第9話:届かぬ声、すれ違う影
――数日後・放課後/インサイダー養成学校・中庭
事件の影響で、校内はまだ落ち着きを取り戻せていなかった。
歩調を緩めた生徒たちの間で、小声が何度も重なる。
「虹咲さんだ……」
「昨日の映像、見た? すごかったよな」
「隣にいるの、獅子堂くんだよな。やっぱ強いな……」
その声を聞き流しながら、陽菜は缶コーヒーのプルタブを親指でなぞった。
金属の硬さが指先へ残る。
校舎の影はゆっくり芝の上へ伸び、夕陽の色が揺れていた。
凱は一度だけ視線を逸らし、肩をすくめる。
「……なんか、注目されてるな」
「うん……慣れない、こういうの……」
手の中の缶はまだ温かい。
それなのに、陽菜の指先だけが妙に冷えていた。
そのとき。
「虹咲さん!」
凛とした声が背後から響く。
振り向くと、そこにはスポーツ刈りの少年――峰岸 健が立っていた。
凱と同じクラスの剣技専攻で、模擬戦でも無駄のない動きで知られている生徒だ。
陽菜の前まで来た瞬間、その目が一瞬だけ泳ぐ。
周囲の生徒たちも、気づかないふりをしながら足を止めていた。
陽菜は驚いたように目を瞬いた。
「峰岸くん……?」
峰岸は胸元を一度だけぎゅっと握り、深く息を吸う。
それから一歩だけ近づいた。
耳まで赤くなっている。
喉が、小さく鳴った。
「その……昨日の映像、見た。虹咲さんの魔力制御、すごかった」
峰岸は視線を落とし、短く間を置いた。
「あの場であれだけ冷静に動けるなんて、本当に……尊敬した」
陽菜は口元だけをゆるめる。
けれど、視線は落ち着かないまま、胸の前で缶を包む指にぎゅっと力を込めた。
「ありがとう……そんな、大したことじゃ……」
「大したことだよ!」
峰岸は思わず強く息を吐く。
握った拳が小さく震え、靴先が芝を噛むように沈んだ。
「だから……その……!」
言葉が喉で詰まる。
それでも絞り出すように顔を上げた。
「もし……良ければ、今度、二人で……」
その瞬間、陽菜の肩が小さくすくんだ。
視線が揺れ、返事を探そうとした呼吸が半拍だけ噛み合わない。
足裏が芝へ引っかかる。
答えを見つけるより先に、そっと前へ出る影があった。
凱は陽菜の前へ自然に半歩入り、相手との距離を埋めるように立つ。
靴先がわずかに角度を変え、その立ち位置のまま背後へ余白を作った。
「悪い、峰岸。陽菜は今ちょっと、そういう気分じゃない。状況も状況だしな」
峰岸は一瞬だけ眉をひそめ、凱を見る。
「……獅子堂君。虹咲さんと、君は……その、どういう関係なんだ?」
凱は口を開きかける。
けれど喉の奥で何かを飲み込み、短く息を整えてから言葉を返した。
「……幼馴染で、親友だ。それだけだ」
その答えに、陽菜の肩がわずかに震える。
峰岸は小さく息を吐き、改めて陽菜へ向き直った。
「……ごめん。急に呼び止めて」
「ううん……謝らないで」
「……何かあったら、言って。困ってるなら助けるし」
陽菜は口元だけをゆるめ、視線を伏せた。
峰岸は軽く会釈すると、そのまま駆けるように去っていく。
木々の影が揺れ、遅れて風がひとつ抜けた。
さっきまで峰岸が立っていた場所にだけ、どこか空気の名残が漂っている。
陽菜は胸の前で缶を握りしめたまま視線を落とす。
凱も缶を指で押し込み、かすかにへこんだ金属音だけが静かに鳴った。
冷たさが指へ残り、息が一拍だけ遅れる。
「……大丈夫だったか?」
「……うん。でも、ちょっと驚いた。こういうタイミングで来るとは思ってなかったから……」
凱は苦い笑みを浮かべる。
「陽菜は魅力あるし、今さら驚く話でもないだろ」
その言葉に、陽菜の呼吸が一瞬だけ止まった。
指先が胸元の布を軽くつまむ。
「……アキは、聞いたらどう思うのかな……」
視線が一度だけ通路の奥をかすめる。
けれど、そこに誰かがいるかどうかまでは拾えなかった。
小さなつぶやきだけが、風の中へ溶けていった。
◇
――少し前/訓練場への通路
彰は立ち尽くしていた。
峰岸が一歩踏み出し、その前へ凱が自然に立つ。
さらにその奥では、陽菜が視線を伏せ、小さく頭を下げていた。
距離は空いている。
声までは届かない。
それでも姿だけが妙にはっきり見えた。
息を吸ったはずなのに、喉の奥がうまく開かない。
事件以来、彰は陽菜から距離を置いていた。
巻き込んでしまう想像が、腹の内側へ重さとして残っている。
自分の力を制御できないまま、陽菜のそばへ立つ怖さだけが、どうしても離れなかった。
ふと、彰は無意識に手首へ触れる。
袖口の下で、細いミサンガの感触が指先へ触れた。
(……俺は、本当に“インサイダー”になれるのか)
その問いは熱でも痛みでもなく、呼吸の奥で何かを軋ませた。
(俺が……避けてるんだ。そりゃ、陽菜だって……)
踏み出しかけた足が止まる。
模擬剣の柄が掌へ食い込み、握り切れない力だけが残った。
凱は何も言わない。
ただ静かに目を細め、その視線だけが真っ直ぐ彰を捉えていた。
彰は思わず視線を地面へ落とし、指先で制服の裾をつまむ。
一拍遅れて、ようやく足を踏み出した。
(……今の俺じゃ、陽菜と釣り合わない)
夕陽が長い影を引く。
オレンジ色の光が彰の横顔をかすめ、その背中をさらに遠ざけるように影を伸ばしていった。
◇
――夕方
陽菜は帰り道を一人で歩きながら、ぽつりと名前をこぼした。
「……アキ……」
返事はない。
風だけが、揺れた髪の隙間を抜けていく。
事件のあとから、彰とはまともに話せていなかった。
教室では凱と陽菜の周りへ人が集まり、授業が終わるころには彰の姿が消えている。
休み時間に探しても見つからない。
訓練場にも、更衣室にもいなかった。
夜に通話をかけても、「今日はちょっと」と短く断られる。
朝も、「先に行ってて」と返ってくるだけで、一緒に登校することもなくなっていた。
家の灯りが並ぶ通学路。
手の中のスマホが、何度も光っては消える。
短い文を打っては消し、指先が画面の上で止まった。
一度だけ呼吸を整え、それから小さく送信を押す。
画面の上に「既読」はつかない。
時間だけが、静かに過ぎていった。
――同じころ。
彰もまた、更衣室のロッカー前で足を止めていた。
ポケットの中で、スマホが短く震える。
彰は端末を取り出し、ロック画面に浮かんだ陽菜の名前を見た。
指が、通知へかかる。
けれど、そのまま止まる。
メッセージを開かないうちに、震えだけが静かに収まっていった。
(……今の俺が返しても、陽菜を困らせるだけだ)
言葉にできない距離が、少しずつ二人の間へ積もっていく。
返せなかったメッセージだけが、画面の向こうへ置き去りになっていた。
◇
夜。
陽菜は居間のソファへ座ったまま、何度もスマホの画面を見つめていた。
送ったメッセージに、既読はつかない。
短く打っては消し、打ち直して、それでも最後には「大丈夫?」だけを残して送信した。
返事は来ない。
一度だけ、通話ボタンへ指を伸ばす。
呼び出し音。
けれど、何度鳴っても彰は出なかった。
「……アキ……」
小さく漏れた声は、そのまま静かな居間へ落ちていく。
時計の音だけが、やけに大きく聞こえた。
それでも陽菜は、スマホを伏せられない。
布団へ入ってからも、浮かぶのは峰岸の言葉じゃない。
あの場で、一度だけ引っかかった気配だった。
夕陽の影の中で――
あれは、アキだったのかもしれない。
そう思っても、確かめることはできなかった。
眠りかけるたび、あの気配に彰の横顔が何度も重なった。
枕元へ置いたスマホへ、手が一度だけ伸びた。
けれど、その夜、通知音が鳴ることは最後までなかった。




