第12話:煙の告白、ほどける凍結
――夜/「バンリ屋」
暖簾をくぐった瞬間、焼けた脂の匂いが一気に押し寄せた。
「おう、お帰り!」
店の奥から、バンリの父親が豪快な声を飛ばす。
「友達もいらっしゃい! 今日はたくさん食ってけよ!」
大皿に盛られた肉と野菜が次々と運ばれ、鉄板の上で豪快に音を立て始めた。
換気扇の音が低く唸り、立ち上る煙が天井へ吸い込まれていく。
店の奥では調理場の気配と人の動きが絶えず続き、壁際の棚には調味料が無造作に積まれていた。
常連らしい笑い声が飛び交う中、彰は鉄板の正面へ腰を下ろす。
ジュウジュウと脂が跳ね、タレの焦げる香りが胃を掴んだ。
照明の熱が首元へ落ち、張っていた姿勢がわずかに緩む。
湯気の向こうで、リアンが静かに口を開いた。
「……報道でも触れられていましたが、瓦礫の軌道が不自然に変わった場面がありました」
「凱君たちに向かっていた巨大な瓦礫が、直前でずれている。……あの現象です」
箸が止まる。
彰は顔を上げかけて、そこで止めた。
「……あのとき、彰君、その近くにいましたよね。見ていましたか?」
短い沈黙。
「だよな!」
バンリが笑った。
「あれ、すげー変だったよな。まだ調べてるって書いてあったし」
彰の指先が止まり、そのまま動かない。
(……あの紫の光。引っかかる。けど――)
焼けた肉の縁が揺れて、タレが一滴、皿に落ちる。
胸の奥で、何かが止まる。
「……あれは、俺がやった。でも、俺の“意志”であの力を出したわけじゃない」
箸を置いたまま、彰は視線を皿に落とした。
二人が顔を見合わせる。
言葉を聞いた二人の箸先が空中で止まり、そのまま下がらなかった。
鉄板の上で脂が弾け、細い音が途切れず続いていた。
「あのときのことは覚えてる。でも、どうしてあんなふうに動けたのか、自分でもわからない」
彰は指先で箸を押さえたまま、わずかに動きを止めた。
「空気が水みたいに重くなって、息もできなくて……なのに、急に体が軽くなった。ぶつかるはずの軌道だけが、はっきり見えて……気づいたら、足が出てた」
言いながら、喉の奥に別の記憶が引っかかった。
「……実は、こういうことは、初めてじゃないんだ。子どものころに二回、中等部のときにも一度。どれも、自分の意志じゃなくて、突然、周りが歪んだみたいになった」
リアンが軽く息を呑む。
「三回も?」
「ああ。でも、今回ほどはっきりしたのは初めてだ」
バンリが腕を組み、眉をひそめる。
「それ、完全に“ヤバいやつ”だろ」
彰はかすかに笑って、首を振った。
「そうかもしれない。あのあと、自分の意志でやろうとしても、一度もできなかった。どれだけ集中しても、再現できないんだ」
言葉の途中で息がわずかに途切れ、喉の奥で音が引っかかった。
「もしまた勝手に起きたら、誰かを巻き込むかもしれない……。それが、怖い」
リアンは一度視線を伏せ、短い間を置いてから小さく頷いた。
湯気の向こうで、指が箸先から静かに離れる。
「……能力の覚醒反応に似ていますね。“固有魔法”やESPの類。命の危機で、無意識に発動することがあると聞きます」
「……そうだとしても、使い方がわからない。あれ以来、一度も発動しない」
言葉の途中で、息がわずかに詰まる。
彰はテーブルの木目に視線を落としたまま、動けなかった。
「……もう、俺は、あいつらと一緒にいちゃいけない。俺がいると、陽菜や凱の評判まで下がる」
換気扇の音だけが続き、誰にも視線を向けないまま、言葉が零れた。
ドン!
バンリが背中を叩く。
皿が揺れ、タレが弧を描いて跳ねた。
「何言ってんだよ、アキ! 運でも偶然でも、結果がすべてだ! お前がみんなを救った――それが事実だろ!」
リアンも煙の向こうで静かに続ける。
「あの瓦礫の規模です。彰君が弾かなければ、全員が無事では済まなかったでしょう」
箸を置き、膝に手を重ねる。
「人は比べるから苦しむのです。君は君のままでいい。僕たちは、そんな君の友人ですから」
彰は一度だけ目を閉じた。
バンリの笑い声と、リアンの緑髪の奥で揺れる瞳。
視線を上げられないまま、彰は鉄板で脂の弾ける音を聞いていた。
視界が滲む。
涙が熱いのか冷たいのかも分からない。
焼肉の煙が、それを隠すみたいにゆらゆらと漂い続けていた。
そのあと、三人は他愛のない話をしながら肉を焼き続けた。
バンリの父親が追加の皿を運び、「若いんだからもっと食え!」と豪快に笑う。
リアンが静かに突っ込みを返し、バンリが腹を抱えて笑った。
気づけば、訓練場にいたときより呼吸はずっと軽くなっていた。
店を出ると、商店街の灯りが夜の通りを照らしていた。
「また来いよ! 次はもっといい肉食わせるからな!」
バンリは店先で大きく手を振った。
「また食おうぜ、一緒に!」
彰は小さく笑い、それからリアンと並んで駅への道を歩き出す。
夜風が火照った体をゆっくり冷ましていった。
しばらく無言が続いたあと、リアンがぽつりと口を開く。
「……今の状況、つらいのは分かります」
街灯の光が、静かに横顔を流れていく。
「比べられることも、見えなくなることも」
リアンは一度だけ足を緩めた。
「でも、僕たちは彰君のことを知っています。友人です」
静かな声だった。
「だから、何かあったら頼ってください。僕も……何かあれば、彰君へ相談したいです」
彰は少しだけ目を伏せ、それから小さく息を吐いた。
「……ありがとな。頼むよ」
その空気を切り替えるみたいに、リアンがふっと口元を緩める。
「……それにしても、少し食べ過ぎました」
「はは、俺もだよ」
彰も肩を揺らして笑った。
「でも……楽しかった。また来たいな」
駅前の灯りが近づいてくる。
改札前で足を止めると、リアンは小さく会釈した。
「では、また」
「ああ。またな」
互いに逆方向のホームへ向かう。
夜風の中でも、焼肉の匂いだけがまだ服へ残っていた。
◇
――次の日夕方/インサイダー養成学校・中庭
風がやわらかく木々を揺らし、夕陽が芝の上に長い影を落とす。
陽菜はベンチに座り、膝の上に手を重ねていた。
視線の先では、訓練場の灯がもう点き始めている。
その隣に、凱が歩み寄る。
自販機の缶コーヒーを二本持ってきて、片方を無言で差し出した。
「……ありがとう」
凱も隣へ腰を下ろした。
陽菜は缶を持ったまま指を動かさず、凱も声を出さない時間が続いた。
グラウンドからは、生徒たちの笑い声。
その中に――彰の声だけが、聞こえない。
「……また、訓練してたよ」
凱は視線を前に向けたまま、間を置いて口を開く。
ベンチの背に夕陽が当たり、影が足元へ伸びていた。
「朝も、昼も。手ぇボロボロになるまでやってんのに……俺らには何も言わねぇ」
陽菜は小さく頷く。
「私も、少しだけ見た。……顔、ひどかった」
息を吸い直すたび、言葉の出る位置が定まらなかった。
「……何言えばいいのか、分かんなくて。たぶん聞いても、“大丈夫”って言う気がして……」
凱は苦い顔をした。
「中等部の時と同じだ。できなくても、倒れるまで続ける。俺たちが止めても、止まらねぇ」
遠くでボールの弾む音が一つだけ響き、すぐに消えた。
陽菜は、缶を見つめながら小さく息を吐く。
指先で缶を転がすと、金属がかすかに鳴った。
「……見てるの、つらいよ。頑張ってるの、分かるのに……」
言葉が途切れ、グラウンドの笑い声が遅れて届いた。
凱は目を伏せ、拳を膝に当てる。
「近くにいるはずなのに、なんか……手ぇ届かねぇ感じするわ」
拳の音がかすかに鳴る。
陽菜はその横顔から視線を外し、呼吸を整えるまで口を閉じた。
「……アキ、たぶん自分のこと責めてるんだと思う。あのダンジョンブレイクのことも、全部」
「だからって、何も言わずに一人で抱え込むかよ……」
凱の声がわずかに荒くなる。
「陽菜まで泣かせて……。あいつ、ほんとバカだ」
陽菜の肩が小さく震えた。
視線を落とし、唇を開きかける。
「……でも――」
喉が詰まり、息だけが先に抜けた。
口元がわずかに緩む。
「……うん。バカ、だよね」
語尾が揃わず、息の抜ける音が混じった。
指先が缶の縁をなぞる。
(……信じてる)
夕陽が沈み、光がオレンジから青に変わっていく。
二人は視線を上げたまま、声を出さなかった。
風が通り抜け、陽菜の手の中の缶コーヒーの温度が少しずつ逃げていく。
缶がすっかりぬるくなっても、二人はただ、同じ空の下で隣り合ったまま動けなかった。




