第5話:変われる場所
あの日を境に、見えるものの輪郭が少し変わった。
朝、校舎の窓から差す光が机の端まで伸びている。
放課後の夕焼けは、廊下の床へ長く残るようになった。
呼吸の間が揃い、靴音も前より軽く聞こえた。
◇
――午前/グラウンド
笛の鋭い音が広いグラウンドに突き刺さる。
砂を蹴る足音、短い掛け声が次々と重なった。
「よーし、負けねぇぞ、アキ!」
凱が横目でにやりと笑い、腕をぶんと振る。
「おいおい、最初から全力で飛ばす気かよ……」
息を吐きつつ返すと、陽菜が口元を手で隠して小さく吹き出した。
「ふふ、二人とも、後半バテないでよね」
「言ったな! 最初から飛ばしてやる!」
つられて足が速くなる。
スパイクが砂を弾き、腕を必死に振った。
ゴールが近づくにつれ、足裏の踏み込みだけが深くなる。
計測器の数字が遅れて跳ねた。
「見たか!? これ、俺の最高記録だぞ!」
凱は肩で息をしながら両手を腰に当て、誇らしげに笑った。
「……また更新か。いや、でも俺だって……!」
歯を食いしばったまま、もう一度だけ足裏に力を込めた。
「アキも十分すごかったよ!」
陽菜が笑うと、凱もつられて歯を見せた。
その横でクラスメイトがひそひそと囁く。
「龍胆って意外とやるじゃん」
「こないだまで落ちこぼれって聞いたのに……」
砂を払っていた指が、一瞬だけ止まった。
「……負ける気はしない」
思わず声が漏れ、自分でも驚いた。
魔法の授業。
構えを取っても、肘も手首もぶれなかった。
指先へ集めた魔力が、途中で散らずに留まる。
「アキの魔法、前よりずっと安定してたね。ねぇ、杖って持ち方これで合ってるかな……?」
陽菜が不安そうに小声で問い、ぎこちなく構える。
彰が一歩近づき、杖の角度を確かめる。
「大丈夫。手首、もう少し返すと安定する」
「ありがと……!」
陽菜は小さく息を吐き、言われた通りに持ち直した。
彰は陽菜の手元を見たまま言った。
「杖は、撃つための道具じゃない」
「魔力の流れを揃えるだけだ。無理に通すと、すぐ荒れる」
陽菜が杖先の揺れを確かめる。
「おいおい授業中にイチャイチャすんなよ」
凱の茶化す声に、彰は思わず顔をそらした。
肩の緊張がほどける。
次の瞬間、彰は軽く構え、一度だけ息を整えた。
――脳裏にルーンが浮かぶ。
(《暗黒弾》)
集めた流れが崩れず、そのまま指先で止まる。
次の瞬間、その力が前へ抜けた。
低くうねるような音とともに、空気が一瞬で冷え込む。
闇が指先からほどけ、渦を描いたまま前方へ引き伸ばされる。
進路の空気が歪み、低い衝撃音が遅れて届く。
訓練標的の中央に黒い染みが広がり、衝撃が床を伝って返ってきた。
その余波が消えたあと、教室に音が残らなくなる。
「おぉ! アキ、今の速さ、先生が見てたぞ!」
指先に残った魔力の熱が、遅れて引いていく。
「……変な失敗してなくてよかった」
「全然変じゃなかったよ。すごくきれいだった」
陽菜の声が耳元に残った。
休み時間、三人は机を寄せ、ノートを広げたまま言葉を交わす。
「しかし、午後の『魔導機械学』のレポート、なかなか骨が折れるな……」
凱がペンを回しながらぼやく。
「私はむしろ“古代魔法解析”の方が難しいかな。古代ルーンの文法が複雑で……。アキはもう終わった?」
陽菜はノートへ目を落としたまま、少し困ったように首を傾けた。
「ああ、なんとか。それより俺は、選択科目の“潜入・隠密行動”の方が楽しみだ。風や闇の魔法を活かせるかもしれない」
そう言いながら、彰はノートへ目を落とした。
「でも、見つかったときはどうするんだよ。俺なら見つかってもごり押しするけどな」
凱が笑う。
「その時は、凱を囮にして逃げればいいよ。体がでかいから盾になるだろ?」
彰は視線を外したまま、言葉だけを落とした。
「おいおい、ひでぇな!」
凱が身を乗り出し、思わず声を張り上げる。
陽菜が吹き出した。
「ふふっ、ほんと仲いいね、二人とも」
周りの席からも小さな声が聞こえた。
「あの三人、ほんと仲良いよな」
「さすが中等部から一緒なんだって」
「えー、でも虹咲さん、あの二人一人占めなんてずるくない?」
「ほんとそれ。かわいいからってさ〜」
ちらりと向けられる気配を受け、陽菜は視線を落とした。
彰と凱は短く顔を見合わせる。
「ほらな、俺が囮になっても人気者だろ?」
「はいはい」
彰は息を一つ吐き、机に肘をついた。
凱が身振り手振りで敵兵の動きを再現する。
陽菜は肩を揺らして笑いをこらえた。
机の上では、ノートの余白に走り書きの図が増えていく。
やがてVRシミュレーションに切り替わり、
古代遺跡の仮想空間を探検する中で、隠し部屋を見つけた瞬間――
「やった!」
「見つけた!」
「ナイス!」
声が、ほとんど同時に重なった。
「龍胆くん、明日の訓練も一緒にやろうよ!」
「足、ほんと速いな」
「将来、Aランク行くんじゃないか?」
あちこちから声が重なり、視線が一斉に向けられる。
さらに別の方向から――
「ねぇ、龍胆くんって彼女いるの?」
「え、いるんだ…… なーんだ、残念~」
高さの違う声が混ざり、近くの席で椅子が小さく軋んだ。
「虹咲やばくない? めっちゃ可愛いし、スタイルも完璧」
「マジでな。あれ絶対、着やせタイプだろ」
「水着見てみてぇわ」
「おい、やめろって!」
「おいバカ! 聞こえるぞそれ!」
「……ったく、聞こえたらどうすんだよ」
凱が振り返って眉をしかめる。
陽菜は頬を赤らめた。
彰は苦笑した。
「……やれやれ、どこ行っても騒がしいな」
肩を軽く叩かれ、目が一度だけ合う。
その感触が残ったまま、呼吸がゆっくり戻っていく。
……けれど、靴先が床を擦り、歩幅が一瞬だけ乱れた。
背後の笑い声が、少しだけ遅れて追いかけてきた。
放課後の三人で並ぶ帰り道。
夕焼けに伸びた影の中で、足音が揃っていく。
「今日、めっちゃ楽しかったな」
凱が笑う。
「うん、あっという間だったね」
陽菜も微笑み、耳にかけた髪が夕日に透けた。
「アキ、明日も一緒に頑張ろ?」
「……ああ」
胸の前で軽く拳を当て、頷く。
鞄の紐を握っていた指が、少しだけ緩んだ。
通学路を並んで歩き、最初の角で凱の家が近づく。
「じゃ、俺ここな! また明日!」
凱が手を振り、軽く駆け出していく。
「おう、またな!」
「また明日ね、凱!」
二人で声をかけると、凱は振り返って大きく親指を立てた。
少し歩いて、今度は陽菜の家の前。
「じゃあ、ここで」
「うん。今日は楽しかったね」
「……ああ」
陽菜は一瞬だけ立ち止まり、口元をわずかに緩めた。
「また明日、アキ」
その声を背に、彰は小さく手を上げた。
陽菜の気配が遠ざかり、通学路に静けさが戻る。
一人になった帰り道。
夕焼けの色がまだ道に残り、さっきまでの声が耳に残っていた。
(この場所なら、俺も変われる――きっと)
春の空が澄んだ青を広げ、頬をかすめる風が通り過ぎた。




