第81話「咲良と」
土曜の午後、駅前のカフェで咲良と会った。
月に一度くらいの頻度で二人はこうして会っていた。約束をするわけではない。どちらかが「空いてる?」と送って、空いていれば会う。それだけの緩やかな習慣だった。
咲良は新聞記者になっていた。地方紙の社会部で、事件や事故の取材を担当していると聞いていた。
「最近、忙しい?」
リアが聞くと、咲良は小さく笑った。
「忙しくない時期がない」
「変わらないね」
「変わらないよ」
コーヒーを頼んで、しばらく他愛のない話をした。仕事のこと、共通の知人の近況、テレビで見た番組の感想。
蒼の話は出なかった。
出ないことが、もう自然になっていた。二人ともあえて避けているわけではない。ただ話す必要がないところまで、時間が二人を運んでくれていた。
咲良の父のことは、あれから一度も話題にしていない。飲酒運転の隠蔽がどうなったのか、どんな結末を迎えたのか、リアは詳しくは知らなかった。聞かなかった。咲良も話さなかった。
それでいいのだと、リアは思っていた。
言葉にしなくても伝わっているものがあった。
「最近、良い記事書いた?」
リアが聞くと、咲良は少し得意げな顔をした。
「地元の福祉施設の特集、反響あったよ」
「読みたい」
「送っとく」
その会話に含みはなかった。ただの日常の報告だった。
でもその日常の報告の裏に、二人だけが知っている過去が静かに横たわっていた。
咲良はあの春、蒼から脅迫を受けていた。父の秘密を握られ、正義を貫くことができなかった。その傷は今も咲良のどこかに残っているはずだった。
リアも同じように傷を抱えていた。
二人はその傷について深く語り合うことはなかった。それでも互いがその傷を知っているという事実だけで十分だった。
「弓道、まだ続けてるの」咲良が聞いた。
「月一くらい」
「体力落ちてない?」
「落ちてるかも」
咲良が笑った。
「昔は全国レベルだったのに」
「昔の話」
その言葉に二人とも少しの間、黙った。
昔の話。その言葉が指す範囲が単に弓道の実績だけではないことを、二人とも分かっていた。
「カウンセラーの仕事、どう」咲良が話題を変えた。
「難しいよ」リアは正直に答えた。「でもやりがいはある」
「そうだよね」
「咲良の記事も、誰かを助けてると思う」
「分かんないけどね」咲良は肩をすくめた。「でも書き続けるしかない」
その言葉には記者としての覚悟のようなものが滲んでいた。
しばらく二人は静かにコーヒーを飲んだ。
窓の外を人々が行き交っていた。土曜の午後らしい穏やかな時間だった。
「あのさ」咲良が、ふと言った。「たまに思うんだけど」
「何」
「私たち、あの頃のこと、もっと話した方がいいのかな」
その問いかけに、リアは少し考えた。
「話したい?」
「分かんない」咲良は言った。「話したいような、話したくないような」
「私も同じ」
咲良は少し笑った。
「じゃあ今のままでいいのかもね」
「うん」
言葉より沈黙の方が正確なことがある。二人はそのことを既に知っていた。
同じ傷を持つ者として、多くを語らなくても互いにとって必要な存在であり続けること。それが五年をかけて、二人がたどり着いた距離感だった。
「そろそろ帰るね」咲良が言った。「明日、朝から取材」
「うん、気をつけて」
「また連絡する」
「うん」
咲良が席を立った。会計を済ませ、カフェの外まで二人で歩いた。
「じゃあ」咲良が言った。
「うん、また」
咲良はいつものように、あっさりと背を向けた。振り返らずに駅の方向へ歩いていった。
リアはその背中を、しばらく見送った。
咲良と過ごす時間は、いつも短く、そして確かだった。
多くを語らなくても、必要なときに必要な分だけそばにいてくれる。それが咲良という存在だった。
一人になって、リアは来た道とは反対の方向へ歩き始めた。
夕方の光が街路樹の影を長く伸ばしていた。
咲良との時間を思い返しながら、リアはふと自分の中にある感覚に気づいた。
孤独ではなかった。
一人で歩いていても完全な孤独ではない。咲良がいる。颯太がいる。仕事で出会う人々がいる。
それでも埋まらない部分が確かにあった。
その部分の形を、リアはもう五年間見つめ続けていた。
夕暮れの空を見上げた。
雲がゆっくりと流れていた。
その空の下で、リアはまた少し歩みを進めた。
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