第15話:揺らぐ答え
――放課後/高等部・教室
教室の窓から、西日の赤が長く差し込んでいた。
帰り支度を終えた陽菜が、彰の机へ近づく。
「アキ、一緒に帰ろ?」
凱も鞄を肩へ引っかけながら頷いた。
「今日はどっか寄ってくか?」
彰は一瞬だけ言葉に詰まり、それから苦笑する。
「わりぃ。ちょっと高田先生に備品チェック頼まれててさ」
「え? なんで?」
陽菜が目を丸くする。
「前にちょっと隠れて練習してたろ。あれの罰みたいなもん」
「あー……なるほどな」
凱が苦笑する。
「だから夏休みくらいまで、放課後ちょくちょく残ることになりそう」
「そっか……」
陽菜は小さく頷いた。
その声が少しだけ寂しそうで、彰は視線を落とす。
「……帰ったら連絡するから」
小声で言う。
陽菜も少しだけ近づき、小さく頷いた。
「……うん。待ってる」
その空気を見た瞬間、凱がニヤッと口角を上げる。
「おーおー、ついに学校でもイチャイチャし始めたか?」
「ち、違っ!」
陽菜が一気に顔を赤くする。
彰も慌てて距離を取り、二人同時に凱を見る。
「茶化すなって!」
「ははっ!」
笑い声が教室へ弾ける。
「じゃ、またな!」
凱が片手を上げる。
陽菜も振り返りながら、小さく手を振った。
二人が並んで話しながら帰っていく。
その背中を見送りながら、彰は静かに立ち尽くしていた。
(笑って、一緒に帰ってる)
その光景が、胸の奥へ静かに刺さる。
(……何とかしないと)
このままでは、いつか自分だけ置いていかれる。
沈み込む感覚を抱えたまま、彰は一人、訓練場へ向かって歩き出した。
頼まれていた備品チェックを終えたころには、訓練場から人の気配が引き、換気音だけが静かに残っていた。
彰は一人、模擬剣を握り直す。
踏み込みから振り下ろし、返しまでを何度も繰り返す。
だが、刃へ流し込んだ魔力は最後まで乗り切らない。
床を踏む足音だけが、広い訓練場へ乾いて響いていた。
脳裏へ描いたルーンを、今度こそ刃へ通そうとする。
それでも、魔力は途中でほどける。
「……またか」
小さく吐き捨て、剣を握り直した瞬間――
「おぉーーい! アキ!!」
低く太い声が、静まり返っていた空気を一気に押しのける。
振り返る。
香ばしい肉の匂いと一緒に、バンリがこちらへ歩いてきていた。
「まだやってたのかよ! だったら一緒にやろうぜ!」
その日、彰たちは閉館ぎりぎりまで訓練場へ残った。
バンリは笑いながら何度も拳をぶつけ、彰も息を切らしながら剣を振り続ける。
別れ際には、「また明日な!」という声が、夜の校舎へ響いていた。
◇
――そこからだった。
最初は、ただ隣で剣を振るだけだった。
気づけば、バンリは毎日のように訓練場へ顔を出すようになっていた。
そして少し遅れて、リアンも静かに姿を見せる。
リアンは彰の動きを観察し、一言だけ指摘を落としていった。
――噛み合わない原因。
――身体と魔力のズレ。
失敗して、止まって、それでもまた構え直す。
そんな時間を繰り返すうち、誰もいない訓練場には三人分の足音が残るようになっていた。
その音が途切れたあとも、床には踏み込みの余熱だけが静かに残っている。
西の空は茜に染まり、長く伸びた影を夕風が揺らしていた。
「模擬戦だ! 来いよアキ! 今日は遠慮ナシだ!」
バンリの声が、広い訓練場へ豪快に響く。
低く構えたまま拳を軽く打ち合わせ、足裏でしっかり床を捉えていた。
訓練場の端では、まだ数人の生徒が自主練習を続けていた。
遠くの校舎からは笑い声や靴音が微かに流れ込み、風が一度だけ訓練場を抜けていく。
彰も模擬剣を握り直し、正面へ立った。
肩を落とし、剣先の角度を定める。
数合。
だが、構えがわずかに遅れ、刃先だけが半拍外れた。
顎が小さく落ちる。
「おいアキ、顔が固ぇぞ!」
「……わかってる。でも、剣が――」
言いかけた瞬間、バンリが踏み込む。
真正面から突っ込んできた圧は、剣越しでも骨まで響いた。
床鳴りが弾け、受けた衝撃が前腕から身体の芯まで一気に突き刺さる。
「ぐっ……!」
受け止めきれない。
軋んだ剣と一緒に腕が震え、膝まで沈んだ。
足が半歩よろけ、踵が床へ強く噛む。
「――ッ!」
剣が弾かれ、そのまま無様に床を転がった。
追いかけようとして一歩踏み出す。
だが、膝が笑って身体を支え切れない。
肩越しに見上げると、バンリは真っ直ぐこちらを見返していた。
「剣がなきゃ何もできねえのか!? ……違うだろ、アキ!」
「まだ終わってねぇよな!」
床を蹴る音が夕闇へ重く響く。
彰は半身へ足幅を絞った。
――逃げ場はない。
そう思った瞬間、意識より先に身体が動く。
気づけば、「心体育成流」の防御の型へ自然に滑り込んでいた。
両拳を軽く握り、肘を畳む。
呼吸と一緒に、重心が腹の奥へ沈んでいく。
「おい……なんだその構え!? 剣の動きじゃねぇぞ!」
「へっ、面白ぇ! アキ、それで来い!」
子どもの頃、父に叩き込まれた武術だった。
嫌っていたはずなのに、構えた瞬間、不思議なほど自然に身体へ馴染んでいく。
足裏で地面を捉え、細く息を吐く。
重心が沈むと同時に、肩から余計な力が抜けた。
拳は、考えるより先に前へ出ている。
素手へ戻った感覚と一緒に、皮膚のざらつきや血の匂いまで鮮明に蘇った。
その瞬間、引き延ばされたみたいな視界の中で、バンリの胸元にはっきりとした隙が浮かび上がる。
「来いよアキ!」
その声に背を押されるように、彰は無意識に踏み込んでいた。
床が後ろへ流れ、遅れて足音が響く。
重心が沈み、意識が一点へ集まる。
拳を握り込んだ瞬間、肩から肘、拳へと力の線が一気に噛み合った。
「はっ!」
放たれた正拳突きと同時に、空気が爆ぜる。
拳の周囲へ風が唸りを上げ、跳ね上がった影が絡みつくように重なった。
《風》と《闇》。
脳裏へ描かれた二つのルーンは、今度こそ乱れず、ひとつの輪となって脈打っている。
それは、剣では最後まで描けなかった“完全な円”だった。
今まで刃の上でほどけていた魔力が、拳では自然に巡り、骨と筋肉の奥まで真っ直ぐ染み込んでいく。
(流せ。拳に。余計な力は抜け)
――無意識の指令が、背骨を一気に駆け抜けた。
次の瞬間、轟音と一緒に視界が白く弾ける。
拳はもう、ただの身体の一部じゃなかった。
風と闇をまとった“武器”として、完全に噛み合っている。
痺れた拳の奥では淡い光がゆっくり脈を打っていた。
指を開いても、その感覚だけは消えなかった。
「――ぐっ!?」
踏み込みの勢いごと受けたバンリの身体が、そのまま数メートル後方へ吹き飛ぶ。
衝撃の余波が訓練場へ広がった。
静まり返る。
彰は滑りかけた前足でどうにか制動し、拳を胸元へ引き戻した。
すぐに起き上がったバンリは、驚きと歓喜を混ぜた笑みを浮かべる。
「ははっ、今のマジで効いた! オレでも避けられなかったぞ!」
その声をきっかけに、周囲でもざわめきが一気に広がった。
「おい、今の見たか? 剣も使わずにデカいやつ吹っ飛ばしたぞ」
「あれ、ユニオン・アーツの型じゃねぇよな……?」
驚きの声が重なる中、彰だけが自分の拳を見下ろしていた。
「……俺が、今……?」
指先には、まだ痺れが残っている。
そこへ、バンリの声が重なった。
「アキ、お前……拳ヤベぇじゃん! 剣より似合ってんぞ!」
「やめろ……そんなわけ――」
「いいや、オレが保証する! 剣よりずっと自然だったぜ!」
拳の痺れが、まだ消えていなかった。
だが、足裏の感覚だけがまだ落ち着かない。
視線を落とした先で、指先が遅れて小さく脈を打っていた。
(剣じゃ、あれは――乗らなかったはずだ)
脳裏へ浮かぶのは、何度も刃の上でほどけて消えたルーンの感触だった。
だが――
(……拳だと、消えない)
さっきの一撃では、《風》と《闇》の輪が確かに噛み合っていた。
今まで剣では届かなかった流れが、拳では身体の奥から自然に通っていく。
その感覚だけが、まだ拳の内側に残っている。
(……なんで、剣だと駄目なんだ)
答えは出ない。
それでも、拳では呼吸が最後まで通っていた。
剣を握っていた時は、そこで止まっていたはずなのに。
だが、彰は拳を選ぶ気にはなれなかった。
もしここで拳へ逃げたら、陽菜を守りたいと願って握り続けてきた剣まで、全部言い訳みたいに思えてしまう。
父の声が、脳裏へ静かに蘇った。
『一度始めたことは最後までやれ』
(……父さん)
『逃げ癖をつけるな』
『男なら責任を持て』
熱を帯びていた拳は、いつの間にか冷えていた。
模擬剣を握っていた感触だけが掌へ残る。
信じてきた道と、今ここにある感触。
どちらへ踏み出すべきなのか、彰にはまだ分からなかった。
「アキ……顔、真っ青だぞ。平気か?」
バンリの声が遠く聞こえる。
「……なんで、拳で……?」
それでも、この一撃だけは今までのどれとも違っていた。
拳へ残った熱と痺れが、いつまでも消えない。
床へ転がった模擬剣だけが、やけにはっきりと視界へ映っていた。
不意にリアンの静かな声が落ちた。
「……今の攻撃は、とても自然でした」
彰が顔を上げる。
リアンは、拳へ残った魔力の流れを確かめるように目を細めていた。
「剣では崩れていた流れが、拳では最後まで通っています」
彰は何も答えない。
リアンは視線を拳から模擬剣へ移し、静かに続けた。
「理由までは、まだ分かりません。
ですが……剣の時より、ずっと自然に繋がっていました」
その言葉を聞きながら、彰はゆっくり床へ転がった剣を拾い上げる。
柄を握った瞬間、拳とは違う重さが掌へ残った。
「おいおい、もう拳でやりゃいいじゃねぇか!」
バンリが豪快に笑う。
だが、彰は小さく首を振った。
「……いや。俺は、剣で行く」
彰は模擬剣を握り直した。
「子どものころから、ずっと剣をやってきたんだ」
拳を握ったままではなく、もう一度模擬剣を構える。
バンリは一瞬だけ目を丸くしたあと、すぐに歯を見せて笑った。
「ははっ! そうこなくっちゃな!」
拳を軽く打ち合わせる。
「来い、アキ!」
夕陽が沈み切るまで、その日も三人分の足音が訓練場へ響き続けていた。




