第16話:拳と剣のあいだ
―夜/龍胆家・リビング
夕食を終えると、凱と陽菜はしばらくZ-FORCEで遊び、「またな!」と手を振って帰っていった。
玄関の戸が閉まる音がして、家の中が急に静かになる。
湯気の消えた味噌汁の匂いだけが、まだ薄く残っていた。
暖房の風が回り、カーテンの裾がゆっくり揺れる。
食器を片付けながら、美咲がふと彰のほうを見た。
流れ続ける水音と、皿の触れ合う小さな音だけがリビングへ残っている。
「……ねえ、彰」
彰はテーブルの端へ置いた湯飲みを指先で回し、そのまま視線を上げた。
「なに?」
「今日、道場で、ちょっと調子悪かったみたいね」
手の動きが止まる。
返事まで、ひと拍だけ間が空いた。
「……うん」
湯飲みを回していた指だけが、少し引っかかった。
「無理に話さなくていいけど……そういう時は、気分転換した方が楽になることもあるのよ」
美咲は手を拭きながら振り向き、やわらかく笑った。
「ゲームもしていいからね。好きなことしておいで」
彰は少し迷うように視線を動かす。
「……いいの?」
「いいの。あまり遅くならないようにね」
「……うん。ありがとう、お母さん」
立ち上がると、椅子の脚が床を短く擦った。
そのまま彰は、自分の部屋へ向かって歩き出す。
部屋へ入ると、灯りを少し落とし、机の上へZ-FORCEを置いた。
電源を入れた瞬間、暗い画面の中へ青いロゴがゆっくり浮かび上がる。
青白い光が机の縁をなぞり、揺れた指の影だけが壁へ伸びた。
モニターの光が頬の片側だけを照らし、部屋の奥はまだ暗いまま沈んでいる。
「……」
インサイダークエストのタイトル画面。
何度も見てきた光景だった。
ログインし、いつものアバターを呼び出す。
最初に設定した時、そのアバターは“拳ファイター”だった。
心体育成流みたいに戦いたかった。
巌みたいな強さへ、ただまっすぐ憧れていた。
あの頃は、それだけを疑わずに目指していた。
「……よし」
小さく息を吐き、そのままソロクエストへ入る。
仮想の森が一瞬で立ち上がった。
風が木々を揺らし、足を踏み出すたび土の感触が返ってくる。
敵が現れる。
彰は自然に拳を構え、そのまま身体を前へ滑らせた。
拳が迷いなく繋がり、画面の隅でダメージ表示だけが次々と弾けていく。
(ちゃんと、できる)
指は迷わない。
避けるタイミングも、攻撃の順番も、身体が勝手に覚えていた。
敵を倒すたび、画面の隅へスコアが次々と並んでいく。
動きに迷いはない。
ゲームとしての楽しさも、ちゃんとそこに残っていた。
画面の中では、自分の分身が拳で敵を倒し続けている。
「……なんだろ」
コントローラーを握る指が、最後まで沈みきらない。
ボタンは押せている。
コンボも途切れていなかった。
それなのに、踏み込む直前でわずかに遅れる。
画面の中の一歩だけが、先に進んでいくみたいだった。
拳はちゃんと当たっている。
それでも、押し切る直前で何かだけが噛み合わない。
息を吐いても、指先の動きだけが妙に遅れていた。
「……オンライン、やってみるか」
インサイダークエストには、オンライン対戦モードがある。
同じランク帯のプレイヤーと戦い、勝てばランキングが少しずつ動く。
凱と一緒に遊ぶとき、よく話していたモードだった。
(……いけるはずだ)
いつもの拳ファイターのまま、マッチングを開始する。
数秒後、対戦相手が決まった。
細身の槍使い。
ランクは、ほとんど同じだった。
試合が始まる。
長いリーチが前へ滑り込み、距離を詰める前に間合いを切られる。
彰はステップで踏み込み、ジャブからそのままコンボへ繋げた。
ダメージは確かに入っている。
それなのに、踏み込むたび押し返される感覚だけが残った。
思ったより、距離が詰まらない。
「うわっ……!」
最後の一撃をもらい、HPがゼロになる。
画面の中央へ、《LOSE》の文字が浮かび上がった。
静まり返った部屋には、ファンの低い駆動音だけが続いている。
(……まあ、一回くらいは)
気を取り直し、もう一度マッチへ入る。
二戦目も、三戦目も、コンボはちゃんと繋がっていた。
ダメージも入っている。
それなのに、削り切る直前で相手の一撃だけが先に届いた。
崩れた体勢のまま、画面だけが切り替わっていく。
「……もう一回」
次は押し込めていた。
端まで追い詰め、あと一歩で決まる。
――その瞬間だけ、踏み込みがわずかに遅れた。
差し込まれたカウンターで、視界が大きく揺れる。
「あと一発なんだけどな……」
ため息を吐き、そのままソファの背へ体重を預ける。
指先には、まだ操作の感覚だけが残っていた。
それなのに、握った指先だけがどこか冷えたまま噛み合わない。
ふと、別の映像が頭をよぎる。
(……そういえば)
凱が使っていたアバター。
大きな剣を振り回し、派手なエフェクトを散らしていた。
『オレ、剣の方が向いてるっぽいわ』
『間合い広いし、ガツンって当たる感じが気持ちいいんだよな』
道場で木刀を握った凱の踏み込みまで、一緒に頭へ浮かぶ。
一歩だけ、深く入る。
「そこだけは評価する」
苦笑した誠の声が、短く重なった。
(……試してみても、いいかな)
指がキャラ選択の画面へ戻る。
拳ファイターの隣へ並んでいた“ソードファイター”を選択した。
並んだ剣を眺めながら、彰は少しだけ迷う。
カーソルは端から端まで滑り、そのあと中央で止まった。
「初心者向け」
その文字の横で指が止まり、そのまま決定を押す。
次の瞬間、アバターの背中へ銀色の剣が現れた。
「……へえ」
立ち姿の重心が、わずかに後ろへ引かれる。
視線の高さまで、ほんの少し変わった気がした。
そのまま対戦へ入る。
相手は短剣使いだった。
開始と同時に距離を詰められ、彰は反射的に後ろへステップする。
横へ流し、構え直して踏み込んだ。
振り抜いた横薙ぎが、画面の中を鋭く走る。
――シュッ。
刃先が、先に届いた。
手元へ、遅れて振動が返ってくる。
短剣使いのHPが、一気に削れた。
(……当てやすい)
相手の速い動きも、今度はちゃんと目で追える。
ステップで横へ流し、そのまま二撃、三撃と自然に繋がった。
最後の一太刀が決まり、《WIN》の文字が浮かび上がる。
「……勝った」
握り直したコントローラーが、さっきより深く手へ沈んだ。
次の入力まで、ちゃんと噛み合っていく。
(たまたま……か?)
二戦目は弓使いだった。
矢が放たれるより先に間合いへ入り、そのまま踏み込んで斬る。
二戦目も勝利。
「……剣、けっこう、いいかも」
指が止まらないまま、次の試合へ入っていく。
何戦か続けるうち、勝ちと負けが交互に並んだ。
それでも、拳のときみたいな引っかかりだけはなかった。
コンコン、と軽いノックの音がする。
「彰、そろそろ特集始まるわよー」
「えっ、今日だっけ……あ、見る!」
慌てて立ち上がり、そのまま端末をスリープへ切り替える。
「そんなに急がなくても大丈夫よ」
美咲が笑いながら言った。
「だって……インサイダーの特集なんでしょ?」
言葉の終わりだけが少し弾む。
「始まっちゃうわよ」
美咲が階段を降りていく。
彰も「うん!」と返し、そのまま足を速めた。
リビングへ入ると、テレビの画面には“特集:現役インサイダーたちの仕事”の文字が映っていた。
照明を落とした部屋は、その光だけへ静かに沈んでいる。
冷えた湯飲みの縁で、細い影がゆっくり揺れた。
次の瞬間、画面が切り替わる。
瓦礫の山を背に、銀色の髪を揺らした男が立っていた。
背には、大きな剣。
その目だけは、まっすぐ前を見据えたまま動かない。
『Sランクインサイダー・御剣 隼人――』
紹介の声が続く前に、剣が動いた。
――白い線。
ひと呼吸遅れて、ビルの残骸が音もなく裂ける。
光の軌跡だけが一瞬残り、次の瞬間にはもう消えていた。
「すごい……」
美咲の息がわずかに止まる。
彰も、気づけばテーブルへ手をかけたまま身体を前へ乗り出していた。
誠は腕を組んだまま動かない。
視線だけが、画面を静かに追っている。
そのときだった。
画面の下へ、L字の速報が差し込まれる。
《臨時ニュース:首都圏の一部で原因不明のシステム障害。一部地域で停電や通信への影響が出ています》
アナウンサーの声が続く中、画面では御剣が剣を構えたまま立っている。
右下へ差し込まれた街角の映像で、信号の明かりが一度落ち、遅れて点き直した。
その明滅の奥。
ガラス張りのビルの一角を、黒い影みたいなものがかすめる。
(……今の)
視線だけが一瞬止まった。
人影にも、ローブの裾にも見える形が、そのまま画面の端へ流れて消えていく。
「……?」
眉が寄る。
その直後だった。
ウゥゥゥーーーーッ!
窓の外から、低く長い警報音が響く。
彰が反射的に顔を上げた。
『――クエストが発生しました』
無機質な女性の合成音声が続く。
『クエスト名:富士吉田討伐戦 クエストランク:E 制限時間:24時間』
『詳細:富士吉田市に大量発生した魔物の群れをすべて討伐してください』
テレビ画面の速報も切り替わる。
山梨県周辺の地図が表示され、富士吉田市一帯が赤く点滅した。
「クエスト……」
美咲が小さく息を吐く。
誠は腕を組んだまま画面を見る。
「富士吉田か」
短い沈黙。
けれど次の瞬間には、彰の視線は再び御剣へ戻っていた。
テロップが流れていても、そこから目が離れない。
(……きれいだ)
刃の動きだけが、まっすぐ目へ焼きついてくる。
距離を測るより先に、次の一撃へ身体が引っぱられた。
瓦礫が開く。
その奥で、御剣が小さな子どもを抱き上げた。
汗を拭う間もなく視線を合わせ、その口元だけが少しほどける。
アナウンサーの声が、その映像の上を静かになぞっていた。
『彼のような近接戦闘型インサイダーは、救助・殲滅の両面で重要な役割を担っています』
画面が切り替わる。
赤みを帯びた茶髪の男が、炎を纏った大剣を背負ったまま瓦礫の中へ立っていた。
『こちらは、“獅子奮迅”の異名を持つAランクインサイダー――獅子堂 焔』
剣が振り抜かれ、炎が遅れて広がった。
ひと呼吸遅れて、モンスターの輪郭が崩れていく。
「……」
彰は、黙ったまま画面を見つめていた。
踏み込む瞬間の重さだけが、妙にはっきり残る。
(拳じゃない)
足裏へ落ちる感覚が、今までと違った。
それでも、不思議としっくり来る。
焼けた空間の奥へ、次の一歩がそのまま続いていくみたいだった。
「……どう?」
美咲が、彰の横顔をそっとうかがう。
「インサイダー、かっこいい?」
「……うん」
「かっこいいよ。すごく」
言葉を返した瞬間、テーブルへ置いた手が小さく動いた。
心体育成流――その言葉へ触れたところで、また感覚だけが途切れる。
それでも、さっき見た剣の軌跡だけは、まだ視界に残っていた。
部屋へ戻ると、Z-FORCEのスリープ画面にソードファイターが静かに立っている。
背には、銀色の剣。
(御剣さんの剣……すごかったな)
瓦礫を裂いた光も、焔の炎も、さっき自分で振った剣の感触も、頭の中でまだ重なったまま離れない。
(オレも……いつか、ああなりたいのかな)
そう思った瞬間、握ったコントローラーが少し軋んだ。
(……なに考えてるんだ)
巌のことを思い浮かべようとしたところで、像だけが途中で途切れる。
拳の形だけが浮かび、その先だけがどうしても繋がらない。
それでも、“インサイダー”という言葉だけは、ぼんやり画面の光と一緒に残っていた。
拳なのか。
剣なのか。
答えにならない感覚だけが、画面の前で揺れたまま残る。
「……わかんないよ」
ベッドへ倒れ込み、天井の光をぼんやり見上げる。
マットレスが静かに沈み、布団の中へ体温がゆっくり溜まっていった。
暗い天井の向こうで、剣の軌跡と拳の感触だけが何度も重なる。
『構えは心だ。倒れても、立つ』
その言葉だけを残したまま、思考はまた途中で途切れた。
(……まだ、分からない)
小さく息を吐く。
外では、風に揺れた電線の音だけが静かに続いていた。




