第1話:言えた願い
――一年後/朝/龍胆家・庭
春の空は白くかすみ、塀越しの雲がゆっくり流れていた。
まだ肌寒さの残る庭で、砂利を踏む足音だけが一定の間隔を刻んでいる。
「……すっ、は……」
彰は裸足のまま呼吸を整え、胸の前で拳を構える。
半歩だけ前へ滑ると、足裏へ朝の冷たさが返ってきた。
踏み込み、受け、重心を戻す。
型を繰り返すうち、呼吸と身体の動きが少しずつ噛み合っていく。
踏み込んだ足も、前みたいには沈まない。
比べる相手はいない。
それでも、自分だけは分かっていた。
少なくとも――何もしないまま立ち止まっていた頃とは、違う。
朝は庭で心体育成流。
夜は仏壇へ手を合わせ、そのあと端末を開く。
そんな毎日が、少しずつ身体へ馴染み始めていた。
「彰ー、ご飯冷めちゃうわよー」
縁側から、美咲の声が届く。
「はーい」
返事をしながら、彰は最後にもう一度だけ深く息を吸った。
吐き出した息と一緒に肩の力を抜き、そのまま家の方へ歩き出す。
縁側へ上がると、開いた障子の向こうから味噌汁の匂いが流れてきた。
朝の情報番組を流すテレビの音も、静かな家の空気へ薄く混じっている。
リビングでは、美咲が朝食の皿を並べながら画面へ目を向けていた。
そのままテレビから明るい音楽が流れ始める。
《インサイダークエスト2 発売まで、あと三日――!》
派手なエフェクトと一緒に、巨大なモンスターの姿が画面へ映し出される。
広がったフィールドをキャラクターたちが駆け抜け、その奥で立ち上がった巨大な影へ一斉に攻撃が叩き込まれた。
画面の隅には、『新モード・チーム戦実装』の文字。
座椅子へ座っていた彰の背筋が、反射的に伸びる。
(……もうすぐ、出るんだ)
手の中へ、コントローラーの感触がよみがえった。
クリア音まで思い出した瞬間、膝の上の指が落ち着かなくなる。
隣でお茶を飲んでいた誠が、そんな彰の横顔を見る。
その視線に気づいた美咲が、小さく笑った。
「彰、気になるの?」
「え? あ、その……」
聞かれた瞬間、舌先で言葉がほどけず、視線だけが画面へ戻った。
(……すごく、ほしい)
けれど、そのまま声にならない。
誘拐されたと聞いた日のこと。
病院で目を覚ましたあとの話。
巌がいなくなったという事実へ触れようとした瞬間、記憶だけが途中で噛み合わなくなる。
笑っていたはずの声だけが、妙に遅れて残った。
「これが欲しい」と言いかけ、彰は小さく口を閉じる。
一度だけ二人へ視線を向け、そのまま膝の上へ落とした。
その小さな間に、食卓の空気が静かに止まる。
(もっと、わがままを言っていいのに)
言葉にはしないまま、美咲はエプロンの端へ触れ、誠も視線を落とした。
テレビの音だけが流れる中、彰は画面を見つめたまま拳を握る。
ほどきかけた指先へ、もう一度だけ力が戻った。
「あのね……父さん、母さん」
ようやく絞り出した声に、自分でも少しだけ驚く。
座椅子の上で膝をそろえたまま、彰は二人を見る。
「インサイダークエスト2……ほしい。宿題も、心体育成流も、ちゃんとやる。 約束もするから……どうしても、欲しいんだ」
言い切ったあと、小さな沈黙が落ちる。
誠は目を丸くし、美咲もまばたきをひとつ落とした。
美咲は膝の上のエプロンからそっと力を抜き、誠はテーブルへ落としていた視線を静かに戻す。
誘拐された日から。
巌を失ってから。
食卓で、無理に明るく振る舞うのはいつも彰だった。
美咲は小さく息を吐く。
誠も短くうなずき、それからゆっくり彰の頭へ手を伸ばした。
「……分かった。お前がそこまで言うなら、買ってやろう」
「え……?」
彰の目が大きく開く。
誠は照れくさそうに頭をかきながら続けた。
「ただし、宿題と心体育成流は今まで通りだ。約束破ったら、しばらく封印な」
美咲も、ようやく柔らかく目元を緩める。
「今度のお休みに、一緒にお店に行こうか。せっかくだし、どんなゲームかお母さんにも教えてね」
「……ありがとう!」
彰は座椅子から勢いよく立ち上がり、そのまま深く頭を下げた。
「お、おい。そんな大げさに頭下げるな」
誠が少し困ったように笑い、美咲も「ふふっ」と肩を揺らす。
その笑い声に混ざるように、テレビではまだゲームのCMが流れ続けていた。
◇
――数日後・休日/商店街・ゲームショップ前
休日の商店街は、人の流れと声で賑わっていた。
子どもたちが駆け抜け、視界の端で風船が揺れる。
焼きそばの匂いまで流れてきて、通りの空気へ祭りみたいな熱が混じっていた。
その一角にあるゲームショップの前で、彰はショーウィンドウを食い入るように見つめている。
ガラス越しには、《インサイダークエスト2》の大きなポスター。
武器を構えたキャラクターたちの奥で、巨大なモンスターの影が不気味に立ち上がっていた。
「……本当に、買ってもらえるんだ」
視線がポスターから離れないまま、息だけが小さく漏れる。
隣で誠が笑った。
「そんなに食い入るな。ポスターに穴が開くぞ」
「だって……」
言い返しかけた声が、そのまま笑いへ変わる。
美咲はそんな彰を見ながら、カウンターへ向かう前に、巌の写真が入った小さなお守りへそっと触れた。
「お父さん。彰、ちゃんと前を向いてるよ」
レジの電子音が短く鳴る。
誠は受け取ったパッケージを、そのまま彰へ差し出した。
「ほら。持て」
「……っ、ありがとう!」
両手で受け取った瞬間、強く握っていた指がふっとほどける。
ビニール越しの硬さが掌へ伝わり、彰は思わずそれを胸の前へ引き寄せた。
誠はそんな彰を見て小さく鼻を鳴らし、美咲もどこか安心したように笑う。
そのときだった。
「うおっ、また石崎トップだ!」
店の奥から、子どもたちの歓声が上がる。
彰が反射的にそちらを見る。
ゲームショップの一角には、大型モニター付きの体験コーナーが作られていた。
何人もの子どもたちが集まり、その中心でひとりの少年がコントローラーを握っている。
画面には、《インサイダークエストⅡ》のチーム戦。
瓦礫だらけの市街地を、アバターが迷いなく駆け抜けていく。
高速道路の陰へ滑り込み、現れた敵を先回りするみたいに次々と倒していった。
《3 KILL》
《CHAIN BONUS》
表示が重なるたび、周囲の歓声も大きくなる。
「うわ、また倒した!」
「石崎やば……!」
「今のでノーダメ!?」
周囲の声が一気に熱を帯びる。
彰も思わず足を止めた。
(……すご)
画面の中のアバターは、ほとんど無駄な動きをしていなかった。
攻撃を避け、そのまま位置を変え、流れるように次のスキルへ繋げていく。
右上のスコア表示が、一気に伸びる。
《TEAM 14 KILL》
その半分以上が、石崎海斗の撃破数だった。
「お、龍胆!」
その瞬間、体験コーナーの近くにいた男子のひとりが彰へ気づく。
「ほんとだ、龍胆じゃん!」
同じクラスの男子たちが手を振った。
「2買いに来たの?」
「う、うん」
彰が小さく頷く。
その声へ反応するみたいに、体験台の前にいた少年――石崎が、ちらりとだけ振り返った。
同じくらいの年齢。
けれど、コントローラーを握る手だけが妙に落ち着いて見える。
「石崎、めちゃくちゃ強いんだぜ」
男子のひとりが興奮したまま言った。
「チーム戦ずっと勝ってんの」
「へぇ……」
彰の視線は、また自然と画面へ戻る。
石崎のアバターが味方へ向かおうとしていた敵の横へ滑り込み、そのままスキルを重ねた。
《ASSIST》
《DOUBLE KILL》
表示と一緒に歓声が上がり、味方チームのゲージも一気に押し上がる。
「うわ、また勝った!」
店の空気がさらに熱を帯びた。
石崎はそこでようやくコントローラーを置き、短く息を吐く。
それから彰へ目を向けた。
「……龍胆もやるの?」
「え? あ、うん」
「そっか」
短く返したあと、石崎はまたモニターへ視線を戻す。
「彰ー、行くぞ」
誠の声が後ろから飛んできた。
「あ、はーい!」
彰が慌てて振り返る。
「またなー、龍胆!」
クラスの男子たちが手を振った。
彰も小さく手を振り返し、そのままもう一度だけ体験コーナーを振り返る。
モニターの中では、石崎のアバターがもう次の敵へ向かって走り出していた。
(……チーム戦、か)
モニターの光だけが、しばらく目に残った。
◇
――夜/龍胆家・彰の部屋
机の端には学校のノートが積まれ、壁際には木刀が一本立てかけられていた。
開いたパッケージを持つ手が、少しだけ落ち着かない。
銀色のディスクへ天井の灯りが反射し、彰はそれを慎重に端末へ入れる。
起動ボタンを押すと、部屋の明かりとは違う光がゆっくり画面へ広がった。
《INSIDER QUEST Ⅱ》
「……始まった」
小さく漏れた声と一緒に、肩の力が抜ける。
操作感は前作と似ていた。
けれど、回避の間合いや踏み込みの感覚は微妙に違う。
最初の回避は半歩ぶん遅れた。
敵の攻撃が肩をかすめ、画面の端が赤く光る。
もう一度。
今度は少し早い。
気づけば、指の動きが自然と次の回避へ繋がっていた。
(前のと同じだ……そのまま使える。でも、それだけじゃ足りないかも)
チュートリアルを終え、そのまま最初のステージへ入る。
敵の動きは前作より速く、数も多い。
けれど、彰の指はすぐに感覚を思い出していった。
距離をずらし、回り込み、重なった敵へスキルを叩き込む。
最初は少しだけ噛み合わなかった動きも、戦っているうちに少しずつ手へ馴染み始めていた。
「……楽しい……」
思わず声が漏れる。
画面の中では、自分のキャラクターが軽やかに駆け回っていた。
避けた流れのまま次の攻撃へ繋ぎ、気づけば彰は前のめりになったまま画面へ集中している。
何度か倒れても、やり直すたびに少しずつ戦い方が見えてきた。
リザルト画面の勝敗表示も、いつの間にか負けより勝ちの方が増えている。
メニューに並ぶ「オンライン対戦」「チーム戦」。
まだ触れていないその文字へ、視線が自然と止まった。
(チーム戦……そのうち、やってみたいな)
一人で戦っているだけじゃ、どこか足りない気がした。
決めていた時間になり、彰はログアウトのボタンへ手を伸ばす。
画面が暗くなると、それまで画面へ向いていた意識がゆっくり現実へ戻ってきた。
椅子へ背中を預ける。
掌にはまだコントローラーの感触が残っていた。
「……明日も、やろう」
小さく呟き、彰は机の横へ置いたパッケージへそっと触れる。
そのまま椅子へ背中を預けると、静かな部屋には端末の熱だけがまだ残っていた。




