第8話:前に出た位置
――放課後/インサイダー養成学校・訓練場
あの約束のあと、数日。
夕焼けの光が訓練場の床を照らし、油と汗の匂いがまだ胸の奥へ残っていた。
こぶしを振るたびガントレットが重く鳴り、息だけが自然と荒れていく。
「……やっぱり、うまく動かない……ちくしょう」
手の中で指が一度強く閉じる。
構えを作り直しても、動きの出だしが半拍ずれていた。
素手の型なら噛み合う。
だが金属をまとった瞬間、踏み込みの芯が外れる。
心体育成流の“拳基点”と、ガントレットがまだ噛み合っていない。
あの感覚も同じだった。
通るはずの流れが、装甲の重みで途中から切れていく。
――噛み合わない。
歯が触れ、空気が止まる。
込み上げた苛立ちのまま、彰はそばの鉄骨をガントレットの甲で叩きつけた。
「――おい、お前……今なんて言った?」
設備棟の裏から、硬い声が跳ねた。
振り返ると、小柄なドワーフの少女が立っている。
煤けた作業着には油の染みが残り、袖には火花の焦げ跡が散っていた。
工具を握る小さな手には新しい切り傷まで浮かび、そのまま動きを止めている。
その前に立つのは六菱征四郎。
顎を上げ、冷たい瞳で少女を見下ろしていた。
腕を組み、片足で床を軽く鳴らす。
「……ロックウェルの娘」
「六菱の研究員の娘でありながら、その程度でよく堂々としていられるな」
視線が工具へ落ちる。
「君みたいな出来損ないが六菱の名に関わっているだけで、泥を塗っているようなものだ」
少女は俯き、工具の柄を握る指へじわりと力が入った。
肩が小さく揺れ、擦れた袖がかすかな音を残す。
その姿を見た瞬間、喉の奥に硬い引っかかりが走った。
空気を押し込むように息を吸い――彰は声を上げる。
「六菱……それはさすがに言いすぎだろ!」
気づけば前へ出ていた。
拳は震えていたが、足だけは止まらない。
征四郎がゆっくり振り返る。
値踏みするような視線が、まっすぐ彰を射抜いた。
「……何か言いたいのか? 落ちこぼれくん」
声が落ちた瞬間、周囲の動きが止まった。
金属音と話し声が交じっていた訓練場から、音だけがゆっくり引いていく。
近くの生徒たちは視線を逸らし、そのまま数歩距離を取った。
誰も、六菱には逆らわない。
張りつめた空気の中、それでも彰は征四郎を睨み返した。
「人を見下すことが“優秀”だっていうなら……それは間違ってる!」
息が先に漏れ、そのまま言葉になる。
「インサイダーの仕事は、人を守ることだろ!」
一歩前へ出る。
自然と両腕が広がり、少女を背にかばう形になっていた。
背中には一人分の距離が残り、踏み出した足だけが半歩ぶん前へ出ている。
征四郎は無言のまま背を向けた。
靴音だけが訓練場の奥へ遠ざかっていく。
取り残された少女が、小さく息をこぼす。
「……ありがとう」
声は最後だけ少し震えた。
口元へ力が入り、目尻が少しだけ持ち上がった。
「わたし、ロックウェル・ツムギ。……さっきの、ちょっとカッコよかったよ!」
胸の前で両手を合わせ、ツムギは跳ねるように笑った。
奥の区画では、模擬武器が触れ合う乾いた音が途切れず続いている。
「……そうか?」
「うん。助けてくれて、本当に嬉しかった」
煤の残る頬のまま、まっすぐ視線が向けられる。
「いいって。理不尽な扱いは、誰だって嫌だろ」
「そーなの! でも言い返すの苦手で……だから前に立ってくれて助かった!」
肩をすくめ、照れ笑いを浮かべる。
語尾が跳ねるたび、間の取り方が少しだけずれていた。
その独特な話し方に、彰は口元を引き締めたまま視線を外した。
◇
翌日も、その次の日も。
休憩時間になると、気づけばツムギが近くにいた。
工具箱を抱えていたり、新しい部品を見せに来たり。
声が重なる回数が増え、気づけば足を止める距離も少しずつ近くなっていた。
そんな彰たちを、遠くから静かに見つめる人物がいた。
神楽月凛。
(……自分も苦しいはずなのに)
視線を上げると、鉄の床に映る光が低くなり、色が移っていた。
足元の影が長く伸び、整備用の道具箱にかかった。
放課後、訓練場の片隅でガントレットを整備する彰のもとに凛が歩み寄る。
足取りに音がなく、影だけが伸びていった。
「……この前のやり取り、見ていたわ」
「……え?」
「前に立つって、簡単じゃない」
凛の視線が、わずかに落ちる。
「何か言えば、自分がどう見られるか……誰が離れていくか……わかっていても、動いたでしょう」
そこで一度、言葉が止まった。
静かな呼吸だけが短く残る。
「……それができる人は、多くない。私は、そういう強さを知ってる」
それだけ言って、凛は視線を外し、そのまま歩き出した。
凛の足音は遠ざかっているのに、最後の言葉だけが耳に残った。
彰は固く結んでいた手に気づき、ゆっくり力を抜く。
指先へ残っていた白さが、少しずつ戻っていった。
「……ありがとう」
凛の歩調は変わらない。
けれど、わずかに首だけがこちらへ向きかけた。
「……それと。武器、変えたのね。楽しみにしてる」
振り返りきる前に、視線はまた前へ戻る。
そのまま夕焼けの中へ遠ざかっていく背中を、彰はしばらく見つめていた。
赤く染まった廊下の先で、その姿は人波へ溶けるように小さくなっていく。
――その光景を、柱の影から見つめる男がいた。
六菱征四郎だ。
目が合った瞬間、彼は短く舌打ちする。
だが何も言わず、そのまま背を向けた。
凛の背中が視界を横切り、征四郎の姿が廊下の奥へ消えていく。
廊下へ残っていた靴音が途切れた、その時だった。
足を動かすより先に、床へ落ちた影だけが半歩先へずれた。
踏み出す前の位置と、次に置かれるはずの足の影が、一瞬だけ重なって見えた。




