第7話:逃げない距離
――夕方/龍胆家・道場・裏庭
片付けが終わり外に出ると、裏庭の風が汗の塩気をやわらげた。
バンリが先に顔を出す。
「お、虹咲さんだよな? 挨拶遅れて悪ぃな」
後頭部を軽くかきながら笑う。
「アキのダチのバンリだ。よろしくな」
リアンも一歩遅れて頭を下げた。
「……ご挨拶が遅れました。リアンです。よろしくお願いします」
陽菜は一瞬だけ目を丸くし、それから小さく会釈した。
「うん……こちらこそ、よろしくね」
短い言葉だけが交わる。
空気が整い、足元の砂利の音だけが残る。
「ンじゃ、俺らはこれで! また学校でな!」
バンリが手を振る。
リアンも軽く会釈して、あとを追った。
足音が遠ざかり、門の外でひとつだけ笑い声が弾ける。
やがて気配が切れ、夕方の空気だけが戻ってきた。
風が通り抜け、汗の塩気がゆっくり引いていく。
その直後――
ぐい、と道着の袖が引かれた。
「……陽菜?」
振り返る。
すぐ目の前に、陽菜がいた。
両手で道着の端をつかんだまま、視線を落としている。
一拍おいて、顔が上がる。
いつもは穏やかな瞳に、確かな色が灯っていた。
「怒ってるよ、私」
道着の端を握り直し、言葉を続けた。
「ダンジョンブレイクのあと……アキ、自分から離れたよね。中等部のときみたいに」
喉が鳴る。
言い訳が浮かんだが、飲み込む。
陽菜は続ける。
指先へ、さらに力が入る。
「メッセージも、短いのばっかりだった。“大丈夫”“平気”って、それだけ」
道着の布へ、細い皺が寄った。
「電話も出てくれなくなったし……学校でも、目を合わせてくれなかった」
声が少しだけ揺れる。
「……避けられてるって、分かってた」
息が詰まり、そこで一度言葉が止まった。
「……心配してた。すっごく」
最後の言葉で、息が一瞬だけ詰まった。
目元が潤み、遅れて瞬きが入る。
言葉は続かず、夕暮れの空気だけが残る。
「……ごめん」
頭を下げる。
額が視界から消え、息だけが足元へ落ちた。
「怖かったんだ。俺のせいで、凱や陽菜まで悪く見られるのが」
喉が詰まり、息だけが浅く漏れる。
「また間違えて、また誰かを巻き込むのが……怖くて。だから――逃げた」
拳へ力が入る。
彰は視線を落としたまま、小さく続けた。
「……それに」
言葉が一度止まる。
「俺、もう……陽菜や凱の隣に立てないのかもしれないって思った」
夕陽が揺れる。
「力も上手く扱えなくて……このままじゃ、インサイダーにもなれないかもしれないって」
声が掠れた。
「だから……離れた方がいいのかもしれないって、ずっと思ってた」
陽菜は黙って聞いていた。
ふっと近づき、つま先一歩ぶん距離を詰める。
上目遣いで覗き込むその瞳が、離れずにこちらを捉えた。
まつげの影が、夕日の線に細く重なった。
「……怒ってるの。ほんとに」
上目遣いのまま、眉だけきゅっと寄る。
「でも、もっと怒ってるのは――私に何も言ってくれなかったこと」
そこで少しだけ頬をふくらませ、視線だけそらす。
(陽菜……)
静かな風が、二人の間を通り抜けた。
陽菜は少し視線を落とし、それから小さく息を吸う。
「……私だって、怖いときはあるよ。……でも、アキがいるから平気なの」
指先へ、少しだけ力が入る。
「私ね、昔からずっと、アキの隣にいたかったの」
彰の呼吸が止まる。
陽菜は視線を逸らさないまま続けた。
「だからインサイダー養成学校へ来たし、ここまで頑張ってきた」
夕陽の赤が、その瞳へ揺れる。
「だから……もしアキがインサイダーになれなくても、私は一緒にいる」
声は小さい。
けれど、一度も揺れなかった。
「アキがやめるなら、私もやめる」
「それでも、私はアキの隣にいたい」
夕陽の赤が、その瞳へ滲む。
返す言葉だけが、すぐには見つからなかった。
(俺も、同じだ)
裏庭を抜けた風が、道場の板を軽く鳴らした。
軒先の影が、夕陽に引き伸ばされていく。
「……ありがとう」
彰の喉が、小さく震える。
「俺も……陽菜と一緒にいたい」
その言葉を聞いた瞬間、陽菜の表情が少しだけやわらいだ。
張っていた指先から、ほんの少し力が抜ける。
それでも視線だけは逸らさず、まっすぐ彰を見つめ返した。
「……でも、次に同じことしたら――」
小さなこぶしが、彰の胸元へとんと触れる。
次の息が、予想より近くで返ってきた。
「絶対に許さない。ほんとに、怒るから」
その声は細いのに、揺れなかった。
「……うん。もう、逃げない」
「ごめん。ありがとう。ちゃんと言う。怖いときは、怖いって」
足元の砂利が、どちらからともなく一粒だけ動いた。
二人の距離は変わらないまま、視線だけが揺れる。
陽菜の肩がわずかに落ちた。
「……なら、よろしい」
きつめの口調のまま、目尻だけが緩む。
息をひとつ吸い、言葉を重ねる。
陽菜が息を落として笑う。
「ねえ、何があっても――笑って帰ろう。いっしょに」
夕陽の赤が、彼女の瞳に映る。
その色が、しばらく離れなかった。
「……ああ。必ず、笑って帰ろう」
彰は静かに答え、小さく頷いた。
ふいに、陽菜の手が伸びる。
指先が彰の手を探り、ためらいながら――ゆっくりと指の間に滑り込む。
恋人つなぎ。
細い指がきゅっと絡んで、逃がさないように力がこもった。
「……これで、もう逃げられないから」
上目遣いのまま、口元だけで笑う。
そのまま目を逸らさず、目尻がわずかに赤い。
夕陽が二人の影を長く引き伸ばしていた。
絡んだ指だけは、最後まで離れなかった。




