第13話:声のない記憶
――早朝/龍胆家・玄関
まだ外は、夜明け前の色だった。
鳥の声も、車の音も、ほとんど聞こえない時間。
ガチャリ、と玄関の鍵がまわる音がする。
誰もいないはずの廊下へ、冷たい風がひと筋流れ込んだ。
扉が軋みながら開く。
次の瞬間、影がひとつ、よろけるように中へ倒れ込んできた。
龍胆 巌だった。
片腕には、小さな身体がしがみつくみたいに抱えられている。
彰はぐったりと巌の胸へ顔を預けたまま、浅い呼吸だけを繰り返していた。
巌の道着は破れ、血と煤で黒く汚れている。
肩から腰へ深い裂傷が走り、灰色の粉まで髪と袖へこびりついていた。
「……つ、いた、か……」
かすれた声が、玄関のタイルへ落ちた。
巌は最後の力で片方の靴だけ脱ぎかけ、そのまま膝から崩れ落ちる。
額が床へ触れる寸前、身体をひねり、彰だけを庇う形になった。
ドンッ――。
重い音が家へ響く。
その瞬間、奥から慌ただしい足音が駆けてきた。
「え……?」
最初に顔を出したのは、美咲だった。
寝巻きのまま立ち尽くし、その視線だけが玄関で止まる。
「お義父さん!? 彰……!」
続いて誠が飛び込んできた。
巌の肩を支え、そのまま彰の頬へ手を当てる。
「彰は……息してる。体温もある。親父は――救急車だ!」
震える指で電話を押す音だけが、静まり返った玄関へ大きく響いた。
まだ夜の色が残る外とは違い、龍胆家の中だけが一気に張り詰めていた。
◇
――数日後/町はずれの小さな寺
線香の煙はまっすぐ立ち上り、途中からゆっくり揺れていた。
畳の匂いが、いつまでも本堂の空気へ残っている。
写真立ての中で、あの人は笑っていた。
額の傷も、細くなった目も、いつもと同じなのに、そこだけ時間が止まったみたいだった。
座っているうちに膝が痺れてくる。
重ねた指へ力が入り、抜こうとしてもうまく抜けない。
どうやって力を抜けばいいのか、誰も教えてくれなかった。
木魚の音が響く。
そのたび、身体の芯へ鈍い振動だけが沈んでいった。
本堂の外を車がゆっくり通り過ぎ、その音だけが腹の底へ重く沈んでいった。
視界の端で、黒い影が揺れる。
肩を叩かれた気がして振り向いた。
けれど、そこには誰もいない。
線香の煙だけが静かに揺れていた。
(――もう、ダイジョウブだ)
その言葉だけが、そこで止まったまま動かない。
けれど――声が思い出せなかった。
音も、響きも、もう掴めない。
目を閉じるたび、言葉だけがそこで止まる。
合わせた掌の隙間を、線香の煙が静かに抜けていった。
まぶたの裏には、白い光の輪だけがまだ薄く残っている。
(……あれは、なんだったんだろう)
一度息を吐き、そのまま動けなくなった。
(誘拐……じいちゃん死んじゃった)
写真の笑顔は覚えている。
額の傷も、あの太い腕も。
畳の上で木刀を握る姿や、背中越しに感じた気配まで、ちゃんと浮かぶ。
そして、あの言葉も。
『構えは心だ。――心が折れたら、腕も折れる』
足の置き方だけが、勝手に形をなぞっていた。
手の内の力が、抜ける位置を探っている。
それなのに――声だけが思い出せなかった。
思い出そうとするたび、呼吸の途中で何かだけが引っかかる。
線香の煙が、ゆっくり天井へ溶けていく。
彰はその揺れを見つめたまま、掌へ残った感覚だけを静かに握りしめる。
けれど、あの“声のない言葉”だけは残っていた。




