し、距離を詰めて立て直そうとする。
それでも、別方向から飛んできた矢と投げ槍がじわじわゲージを削っていった。
「うおっ、まだ来んのかよ!」
凱が声を上げる。
最後は押し切られるように終了画面へ切り替わった。
赤いスコアバーが伸び、平均値を大きく上回る位置で止まる。
《総合スコア:5302》
「うお、五千超え!?」
周囲のスタッフがざわめく。
「瞬間反応値、かなり高いぞ……!」
「前半の伸び方、異常だったな」
「くそっ! なんで最後で失速すんだよ!」
凱は足元をとん、と蹴り、乱暴に前髪をかき上げた。
その横で、陽菜が楽しそうに笑う。
「でも、すごかったよ。凱っぽかった」
「……まあ、悪くはなかったけどな」
凱は顔をそむけたまま鼻を鳴らす。
けれど耳だけは少し赤かった。
――挑戦2:陽菜
「私は……弓で」
陽菜は一歩だけ後ろへ下がり、弓を持ち直した。
胸の前で小さく息を吸い、そのままゆっくり狙いを合わせていく。
最初の数本は、きれいに敵へ刺さった。
「おっ、当たった!」
凱が声を上げる。
陽菜の顔も少し明るくなる。
けれど敵の動きが速くなった瞬間、陽菜の呼吸もわずかに乱れた。
次の矢を急ごうとして、肩へ余計な力が入る。
「うう……待って、待って……!」
焦るたび、弦を引く指先が少しずつぶれていく。
放った矢は壁へ当たり、そのまま光になって散った。
「あっ……」
陽菜の口元が苦笑いへ変わる。
そのあとも何度か狙い直したものの、後半は思うように当たらなかった。
終了画面へ切り替わり、スコアバーは低い位置で止まる。
《総合スコア:2814》
「……あ」
スタッフの声が小さく落ちる。
平均値を少し下回った位置で、バーが静かに停止していた。
「だめだー、全然当たらない……」
陽菜は弓を胸の前へ抱え込み、そのまましゅんと肩を落とした。
つま先が少しだけ内側へ向いている。
「次だ、次。すぐ上がる」
凱が口角を上げる。
その声に、陽菜は「うん……」と小さく笑った。
耳の先だけが、ほんのり赤い。
――次は彰。
足元の床が、さっきより硬く感じる。
掌へ、わずかな熱が戻ってきた。




