第6話:半歩先の世界
――休日の午後/龍胆家・道場
彰は実家の道場に立っていた。
木の香り。
足裏へ伝わる床板の冷たさ。
壁へ並ぶ古びた木刀や写真まで、何も変わっていない。
寮には入らず、自宅から学校へ通っている。
だから、この場所だけは幼い頃のままだった。
他の同級生たちが休日を休養や自主練へあてる中、彰は今週も畳の上へ立っていた。
ただ一つ違うのは――今、誠の指導で心体育成流を一からなぞり直していることだった。
「足の構えが甘い。もう一度!」
「……っ、はい!」
裸拳で構え、踏み込む。
防御から反撃まで、幼い頃に嫌というほど繰り返した基礎を、今は血が滲むまで叩き込まれていた。
裂けた拳へ熱が走る。
目の焦点がぶれ、畳の目だけが黒く歪んだ。
それでも誠の拳は容赦なく迫ってくる。
体格も筋力も、今の彰の方が上なはずだった。
なのに踏み込みは先に塞がれ、距離感も呼吸も、すべて先を取られてしまう。
「くそっ……全然通じねぇ……!」
畳へ叩き落とされた衝撃が、背中の奥まで突き抜ける。
荒い呼吸のまま、それでも彰はすぐ構えを取り直した。
踏み込み、打ち込み、崩される。
次の瞬間には、また畳へ落とされている。
立ち上がるたび足裏の感覚が薄れていく。
それでも膝へ手をついて息を吐き、彰はもう一度だけ前を向いた。
(それでも……!)
歯を食いしばり、踏み込んだその瞬間だった。
誠の拳が、真正面から迫る。
避けきれない。
そう理解した瞬間、体が勝手に動き始めていた。
「――っ!」
視界が大きく揺れる。
音だけが遠のき、踏み込んだ畳の感触が遅れて足裏へ返ってくる。
迫っていたはずの誠の拳との距離だけが、不自然なくらい遠かった。
背後で畳が軋む。
汗の一滴は、まだ空中へ張りついたまま落ちてこない。
時間の流れだけが、どこか噛み合っていなかった。
(……今だ)
彰は半歩だけ身体をずらした。
足裏一枚ぶんの差で、誠の拳が横を抜けていく。
その瞬間、景色の流れだけが変わった。
素手の正拳突きが、迷いなく誠の脇へ突き抜ける。
「っ!」
誠の身体が半歩だけ後ろへ揺れた。
避けられた。
そう理解した瞬間、踏み替えた足裏へ遅れて畳の感触が戻ってくる。
次の瞬間、頭の奥へ鋭い痛みが走った。
膝から力が抜ける。
視界の端が白く跳ね、口の奥へ金属みたいな感覚だけが残った。
「……っはぁ……!」
肩を震わせて荒く呼吸し、手を押さえ込む。
「……おい、今のは……なんだ?」
彰はすぐに答えられなかった。
言葉が引っかかり、息だけが先に漏れる。
こめかみの奥で、さっきの感覚が脈打っていた。
「……初めてじゃない。子どもの頃にも、何度か……変な感じになったことがあった」
肩で息をしながら、言葉を探す。
「この前のダンジョンブレイクでも……同じで。周りは止まっているみたいで……俺だけ、動ける、みたいな……」
言い終えきれず、息を吐いた。
誠は腕を組み、畳を見下ろしたまま動かない。
「……なるほど」
やがて顔を上げ、彰を見る。
「……固有魔法、かもしれんな」
彰は息を整え、口元をわずかに歪めた。
「……そう、なのかもしれない。でも、制御なんて全然できてない」
息が一度だけ詰まる。
誠は眉をひそめ、彰の顔をじっと見つめた。
「……龍胆の血には、昔から妙な“力”が潜んでいると聞かされてきた。お前も……その流れを受けているのかもしれん」
誠は彰を見据えたまま、しばらく黙っていた。
彰は答えられず、手を固く結ぶ。
確かに、さっきの感覚はあった。
けれど続いたのはほんの数秒だけだった。
すぐに力は途切れ、身体は重く、揺れた視界だけが残る。
拳を握ったまま動けなかった。
誠に頭を撫でられた幼い日の感触だけが、不意に脳裏をかすめる。
――その時。
「おじゃましまーす!」
陽菜が入口から顔をのぞかせた。
肩に掛けたエコバッグを開き、弁当箱を取り出す。
ふわりと広がる出汁と卵焼きの甘い香り。
「……陽菜。ありがとう」
「うん! お昼持ってきたよ」
陽菜は道場の隅に腰を下ろす。
その瞳は彰から離れず、指先が弁当の端を握り込む。
「じゃあ、もう一度やるぞ」
「はい!」
息を整え、彰は畳を強く踏みしめた。
(……あの感覚を、もう一度)
誠の拳へ意識を集中する。
踏み込み、躱し、打ち込む。
その流れを繰り返すうち、周囲の音だけが少しずつ遠のいていった。
汗が落ちるより先に、踏み込んだ畳の感触だけが足裏へ残る。
周囲の流れと、自分の動きがどこか噛み合わない。
視界の端では、陽菜の動きだけが一拍遅れて追いついてくる。
(来る……!)
肩のわずかな動きへ合わせ、彰はすれ違いざまに渾身の正拳を叩き込んだ。
――バシィィッ!
畳を震わせる音と同時に、誠が半歩下がり笑みを浮かべる。
「やるじゃないか……完全に見切られたな」
横で陽菜が目を丸くして立ち上がる。
「……今の……なに?」
言葉が遅れて出る。
「速いとかじゃなくて……一瞬、場所が……」
両手で弁当を抱えたまま、小さく跳ねるように興奮していた。
彰は肩で息をしながら答える。
「……まだ分からない。父さんの話だと……固有魔法かもしれないって。さっきのも……少しずれたみたいな感覚があった」
陽菜は思わず身を乗り出す。
だが、彰から目を逸らし、弁当を抱える腕に力が入った。
「……固有魔法……? 本当に……?」
息をひとつ整える。
「……すごいよ、アキ……」
肺は焼けるように重く、頭の奥では鈍い痛みが脈打っていた。
視界の端へ、光の尾だけが薄く残る。
(……また、この感じだ。きつい)
彰は荒い呼吸のまま顔を上げた。
誠が眉をひそめる。
「おい、大丈夫か。顔色が悪いぞ」
「ちょっときついけど……大丈夫」
彰がそう返した瞬間、陽菜がすぐに口を挟む。
「全然平気そうに見えないよ」
心配そうに顔を覗き込む。
「少し休もう? お昼にしよ」
抱えていた弁当箱を少し持ち上げた。
「ちゃんと食べられる?」
誠も小さく頷く。
「まずは休め。話はそれからだ」
その言葉に、彰はようやく力を抜いた。
「……ああ。腹減った」
誠も肩の力を抜き、小さく息を吐く。
「悪いな。うちらの分まで」
「い、いいえ!」
陽菜は慌てて首を振った。
誠は口元をわずかに緩め、そのまま道場の入口へ向かう。
「母さん呼んでくる」
足音が遠ざかり、道場へ静けさだけが残った。
彰は何を言えばいいのか分からないまま視線を落とす。
さっきまで誠と打ち合っていた時より、今の方が妙に落ち着かなかった。
陽菜も少し緊張したまま、弁当箱をゆっくり広げ始める。
重箱の蓋を開ける小さな音だけが、静かな道場へ響いた。
その沈黙へ重なるように、誠と美咲が戻ってくる。
「わぁ……美味しそうね」
美咲が目を細める。
四人はそのまま畳へ座る。
色鮮やかな卵焼き、海苔のおにぎり、出汁の香る鶏の照り焼き。
「いただきます!」
陽菜の手料理に、美咲が嬉しそうに笑う。
「陽菜ちゃん、料理上手ね」
「えへへ……ありがとうございます」
誠も頷きながら箸を取る。
「これはうまいな」
彰は少し照れながら口を開いた。
「……昔から、陽菜は料理得意なんだ」
陽菜は弁当箱へ視線を落としたまま、小さく肩をすくめる。
「……そんなことないよ」
照れたみたいに笑い、箸を持つ指へ少しだけ力が入った。
そのまま四人で食事を続け、やがて弁当箱の中身も少しずつ空になっていく。
久々に流れる穏やかな時間だけが、静かに道場へ残っていた。
食後、陽菜が片付けをしている間、彰は再び道場の中央に立った。
手にぐっと力をこめ、畳に足を沈める。
足裏の感触を確かめるように、重心を沈めた。
そこへバンリとリアンが入ってきた。
「お邪魔してます!」
バンリが軽く頭を下げる。
リアンも一歩遅れて、静かに会釈した。
「……失礼します」
誠は視線を向け、軽くうなずいた。
「父の誠だ。……彰のために来てくれてありがとう。ゆっくりしていってくれ」
短くそう言って、再び彰へ目を戻した。
「……バンリ、リアン。来てくれて、助かる」
彰の口元がわずかに緩む。
「気にすんなって。ダチだろ、俺たち」
バンリが一歩踏み出し、拳を鳴らす。
「せっかくだしよ――俺とリアンでいくぞ。二対一だ」
一瞬、間が落ちる。
「は? 二対一って――」
言い終わる前に、バンリが笑った。
「甘えたこと言ってんじゃねぇよ。訓練だろ?」
肩を回しながら、構えを取る。
リアンも一歩引き、低く重心を落とした。
「状況は選べません。むしろ――その方が実戦に近い」
三人で構え、打ち合いが始まる。
バンリが肩を鳴らしながら踏み込み、リアンは低い姿勢のまま無駄なく間合いを詰めてきた。
左右から圧が迫る。
避けきれない。
そう理解した瞬間、彰の視界がわずかにずれた。
「――っ!」
体が先に動く。
バンリの拳を半歩外し、そのままリアンとの間へ滑り込んだ。
その一瞬だけ、間合いの取り方が綺麗に噛み合う。
呼吸より先に身体が動き、踏み込みだけが自然に繋がっていた。
だが持続はほんの数瞬。
その感覚が走った直後、こめかみを刺されるような鋭い痛みが襲った。
「……ぐっ!」
片膝をついた彰を見て、バンリが叫ぶ。
「今、完全に見切ったよな!? でも顔色……やばいぞ!」
リアンも険しい声を重ねる。
「今の動き……異常です。……もしかして、例の……? でも、その状態……負荷が大きすぎます。続けるのは危険です」
彰は呼吸を整えようとした。
けれど息は浅く途切れ、こめかみの奥だけが脈打ち続ける。
視界の端はまだわずかに揺れ、さっきの感覚だけが身体へ残っていた。
「ああ……固有魔法かも、って……前に言われたやつ」
彰は震える拳をゆっくり握り直す。
関節の奥には、まだ熱だけが残っていた。
――それでも、訓練は続いた。
踏み込み、崩され、立ち上がり、また構える。
回数を重ねるたび、動きだけが少しずつ鈍っていく。
だが、あの感覚は二度と訪れなかった。
西日が畳を長く染める頃。
誠は短く息を吐き、視線だけで制した。
「……今日はそこまでだ」
畳へ落ちた長い影だけが、静かに揺れていた。




