第12話:檻を砕く影
重い足音が床を震わせ、扉が弾けた。
冷たい外気がひと筋、白い床と機器の間を裂くように流れ込む。
影がひとつ。
輪郭だけで、誰なのか分かった。
「――彰!」
その声だけが、まっすぐ背骨を打つ。
熱と痛みで潰れかけていた呼吸が、一瞬だけ戻った。
白衣の男が、初めて正面を向く。
台座の奥へ立つ巌を見た瞬間、補佐たちの動きまで止まった。
張り詰めた空気だけが、静かにきしむ。
「許可は――」
補佐が言いかける。
けれど、その声は途中で止まった。
巌が無言のまま一歩前へ出る。
力みのない動きだった。
それなのに、踏み込んだ瞬間だけ空気の重さが変わる。
白衣の男も静かに歩み出た。
手袋の指先が空を切り、衣擦れの音だけが白い部屋へ鋭く響く。
――交錯。
拳よりも先に、気配だけがぶつかった。
踏み込んだ瞬間、互いの芯がわずかに外れる。
詰まった息だけが空中へ漏れ、そのまま行き場を失った力が床を軋ませた。
拳と掌が衝突する。
乾いた破裂音が白い部屋へ跳ね返った。
続く二撃目を黒衣が流し、低い蹴りが床すれすれで台座の縁を薙ぐ。
巌は足首を返し、その力ごと押し返した。
火花みたいに衝撃だけが弾ける。
次の瞬間には、もう互いの間合いが開いていた。
残った気配だけが空中でぶつかり合い、二人は再び距離を詰める。
(――彰を傷つけずに……)
奥歯が軋み、意識が一瞬だけ後ろへ引かれる。
台座の警告灯が赤く明滅した。
短い電子音が、呼吸の合間へ刺さるみたいに鳴り続けている。
「干渉で数値が乱れる!」
補佐の声がかすれた。
その瞬間、巌の眉だけがほんのわずかに動く。
(……この声、どこかで――)
思考が途中で途切れる。
白衣は振り返らない。
巌も姿勢を崩さないまま、互いの呼吸だけが正面からぶつかっていた。
金属の床が低くきしむ。
拳が滑り、止めた肘へ肩が触れた。
その一瞬だけ空いた間へ、視線が台座の側面へ引き寄せられる。
白いマスクの奥で、細い指と小さな胸だけがかすかに動いていた。
「……っ」
漏れた息が震える。
白衣の掌が巌の肩へ触れた。
次の瞬間、巌の身体が半歩だけ横へ流される。
右手が拘束具へ伸びる。
その直後、天井の光輪が色を変えた。
無色の光だけが、ゆっくり濃くなっていく。
ピッ、ピピッ。
鳴っていた電子音が、どこか嫌な高さへ変わった。
「まずい。閾値を超える!」
目盛りが跳ね上がり、装置の唸りが半音だけ高くなる。
軋んだ金属音が白い部屋へ反響し、補佐の声まで途中で震えた。
巌の手が金具へ触れる。
冷たさだけが、骨の奥へ鋭く落ちた。
汗がすっと引く。
その瞬間、身体の奥で何かが嫌な音を立てた。
(……なにか来る)
「――おじい、ちゃん!」
掠れた声がマスクへ吸われ、そのまま形を失った。
胸骨の裏では、痛いほどの鼓動が何度も跳ね続けている。
吸っても、吸っても足りない。
張り詰めていた何かが、一瞬で裏返った。
行き場を失った力が、足元から天井まで一気に駆け抜ける。
細く張られていた光が、視界いっぱいへ急激に膨れ上がった。
空間そのものが、わずかに遅れて歪む。
白い閃光が弾け、鼓膜が震え、逆立った汗だけが肌へ張りついていた。
「いやだぁ――!」
叫びの途中で音がちぎれ、そのまま光へ呑まれた。
視界が傾く。
白衣の輪郭が二重に揺れ、巌の肩まで水の中みたいに遅れて見えた。
補佐が何か叫んでいる。
けれど、耳へ残ったのは伸びきった警告音だけだった。
巌の腕が、彰の胸の上で止まる。
次の瞬間、床下から“何か”が一気に走り抜けた。
金属が悲鳴みたいな音を上げる。
叩きつけられた空気ごと、白い光が大きく揺れた。
天井の輪が増えていく。
重なった光の奥で、空間だけが一瞬抜け落ちたみたいに歪む。
二重。
三重。
さらに幾重にも重なっていく。
張り詰めていた構造が、一斉に裏返った。
行き場を失った力だけが、その内側へ触れていく。
ビーッ、ビーッ、ビーッ――。
「出力オーバー! 制御不能、爆――」
叫びは途中で途切れた。
白い光だけが残り、機器の影が一斉に揺れる。
次の瞬間、衝撃が遅れて弾けた。
床がめくれ上がり、巌の身体がまとめて吹き飛ばされる。
砕けた機器を巻き込みながら壁へ叩きつけられ、白い部屋が激しく震えた。
「っ――!」
それでも巌の視線だけは彰から外れない。
静まり返った部屋の中で、砕けた床と機器の上へ細かな埃が降っていく。
赤い警告灯だけが、間欠に点滅していた。
白衣の男は、台座の向こうを静かに見据える。
そこへ立っていた影は、揺れない。
恐怖にも怒りにも傾かないまま、ただ静かにそこに立っていた。
「……仕方がない」
その言葉のあと、室内の音だけが一段沈む。
男は掌を上げ、空気へ指先でゆっくり輪を描いた。
浮かび上がった“輪”が脈打つ。
その中心へ、暴走していた力だけが吸い寄せられていった。
冷たさが室内を満たす。
温もりまで裏返るみたいに、感覚がひとつずつ遠のいていく。
やがて掌が、少年の胸骨の上で止まった。
ちりん、と風鈴にも似た小さな音が落ちる。
直後、天井の光輪が反転した。
細い光の残像が何重にも絡み合い、そのまま薄い膜みたいに彰の身体を包み込んでいく。
皮膚へ張りつく感覚だけを残し、その光は静かに身体の深くへ沈んでいった。
(……さむい……)
意識が光の底へ引きずられていく。
最後の残光だけが、細く尾を引いていた。
「眠れ」
その言葉のあと、音が途切れる。
室内の唸りが止み、遅れて余震だけが床をかすかに震わせた。
崩れた天井から粉塵が静かに落ちてくる。
砕けた台座と歪んだ拘束具だけが、焼けた匂いの残る白い部屋へ取り残されていた。
白衣の影も、補佐たちの姿ももうない。
彰は床へ倒れていた。
胸だけがかすかに上下し、浅い呼吸だけが途切れず続いている。
巌は壁へ叩きつけられた身体を起こし、そのまま彰のそばへ膝をついた。
震える床へ片膝を落とし、小さな身体をゆっくり抱き起こす。
熱を失いかけた身体が、腕の中へ沈み込んできた。
巌は抱き上げた小さな体を見下ろす。
血と煤で霞む視界の中で、もう一度強く抱きしめた。
「……もう、ダイジョウブだ」
声がかすれる。
胸に痛みが弾けても、歩みだけは止まらなかった。
足音が警告音へ溶けていく。
やがて扉が開き、冷たい夜風が白い部屋の熱を押し流した。
湿った空気と遠くを走る車の音だけが、外の世界を思い出させる。
それでも、振り返ることはなかった。
赤い警告灯だけが、最後まで背後で点滅していた。




