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アウトサイダー  作者: 君島極
第一章:灯が消えない場所 | 第一節:灯るもの
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第14話:守るための鍵

――次の日・朝/龍胆家


味噌汁の匂いが、まだ薄い朝の空気へ広がっていく。


キッチンの横にある小さな仏間へ、四角い朝日が差し込んでいた。


ちゃぶ台の端へ茶碗を置いた美咲は、湯気を一度見つめてから、そっと両手で持ち上げる。


「……ちょっと、待っててね」


小さくつぶやき、そのまま畳の上を歩いた。


仏壇の前へ膝をつき、ご飯の乗った小さな膳を静かに置く。


写真立ての中で、巌はいつものように笑っていた。


額の傷も、日に焼けた顔も、そのままだった。


美咲は両手を合わせ、ゆっくり頭を下げる。


「おはようございます、お義父さん……。今日も、よろしくお願いします」


声が少しだけ震えた。


仏壇へ供えられた白い花は、少ししおれかけている。


それでも、美咲は毎朝欠かさず水を替えていた。


廊下の影では、小さな人影がじっとその背中を見つめている。


「……彰。こっち、いらっしゃい」


美咲が顔を上げ、やわらかく呼びかけた。


彰の足が一度止まる。


それから裸足のまま、静かに畳の上を歩いてきた。


巌の写真の前へ膝をつく。


美咲が少しだけ場所をあけてくれる。


「手、合わせて」


「……うん」


小さな掌と掌を合わせる。


触れたところから、汗ばんだ熱だけがじんわり移ってきた。


写真の中の巌は、笑っている。


道場着姿で、拳を軽く握ったままだった。


畳の上で正座し、構えを見せてくれた背中。


肩へ置かれた手の重さ。


受け止められた瞬間の衝撃。


どれも、形だけはちゃんと残っている。


――それなのに。


合わせた指が、少しだけほどけた。


何度呼びかけても、何も返ってこない。


そこだけが、ぽっかり空いたままだった。


(……なんで)


葬式の読経も、線香の匂いも、膝へ残った痺れも覚えている。


順番も、場面も分かる。


それなのに――その中にいるはずの“声”だけが、どこにも残っていなかった。


思い出そうとした瞬間、言葉だけが途中で途切れる。


そこには、何もない静けさだけが残っていた。


『構えは心だ。倒れても立つ。それが心体育成流だ』


言葉は、口の中でなぞれる。


けれど、その“音”だけがどうしても浮かばなかった。


思い出そうとするたび、そこだけが霧みたいにぼやける。


(……なんか、ちがう)


そう思った瞬間、指へ入っていた力が抜けた。


彰はあわててもう一度指を組み直し、小さく息を飲み込む。


写真の笑顔を見ているはずなのに、合わせた手の温度だけがやけにはっきり残っていた。


言葉だけが、そこで引っかかったまま残る。


隣で、美咲がそっと息を吸った。


「……ありがとうね、彰」


「……ううん」


返事はできた。


ちゃんと声も出る。


それなのに、写真へ向けた視線だけが途中で止まった。


息を吸った瞬間、その違和感だけが喉へ残った。


(……なんか、そこで止まる)


誕生日のロウソク。


ゲームの画面。


陽菜の笑い声。


そこまでは浮かぶ。


けれど、その先だけが白く途切れていた。


翌朝、布団が空だったこと。


家じゅうと近所を探し回ったこと。


誠と一緒に協会へ駆け込んだことまで、断片みたいに頭へ戻ってくる。


順番は、ちゃんと分かる。


協会の隊員が周辺を探したことも、手がかりが見つからなかったことも覚えていた。


それなのに――


そこにいたはずの“自分”だけが、どこにも引っかからなかった。

その少し前。


テレビから、「上尾」「爆発」という言葉が流れていた。


落ち着いた声だった。


いつもと変わらない調子なのに、その言葉だけがひとつ引っかかる。


“事故”だと言われても、白い光の輪だけが、まだ目の裏へ薄く残っていた。


「協会の人がね……足跡があったって」


湯気の向こうで、美咲の声が少し揺れる。


彰は箸を握ったまま、指先へ入る力だけをじっと確かめていた。


“モンスター”という言葉が出た瞬間、指先だけがきゅっと固まる。


巌が彰を連れ帰ったのは、その翌日の早朝だった。


まだ空が青と黒の境目みたいな色をしていた時間。


玄関の扉が開き、巌は崩れるように倒れ、その腕の中に彰を抱えていた――と、何度も聞かされている。


協会の人たちは、不思議そうに何度も首をかしげた。


「手がかりがほとんどない中で、あの場所まで辿り着くのは普通じゃない」


「どうやって見つけたんだ」


けれど、美咲と誠だけは迷わなかった。


「あの人は昔から、迷子や行方不明の子を誰より早く見つけてしまう人でした」


その言葉は、何度も聞いてきた。


道場の子どもや近所の誰かがいなくなるたび、巌が見つけてきたという話が自然に出てくる。


笑い声へ混ざるみたいに、“あの人は見つけてくる人だ”と語られていた。


協会の調査官でさえ、最後には似たような言葉だけを残していく。


「経験と勘が、働いたんだろう」


どうやって見つけたのか。


その先だけが、どこにも残っていない。


巌の口からも、その話を聞くことはもうなかった。


その後――


「龍胆のとこの子だって」


「重傷で戻ってきたって」


そんな声だけが、何度も耳へ入ってくる。


やがて近所の人たちは体育館へ集められた。


並べられた折りたたみ椅子の跡が、床へ長く残っている。


「暗い時間は出ないでください。不審な車や人は、すぐ通報を」


その言葉だけが、体育館のスピーカーで何度も繰り返された。


配られたプリントの紙はざらついていて、『ひとりで』の文字だけがやけに太く見えた。


ワックスの匂いが強い体育館の中で、大人たちの声だけが何度も反響している。


彰は椅子の端を指でなぞったまま、なぜかじっと座っていられなかった。


そのざわつきが、家の中までついてきたみたいだった。


それからだ。


龍胆家の玄関まわりに、見慣れないものが少しずつ増えていった。


誠は協会へ相談し、出入り口の鍵を増やす話を進めていた。


窓際には、小さなルーンプレートまで置かれている。


「一般家庭向けの防犯用ですよ」


隊員はいつもの調子でそう言い、淡々とそれを置いていった。


気づくと、目線の高さに銀色の金具が増えている。


前からそこにあったみたいなのに、どこか家じゃない感じが残った。


(……前は、こんなの、なかったのに)


彰はつま先立ちになり、その金具を指先でそっと触ってみる。


かちり、と乾いた音が返った。


ひんやりした感触だけが指へ残る。


彰はそのまま金具をもう一度だけ確かめた。


玄関をまたぐ前、足だけが一度止まった。


近所で見回りをする大人の姿も増えていた。


腕章をつけた町内会の人。


協会から来た、見慣れない制服の人たち。


「しばらくは様子を見ましょう」


誰もが、同じようにそう言った。


――でも、その“しばらく”がいつ終わるのか。


彰には、まだ分からなかった。


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