第13話:夜の独白――遠ざかる位置
――夜/龍胆家・彰の部屋
その夜、彰はベッドへ仰向けになった。
やわらかいマットレスが身体の重さを受け止め、肩と腰がゆっくり沈んでいく。
頬をかすめる夜気は冷たいはずなのに、その温度だけがうまく掴めない。
彰は枕元でシーツの端を摘み、折ってはほどき、また同じ折り目を無意識に作り続けていた。
まぶたを閉じる。
窓の向こうのエンジン音と、室内の秒針の音が重なり、耳へ触れてくる。
秒針が進むたび呼吸の流れだけが途中で崩れ、吸い直しても胸の奥で空気がうまく繋がらない。
「……まただ」
声は部屋に落ち、そのまま壁へ届かず消えていく。
焼肉へ行った夜は、少しだけ息が軽くなった気がした。
バンリの笑い声も、リアンの言葉も、まだ耳の近くに残っている。
けれど学校へ戻れば、現実だけがまた静かに押し返してきた。
訓練を重ねても、あの感覚はまだ再現できない。
剣を振るたび、自分と周囲との差だけが嫌でも目についてしまう。
陰口も減るどころか、前より耳へ入るようになっていた。
「前は普通に三人でいたよな」
「てか、前なんでよく三人でいたのか普通に謎なんだけど」
「正直、一人だけハズレ感あるよな」
そんな声ばかりが耳へ残る。
気づけば、陽菜も凱も、前みたいに無理に踏み込んでこなくなっていた。
彰が距離を取るたび、二人も少しずつその間合いへ合わせるようになっていく。
誰も何も言わない。
その静けさだけが、教室の隅に残っていた。
――剣をはじかれた金属音。
観客席のざわめきの中で、腕先だけが制御から外れた、あの日。
試合終了の笛が鳴っても、音だけが途切れたまま誰も声を出さなかった。
そこへ重なるように、夕陽へ染まった中庭の芝生が浮かぶ。
鼻の奥には、あのときの草の匂いがまだ残っていた。
陽菜の前で、告白しているように見えた峰岸。
その前へ、凱が一歩踏み出す。
彰は少し離れた場所で立ち止まったまま、足元ばかりを見ていた。
視界の下へ残った床だけが、妙に動かない。
足は、一歩も前へ出なかった。
(……守れなかった)
(彼女が困ってたの、わかってたのに)
カーテンが一度だけ揺れ、風の音とも言えない空気の動きが静かに部屋を横切った。
「はぁ……っ」
喉から漏れた息と一緒に、あの時の光景が脳裏へ浮かぶ。
崩れた通路へ飛び込んだ瞬間、迫る瓦礫も、細く引き延ばされた世界も、異様なほどはっきり見えていた。
足裏だけが先に動き、凱も、陽菜も、周りにいた人たちも助かった。
けれど、もう一度同じことをしろと言われても、できる気がしない。
使えない力なら、守る力じゃない。
彰は布団を蹴り、身体を起こした。
床の冷たさだけが、遅れて身体へ伝わる。
胸の内側では拍動が続き、壁へ手をついて体重を預けた。
呼吸が途中で途切れ、握り込んだ拳へ血の重さが集まっていった。
(必死にやってきた……はずなのに)
人が眠る時間に剣を振り、人が遊ぶ時間もただ走り続けてきた。
息が切れても、足だけは止めなかった。
だから陽菜と恋人になれたときは、ようやく報われた気がした。
凱に背中を押されたときも、心から感謝していた。
けれど今は、ペットボトルの蓋を回そうとしただけで指が空を切る。
力の入れどころを見失い、彰は小さく息を吐きながら机へ向かった。
その瞬間、中庭で凱が陽菜の前へ立った光景が、また脳裏へ浮かぶ。
彰は、ただ少し離れた場所に立っていただけだった。
声を張れば届く距離なのに、足だけが動かなかった。
二人が並ぶ姿だけが、今も視界へ焼きついている。
その記憶へ重なるように、別の日の光景が浮かんだ。
模擬戦のあと――凱は汗だくのまま手を差し出して笑った。
「ナイス踏み込み」
その声は、背中へ触れたまま距離を失っていく。
腕を組むと、二の腕へ爪が食い込んだ。
その痛みで、彰は無理やり思考を止めようとする。
けれど陽菜の笑顔へ、ふと別の輪郭が重なった。
顔をそらした先で、行き場を失った記憶だけが次々と浮かぶ。
窓辺まで歩き、足を止める。
カーテンの隙間を指で広げると、街灯の光が視界の端へ引っかかった。
輪郭が滲み、目へ刺さるように感じて、彰はすぐに指を離す。
その瞬間、記憶がまた別の形で流れ込んできた。
陽菜の「バカ」という、少し息の混じった笑い声。
汗に濡れた凱の掌が、背中を叩いた感触。
蝉時雨の音と、焼けた砂の匂い。
三人で笑っていた、照り返しの強い午後。
映像はうまく繋がらない。
浮かんでは途切れ、視界の中で像だけが揺れていた。
彰は手を握っては開き、呼吸の数へ合わせるように同じ動きを繰り返す。
(……本当は、俺をふがいないと思ってるんじゃないか)
(陽菜も、俺とは釣り合っていないと思っているかもしれない)
胸元へ、手のひらを強く押し当てた。
鈍い圧だけが続き、揺れていた視界が一度だけ静かに収まる。
その重みだけが、渦の中で確かなものとして残っていた。
そのとき、不意に机の上でペン立てが揺れる。
転がったシャープペンが乾いた音を立て、部屋の静けさへ小さな割れ目を作った。
指先へ残った痛みだけが、現実だった。
けれど次の瞬間、耳の内側で別の声が重なった。
「お似合いだよな、虹咲さんと獅子堂くん」
声は廊下へ広がり、そのまま行き場を失っていく。
乾いた笑いだけが、耳元をかすめて消えた。
噂と囁きは、背後で途切れず続いている。
彰はこめかみを押さえ、円を描くように指先を動かした。
侵入してくる声へ合わせるみたいに、浅く息を吐く。
(……俺じゃなくて、凱のほうが釣り合ってる)
否定する言葉は浮かばなかった。
息を吐いても、喉の奥の詰まりは取れない。
鏡へ映った青ざめた顔から目を逸らす。
触れかけた指だけが、宙へ取り残された。
(もし、このまま力を扱えないままだったら……)
頭の奥では、教室や食堂のざわめきが何度も重なっていた。
「なんで龍胆だけ一緒にいるんだろ」
「獅子堂と虹咲は分かるけどさ……」
その声が耳へ残るたび、腹の奥へ重さだけが沈んでいく。
(俺が一緒にいるせいで、陽菜も凱も余計なこと言われる)
喉が引きつった。
(このまま変われなかったら――)
(俺は、インサイダーにはなれない)
(陽菜も凱も、もっと先へ進んでいくのに……俺だけ、そこへ並べない)
(このまま、二人だけ先へ進んで……置いていかれるなら)
(……今、離れた方がいい)
――けれど、耳の奥で別の声が重なる。
――それでも、一緒にいたい。
息が揺れ、胸元の布が一度だけ強く持ち上がった。
喉の奥へ、言葉にならない何かが引っかかる。
(陽菜に嫌われるかもしれない。凱に失望されるかもしれない。――それでも)
胸元の布を強く握り込む。
「……大丈夫だ。離れれば、守れる」
自分に言い聞かせるような声だった。
彰は額を両手で覆った。
掌に伝わる体温と、冷えた空気が入り混じる。
耳の奥で、鼓動だけが続いていた。
膝に落ちた影が揺れ、踵で床を一度だけ鳴らす。
やがて、まぶたが重くなる。
ベッドへ戻り、シーツを胸まで引き上げる。
布の重みが、身体の動きを止めた。
窓の外。
街灯に照らされた枝影は、揺れたまま視界に留まる。
指先はシーツの端を握ったまま、動かなかった。




