第14話:同じ夜、違う場所で
――同刻/獅子堂家・凱の部屋
同じ夜、別の場所で、凱はベッドから起き上がる。
机の前へ腰を下ろし、手の甲を額へ押し当てた。
カーテンの隙間から差し込む街灯の光が、骨ばった拳の輪郭を薄く照らしていた。
机へ落ちた影が、秒針の音と呼吸に合わせるように微かに揺れる。
肩が小さく上下し、凱はゆっくり目を閉じる。
脳裏へ浮かんだのは、模擬戦の彰だった。
踏み込みは遅れていた。
それでも、最後まで引かなかった。
崩れた体勢のまま無理やり間合いを切る。
視線だけは、前を向いたままだった。
――届かなかった。
ただ、それだけだ。
握り込んだ拳が、こつ、と机へ触れて短い音を立てる。
(実力差なんてどうでもいい。わかってる)
喉で空気が止まり、吐き出せないまま残った。
あの日、彰の背中を押した感触だけが遅れて戻ってくる。
何も言わなくても、あいつは前へ出ると思っていた。
けれど今は、その距離だけが妙に噛み合わない。
掌の熱を額へ移す。
奥歯が自然に噛み合った。
陽菜が笑うたび、凱の視線だけが遅れてその動きを追う。
けれど、最近は笑顔が長く続かない。
ペンを指で転がす。
カタリ、と落として拾い直す。
同じ動作だけが、何度も繰り返されていた。
(……あの時、俺が陽菜に告白していれば)
喉の手前で息が止まる。
けれど、そのまま何も言葉にはならなかった。
脳裏へ浮かんだのは、桜の舞う放課後だった。
校門へ続く道で、風が花びらを渦みたいに巻き上げている。
夕陽を背に振り返った陽菜の笑顔だけが、何度も視界へ残った。
胸まで来ていた言葉は、最後まで音にならない。
隣では、彰が前を向いたまま歩いていた。
それ以来、息を吸うたび喉の手前で小さく引っかかった。
陽菜の名前が浮かんでは消え、そのたびに握った手へ少しずつ力が入った。
凱は机へ額を押しつけ、浅く息を落とす。
冷えた木目へ触れているうちに、乱れていた呼吸が少しずつ整っていった。
そして、その呼吸へ引かれるように、また別の光景が脳裏へ入り込んでくる。
――ダンジョンブレイクの日。
瓦礫と炎の中、三人は叫び合いながら、押し寄せる群れを押し返していた。
陽菜の光が揺れ、凱の炎が前を切り開き、その後ろを彰が迷わず踏み込んでくる。
あの瞬間だけは、三人とも同じ先を見ていた。
その光景が、今も離れない。
けれど現実へ戻れば、耳へ入ってくるのは別の声だった。
「龍胆って、あの落ちこぼれ?」
「虹咲さんにはもっとふさわしい相手がいる」
そのたびに、凱は言い返した。
陽菜も、隣で声を上げていた。
凱は机の上の読みかけの本へ手を伸ばし、そのまま表紙を閉じた。
バタン、と鈍い音だけが夜の部屋へ沈んでいった。
(お前が逃げてる限り、何も変わらない)
拳へ力が入る。
爪が掌へ食い込み、乾いた口内の奥で脈だけが強く鳴っていた。
凱は堪えきれず、机の端を叩く。
硬い音が夜の部屋へ響き、その振動だけがしばらく残った。
(中等部で学んだだろ? 頼れよ、バカ)
拳の熱はなかなか引かない。
じっとり滲んだ汗が指の関節へ残り、視線だけが机の木目へ落ちていく。
やがて、張っていた指先の力がするりと抜けた。
(このままじゃ、本当に陽菜と並べなくなるぞ)
風が枝を揺らす。
窓越しの影が、壁の上をゆっくり流れていった。
凱は深く息を吐き、もう一度手を握り直す。
強く握った指の跡だけが、掌へ赤く残っていた。
椅子が擦れて鳴る。
凱はそのまま立ち上がった。
机へ落ちた影が、夜の床へ長く伸びていく。
(守る。陽菜を――そしてアキを)
呼吸が静かに揺れる。
(矛盾してても、俺は両方守る)
凱は最後まで視線を上げなかった。
握った拳には、まだ熱が残っていた。
◇
――同刻/虹咲家・陽菜の部屋
別の場所では、陽菜の指先が小さく震えていた。
カーテンの隙間から覗く街の灯りが、オレンジ色の粒みたいに瞬いている。
遠くを走る車のライトが壁を撫で、流れる影だけが部屋の形をゆっくり変えていった。
スマホへ伸ばしかけた指を途中で止め、そのまま膝へ下ろす。
机の上には、開きかけの教科書と書きかけのノート。
ペン先を紙へ押しつけたまま動かせず、細い線だけがゆっくり滲んでいた。
やがてペンが転がり落ちる。
コトン、と軽い音が響き、その音だけで陽菜の肩が小さく揺れた。
両腕で、自分の身体をそっと抱き寄せる。
(……アキのこと、わかってるつもり)
脳裏へ浮かんだのは、ダンジョンブレイクの日だった。
瓦礫の向こうで、三人の背中が並んでいる。
火花と煙の中、それでも誰も止まらなかった。
あのとき、自分は一人じゃなかった。
だから、前へ出られた。
けれど、あの日から周囲の見方は少しずつ変わってしまった。
意図しないまま視線を向けられることが増え、凱くんと並んで“英雄”みたいに扱われるようになる。
でも、その輪の中へアキだけが入っていなかった。
教室で向けられる心ない言葉。
冷たい視線。
その矛先は、いつもアキへ向いている。
空気が重くなるたび、陽菜は何度も「違うよ」と声を上げてきた。
最初は、ひとりじゃなかった。
凱くんも隣で言い返していた。
――けれど最近は、凱くんの声まで少しずつ減っていた。
(……普段通りでいい、って言われたのに)
朝も、昼も、陽菜は今まで通りに声をかけた。
笑って、隣へ立って、同じみたいに話しかける。
けれど、そのたび周囲の生徒たちが集まり、凱くんや陽菜へ次々と声をかけてくる。
話せる時間そのものが、前より少しずつ減っていた。
その隙間みたいに、彰は静かに距離を取っていく。
返ってくる言葉までの間だけが、少しずつ長くなっていった。
視線は噛み合わないまま、会話だけが表面をすり抜けていく。
(……アキ、わたしたちを巻き込まないようにしてる)
周囲の反応を見て、彰が距離を取ろうとしているのは分かっていた。
その意識は、会話の間や視線の外し方みたいな、小さな行動の端々に滲んでいる。
(……やだ。このまま、アキが離れていっちゃう)
吸い込んだ空気が途中で止まり、呼吸だけが短く浅く続いていく。
指先は冷えたまま、耳の奥では鼓動だけがやけに強く響いていた。
机の端のスマホへ、もう一度手を伸ばす。
画面に触れると、白い四角の光が揺れた手元を淡く照らした。
画面には、書いては消した短い下書きだけが残っている。
「元気?」
その一言で、指が止まる。
打っては消す動きを繰り返すたび、胸が細かく揺れ、画面の空白だけが増えていった。
送信ボタンの上に指を残し、室内の小さな生活音だけが先に流れていく。
(今送ったら、余計に距離ができる気がする……)
指が硬直したまま、ため息だけが小さくこぼれる。
そのまま机へ額を落とすと、冷えた感触がゆっくり内側へ沈んでいった。
遅れて、涙が頬を伝う。
陽菜は両手で机の端を掴んだ。
爪が白くなるほど力を込めても、震えだけは止まらなかった。
(支えたい。そばにいたい。けど……)
(どうしたら……)
閉じたまぶたの裏へ、放課後のグラウンドがぼんやり浮かぶ。
舞う桜。
夕日に染まるグラウンドの中で、アキと凱くんが笑い合っていた。
――けれど、その光景へ重なるように、最近の凱くんの沈んだ横顔まで浮かんでくる。
静かに視線を落とす姿が、どうしても離れなかった。
喉へ残ったざらつきが呼吸へ引っかかる。
空気を入れ替えても、その感覚はすぐには消えない。
まぶたを閉じたままでも、意識だけが沈まなかった。
そこへ今度は、昼の渡り廊下の光景が遅れて重なってくる。
ガラスへ映った自分。
背後で交わされる声。
「虹咲さん、最近元気ない」
「龍胆のせい?」
無表情な響きだけが、耳の奥へ冷たく残った。
陽菜は立ち上がり、窓を少しだけ開ける。
夜気が頬を撫で、その冷たさが肌へ移っていった。
長く息を吐く。
内側へ溜まっていたものが、少しだけほどける気がした。
窓枠へ添えた手に、夜露の冷たさが静かに移る。
やがて陽菜は机へ戻り、スマホのボイスメモを起動した。
録音の赤い丸が灯る。
こわばった呼吸だけが、先に小さく続いていた。
「……アキ、わたし……」
言葉が途切れたまま、指が停止を押す。
録音を消し、画面を閉じた。
暗くなった画面に、涙で濡れた自分の顔が映る。
こめかみの脈が一度だけ強く打ち、指先が画面の縁を掴み直す。
(言葉にしてしまえば、きっと今までには戻れない)
(でも、このままじゃアキは離れてしまう)
顔を上げると、貼り直したポスターのテープ跡が天井へ残っていた。
その小さな跡へ、視線が止まる。
明日も、また同じ場所へ立てたらと思った。
離れたままじゃなく、ちゃんと三人で前へ進みたかった。
陽菜は机の引き出しから、小さなプレートを取り出す。
迷宮チャレンジの帰りにもらった記録カードだった。
指で表面をなぞると、淡い光が走る。
その瞬間、逃げ回る三人の姿が一瞬だけ浮かび上がった。
前を走る凱。
転びかけた陽菜。
その後ろで、彰が振り返っている。
遅れて、三人の笑い声だけが重なった。
「バカ」
「行くぞ」
「うん」
短い言葉だけが、しばらく耳の奥へ残っていた。
(あの頃に戻りたいんじゃない)
(今の私たちで、ちゃんと未来へ進みたい)
(でも……どうしたらいいのか、まだ分からない)
陽菜はメッセージ欄へゆっくり文字を打ち込む。
「聞いてほしい話があるの。明日の放課後、少しだけ時間くれる?」
そこまで入力して、動きが止まった。
白く残った指紋だけが、画面の上でぼんやり光っていた。
今は、まだ送れない。
送信ボタンへ伸ばしかけた指だけが、しばらく動かなかった。
送信せず、そのまま下書きへ保存する。
部屋の電気を落とす。
窓の外では、街の灯りがさっきよりくっきり浮かんで見えた。
遠くの笑い声。
どこかで鳴る、低い生活音。
それぞれの夜が、同じ秒針の上を静かに進んでいった。




