第4話:残り続ける音
夕焼けがまだ空を染める頃、彰は実家の前で足を止めた。
制服のまま道場の引き戸を開けると、畳の香りと温まった空気がふわりと流れ出る。
正面では、稽古を終えた父――龍胆誠が胴着の袖で汗を拭っていた。
鍛え抜かれた背中をこちらへ向けていた父が振り返り、視線を彰へ静かに留める。
「……どうした。珍しいな、この時間に帰ってくるとは」
道場の中央に進み、真正面から目を合わせる。
手を強く結び、吐息を一つ。
「父さん……話がある」
「……剣を、やめようと思う」
父の眉がわずかに動く。
「理由を聞こう」
「昔、言ったよな。“やるなら中途半端にするな”って。だから剣を続けてきた」
吐き切るまで、その場を動かなかった。
「でも今は分かった。俺には拳の方が合ってる。拳で、本気で戦いたい」
道場の奥で鳴る換気扇だけが、静けさを際立たせていた。
その奥で、自分の鼓動だけがはっきりと響く。
父の口元が、わずかに緩む。
「……ようやく、お前の“目”になったな」
視界の端が明るくなり、足裏で畳の目が一つずつ伝わる。
畳の上で二人の影が重なる。
夕陽がその輪郭に沿って差し込んだ。
「……昔とは、目つきが違うな」
「……お前が剣を選んだときも、俺は否定しなかった。あれはあれで、お前なりに強さを求めた結果だったからだ。だが――」
誠はゆっくりと歩み寄り、彰の肩へそっと手を置く。
「いまのお前の目は……誰かの背中ではなく、自分の足で立とうとしている」
肩へ置かれた手の重みが、思ったより深く残った。
「だが覚えておけ。拳の道は、剣以上に孤独で苛烈だ。骨も、誇りも、何度でも砕かれる。……それでも進むなら、自分の身体を疑うな。逃げずに、最後まで向き合え」
父の眼光に、鋭さが戻る。
「遠慮はいらん。道場も、俺も、全部使え。それが、お前自身の選んだ戦いだな」
肩から背中へ移った手が、静かに背を押す。
足が半歩だけ前へ出る。
視界の縁が、にじんだ。
「……ありがとう、父さん」
「ただし――格闘術は身体に出る。特に“心体育成流”は、身体が先に音を上げる」
「分かってる。それでも……やりたい。もう一度、最初からやり直したい」
父は頷き、道場の隅へ置かれた古い打ち込み台を指差した。
「なら、そこから叩き込め。忘れかけた基礎を、骨の奥まで戻せ」
「はい」
彰は制服から胴着へ着替え、帯を締め直すと、打ち込み台の前へ立った。
深く息を吸い込み、握り直した拳を振り下ろす。
乾いた打撃音が、夕暮れの道場へ重く響いた。
衝撃は腕から胸へ抜け、そのまま骨の奥まで真っ直ぐ届く。
拳を打ち込むたび、呼吸と音が少しずつ同じ間隔へ揃っていった。
誠は何も言わず、その様子を見守る。
時折、立ち位置や重心だけを短く修正する。
打ち込みは途切れることなく続く。
そのとき、道場の入口が静かに開いた。
「二人とも、ごはんできてるわよ」
美咲が苦笑しながら顔を覗かせる。
彰と誠は同時に動きを止めた。
道場へ残っていた熱気の中、誠が短く息を吐く。
「……続きはあとだな」
彰も頷き、ゆっくり拳を下ろした。
そのまま二人は並んで道場を出る。
その日の夕食は、久々に三人そろっての食卓だった。
普段の彰は訓練で帰りが遅く、食事も別になることが多い。
けれど今日は、誠も美咲もどこか嬉しそうに箸を動かしている。
「……誠さん、なんか今日ご機嫌ね?」
味噌汁をよそいながら、美咲が小さく笑った。
誠は咳払いし、わざとらしく視線を逸らす。
「……別に普通だ」
「絶対違うわね」
美咲が肩を揺らす。
そのやり取りに、彰も苦笑しながら箸を進めた。
久々に流れる穏やかな空気の中、誠が湯呑みを置いて彰へ視線を向ける。
「……このあともやるか?」
彰は頷いた。
「うん。そのつもり」
その返答に、誠の口元がわずかに緩む。
「……よし」
美咲は二人を見比べ、苦笑した。
「あんまり無茶しすぎないようにね?」
「分かってる」
彰はそこで、ふと思い出したように顔を上げる。
「……そういえば父さん」
「前、ショッピングモール行ったときさ。昔、家にあったゴスロリ雑誌の話になったんだよ」
誠の箸が止まった。
「……え?」
彰は吹き出しかけながら続ける。
「俺の趣味だって疑われたんだけど」
数秒、空気が止まる。
誠の顔がみるみる赤くなった。
「あ、あれは……母さんのだな……!」
「えっ!?」
今度は彰が目を見開く。
美咲も一瞬止まり、それから少し恥ずかしそうに視線を逸らした。
「……若い頃、好きだったのよ。ああいう服」
「えーーっ!? 母さんが!?」
彰の声が裏返る。
美咲は頬を赤くしながら、小さく笑った。
「でも、誠さんも“可愛い”って言ってたじゃない」
「っ、お、おい……!」
誠が一気に顔を赤くする。
「あれはその……!」
言葉に詰まったあと、誠は強引に咳払いした。
「彰! 飯食ったならさっさと鍛錬だ!」
「誤魔化した!」
彰が吹き出す。
久々に、食卓へ笑い声が広がった。
しばらく三人の笑いが続いたあと、食器を片づける音だけが静かに残る。
誠は湯呑みを置き、立ち上がった。
「……行くぞ」
彰も小さく頷く。
そのまま二人は、再び道場へ戻った。
夜の静けさの中、乾いた打撃音が一定の間隔で響く。
誠は何も言わず、夜が深くなるまで道場へ残り続けていた。
打ち込むたび、今日、棚へ戻した模擬剣の乾いた音が脳裏をかすめる。
それでも木柱は鈍く鳴り、衝撃だけが腕へ真っ直ぐ返ってきた。
道場の隅では、使われなくなった木刀が薄闇へ沈んでいる。
彰は静かに腰を落とし、もう一度構えを整えた。




