第10話:届かぬ想い、交わる声
その翌朝――
スマホを伏せたままの時間だけが、少しずつ長くなっていた。
カーテン越しの光はすでに明るく、時間だけが先に進んでいる。
昨日も、陽菜からは何度もメッセージと通話が届いていた。
【陽菜】:アキ、今日一緒に帰りたい
【陽菜】:今どこにいる?
【陽菜】:無理してない?
【陽菜】:ちゃんとご飯食べてる?
通知が増えるたび、陽菜の名前が目に入る。
返そうとする。
けれど指は、画面の手前で止まったまま動かなかった。
陽菜が悲しそうに笑う顔ばかり浮かぶ。
返せない言葉が増えるほど、トーク画面に残る時間だけが長くなっていく。
事件のあとから、返せないままの履歴だけが下へ積もり続けていた。
彰は短い文を打っては消す。
……大丈夫
平気
ごめん
そこまで打って、親指が止まった。
送信ボタンの上で、指先だけが宙をさまよう。
画面の白が瞳に刺さる。
彰は一度だけ息を吸い、スマホを伏せた。
残った重みだけが、言葉の代わりみたいに指先へ沈んでいく。
恋人になってから、ずっと。
寝る前になると、二人は自然に通話を繋いでいた。
「おやすみ」
「今日も頑張ったね」
たったそれだけの言葉でも、通話を切る頃には呼吸の重さが少しだけ軽くなっていた。
けれど、あの日以降。
彰は「今日は訓練が長引く」「少し疲れてる」と理由をつけて、少しずつ通話を断るようになっていた。
陽菜も最初は「そっか、お疲れさま」と笑っていた。
けれど、通話が繋がらない夜が増えるたび、画面を閉じるまでの間だけが少しずつ長くなっていく。
◇
――夜/虹咲家・リビング
テレビには、ダンジョンブレイクの特集が流れていた。
画面の中では、炎の中を駆ける凱と、光輪を支える陽菜の姿が繰り返されている。
拓也が画面を見たまま、やわらかく笑った。
「……本当にすごいな」
少しだけ目を細める。
「こんなに小さかったうちの姫が、人を助ける側にいるんだもんな。鼻が高いよ」
雪は腕を組んで画面を見つめたまま、はっきりと言う。
「すごかった。あれだけの人を助けたんだから、それだけで十分よ」
「ただ、危ないことしてるのも事実だからね。そこはちゃんと自覚して。無茶はしない」
陽菜は小さく頷いた。
「……うん。ありがとう」
声は落ち着いているのに、少しだけ遅れた。
拓也が湯呑みを置く。
「どうしたんだい? 元気がないね」
やわらかい声だった。
陽菜は一瞬だけ視線を落とした。
「……アキも、一緒に戦ってたの」
言葉が静かに落ちる。
「でも、映像にはほとんど映ってなくて……学校でも、凱くんと私ばっかりで……」
爪の内側に圧が残る。
「比べられてる、みたいになってて……」
雪は途中で口を挟まず、最後まで聞く。
陽菜は続けた。
「それで……最近、アキ、訓練とか疲れてるとか言って、あんまり話してくれなくて……」
喉が一度だけ詰まる。
「でも、あの場は……三人いたから持ったの。アキがいなかったら、守りきれなかった」
言い切ったあと、息がわずかに揺れる。
雪が短く息を吐く。
「……そういうの、一番しんどいのよね」
すぐに言葉が続く。
「やってるのに見えてない、って。本人からしたら一番きついパターンよ」
陽菜は目を伏せたまま、小さく頷いた。
拓也がゆっくり口を開く。
「……僕は現場を見たわけじゃないけどさ」
少し考えるように間を置く。
「今の話を聞く限りだと……まだ自分の中で整理ついてない感じ、かな」
声は穏やかだった。
「どう受け止めるか、自分で探してる途中なんだと思う」
陽菜は顔を上げる。
「……じゃあ、どうしたらいいの?」
拓也は少しだけ笑う。
「焦ってどうにかしようとしないこと、かな」
やわらかく言う。
「そういうときって、何言っても届かないこと多いからさ。下手に触ると、余計に距離できるかもしれない」
湯気がゆっくりと消えていく。
「陽菜は、いつも通りでいいよ」
「変に変えない方が、彰くんも楽なんじゃないかな」
少しだけ視線を上げる。
「ただ――」
「信じてる、ってことだけは、ちゃんと伝わる形で置いといてあげな」
言い終えて、息がひとつ落ちる。
静けさが戻る。
陽菜はゆっくり息を吐いた。
「……うん」
その返事だけが、遅れて静かなリビングへ落ちていった。
◇
――夜/虹咲家・自室
部屋の明かりを落とし、陽菜はベッドの端へ腰を下ろした。
さっきの会話が、まだ頭の奥へ静かに残っている。
(……普段通りでいい)
拓也の言葉だけが、何度も頭の中で繰り返された。
スマホを手に取る。
トーク画面は、さっきのまま開かれていた。
返事は来ていない。
親指を画面の端へ置いたまま、陽菜はしばらく動けなかった。
(信じてる、って……)
小さく息を吐く。
暗くなりかけた画面へ慌てて指を触れ、そのまま呼吸をひとつ整えた。
そして、迷いながら通話ボタンへ触れる。
(……お願い、出て)
その夜、久しぶりに彰が通話に出た。
呼び出し音が途切れたあと、耳へ届いたのは懐かしい声だった。
『……もしもし』
「……アキ?」
陽菜は思わず息を止める。
短い無音だけが、耳の奥へ残った。
「……出てくれた」
こぼれた声と一緒に、張りつめていた呼吸がひとつだけほどけていく。
――通話の向こう側/彰
彰はスマホを手に持ったまま、画面越しの声へ耳を澄ませていた。
息を吸うまでに、短い間が空く。
(……声が聞こえた……)
呼吸の奥がわずかに揺れ、その感覚だけが指先へ残った。
彰はシーツの皺をなぞりかけ、そのまま動きを止める。
『アキ、最近ちょっと無理してるよね。……大丈夫?』
問いかけのあと、短い息がマイク越しに擦れた。
「……いや、大丈夫。ちょっと訓練詰めてるだけだから」
『映像のこと、気にしてるんでしょ?』
陽菜の声は静かだった。
『そんなの、私が一番わかってるから。三人一緒じゃなかったら、あれ……持たなかったよ』
「……ありがとな。……でも、俺、もっとちゃんとやれるはずだったのに」
『……バカ』
語尾だけが、途中で小さく途切れた。
彰は返事を探すように唇を開きかけ、指先でシーツの端を強くつまむ。
張った布の感触だけが、細く掌へ残った。
しばらくして、向こうから小さな声が返る。
『……おやすみ、アキ』
「……おやすみ」
それだけ告げると、部屋の空気が静かに沈んでいく。
暗くなった画面へ、自分の顔だけがぼんやり映っていた。
彰は額へ手を当て、窓から流れ込む夜気をゆっくり吸い込む。
遠くの街音が、遅れて耳へ戻ってきた。
それでも指先は、またシーツの端をなぞっていた。




