第11話:沈黙の光――目覚めの檻
――夜/場所不明
さっきまで、布団の中にいたはずだった。
ロウソクの光も、ケーキの甘い匂いも、陽菜の笑い声も、まだぼんやり残っている。
眠れないまま、廊下の向こうで聞こえていた大人たちのひそひそ声をぼんやり追っていた。
そのまま目を閉じて――そこで記憶が途切れる。
直前、窓の外で、風鈴とは違う“金属が触れ合う音”だけが一度鳴った気がした。
それを確かめる前に、意識がすうっと暗く沈んでいく。
深い水の底から浮かび上がるみたいに、意識だけがゆっくり戻ってくる。
まぶたの裏へ白い光が滲み、ぼやけた輪郭が少しずつ視界へ流れ込んできた。
焦点はまだ合わない。
白い天井だけが、揺れながら視界へ浮かんでいた。
蛍光灯の光がぼやけ、その下を細い線みたいな光が一瞬だけ走る。
何かの形に見えた。
けれど、焦点が追いつく前にまた白へ溶けて消える。
肌へ何かが触れている。
それなのに、腕も脚も思うように動かなかった。
(……体が……動かない?)
マスクの内側には、さっきまでの甘い匂いがまだかすかに残っていた。
それが自分の記憶なのか、この場所の空気なのか分からない。
まぶたの裏がざらつく。
低い唸りみたいな音が脈と同じ速さで震えていた。
遠くで機械が回り、その音へ混ざるように乾いた金属音が遅れて響く。
鼻の奥には、焦げたような匂いまで混じっていた。
そのとき、肌の上を何かがなぞる。
触れていないはずなのに、細い線だけが皮膚の下を這っていくみたいだった。
規則正しい。
けれど、どこかだけ微妙にずれている。
「心拍、安定。意識、残存」
声がした。
機械のスピーカー越しみたいな、柔らかい男の声。
感情があるようで、言葉だけが妙に浮いていた。
「……ど、こ……」
閉じた口の隙間から、空気だけが擦れて漏れた。
「目を開けてください。痛みはありません。恐れる必要は、ないですよ」
穏やかな声だった。
けれど、耳へ入ってくるたび、何かだけが微妙に噛み合わない。
音程が揃いすぎている。
言葉というより、決まった順番の音だけが並んでいるみたいだった。
白く滲んだ視界の奥に、黒い影が立っている。
輪郭はぼやけたままなのに、“見られている”感覚だけが、はっきり肌へ残っていた。
(……だれ……)
答えはない。
かわりに、鈍い電子音だけが一度鳴った。
ピッ――。
「第零相を開始します。対象、安定波動を維持。流体、濃度〇・一二。微量から」
別の声が応じる。
言葉は短く切れ、感情も焦りも混じらない。
機器の作動音が立ち、白い光がわずかに揺れた。
その直後、腕の内側へ“何か”が流れ込んでくる。
最初は氷みたいに冷たい。
けれど、その冷たさはすぐ内側で熱へ変わった。
細い熱だけが、脈に合わせるみたいに皮膚の下を走っていく。
じわり、と拘束具の下へ刻まれていく感覚だけが残った。
(……いやだ……なに、これ……)
喉が勝手に鳴る。
途切れた息が、そのまま言葉へ変わった。
「……いや、だ……」
息が吸い切れない。
心拍音がどん、と跳ね、拘束された指が一度だけ強く震えた。
指が一度だけ痙攣する。
けれど、拘束された身体は思うように動かなかった。
ピッ――ピッ。
心拍音の間隔だけが、わずかに詰まっていく。
視界の端で、金属の印が光った。
浮かび上がった円環へ、数式みたいな線が絡み合っている。
ルーンにも似ていた。
けれど、読めない。
見た瞬間、視界の端が反射みたいに歪んだ。
「反応値、上昇。閾値までは……ええ、大丈夫です。想定範囲内です」
吸気が一拍遅れて肺へ落ちた。
同じ声が繰り返される。
耳へ入るたび、語尾の揃い方だけが妙に引っかかった。
白い光の奥で、黒衣の影が小さく頷く。
白衣でも軍服でもない。
それなのに、輪郭だけが異様に整って見えた。
顔はまだぼやけている。
けれど、口元だけがまったく崩れない。
「面白いですね。やはり、血筋の因子はまだ……生きている」
抑揚の少ない声だった。
その声を聞いた瞬間、周囲の音が一段だけ遠くなる。
機器の唸りと心拍音だけが、耳の奥で重なっていた。
(あつい……)
吸い込んだ空気がうまく肺へ落ちない。
光が細くなり、音だけが少しずつ遠のいていく。
目を閉じたいのに、まぶただけが落ちなかった。
「反応が来ます。第二相、移行します」
「構いません。――彼は、まだ耐えられる」
「……や、やめ……」
声にしようとした。
けれど、震えた空気が漏れただけだった。
心拍音が速くなりすぎて、耳の奥へ自分の鼓動が何度も跳ね返ってくる。
視界の端が黒く滲み、呼吸だけがうまく噛み合わない。
優しい声が重なる。
けれど、その音はどこにも届かなかった。
一定の調子だけが、ずっと崩れない。
どこかで透明な液体が落ちる音がする。
機器の唸りが半音だけ高くなり、滲んだ光のせいで視界の水平まで少しずつ崩れていった。
(……おじ……いちゃん……)
言葉にならない願いだけが、マスクの内側で砕ける。
冷たさと熱が同時に全身を締め付けた。
その上から、静かな声だけが落ちてくる。
「ねえ、君は知っていましたか。“光”というのはね――強く願った瞬間に、最も深く現れる」
装置がぱちんと瞬いた。
短い警告音が鳴り、空気の密度がわずかに変わる。
黒衣の男が、ほんの少しだけ顔を傾けた。
その瞳は、紫色だった。
次の瞬間、光が明滅する。
外から扉を叩く音が響き、乱れた機器の唸りへ警告灯の点滅が重なった。
(……誰かが、来る)
分厚い扉の向こうで、もう一度強い衝撃音が響いた。




