廃教会の魔法使い 1
透明な濃藍の宵闇が、薄衣の如く、空からふわりと舞い降りた。
淡い薄闇に包まれた半壊の礼拝堂が、ひときわ暗く、物寂しく浮かび上がる。
シモンにとって、見慣れたはずの礼拝堂……。
それが、まったく知らない空恐ろしいもののように見えて、シモンは言いようのない不安に駆られる。
思わず、セオバルドの服の袖を摘まむ指先に、きゅっと力がこもった。
微かに引かれた服の袖に気づいたのか、セオバルドが振り返る。
シモンと視線を結んだセオバルドの表情は、口を引き結び、心なしか険しく強張って見える。
沈黙に堪えられなくなったシモンは、薄らと口を開いて――。
「先生は、牧師じゃないんですか……?」
――消え入りそうに、か細い声で尋ねた。
「……ああ」
素っ気ないほどに短く、硬い声音でセオバルドは肯定した。袖を摘まむシモンの指に手を重ねて、そっと引き剥がそうとする。
「……!」
手を離してしまったら、その途端、すべてが夢のように消えて。
セオバルドもシェリーもいない教会に、たった独り、取り残されてしまいそうで……。
剥がされまいと抵抗の意を込めて、シモンは、セオバルドの袖をぎゅっと掴みなおす。俯き、手許に身体を寄せて、彼の腕に額を押しつける。
なぜ、牧師のふりをして教会の跡地に住んでいたのか。
どうして、今まで教えてくれなかったのか。
それを知ったことで、何かが変わってしまうのか。
セオバルドに訊きたいことが、シモンの頭に浮かんでは消える。その度に、口を開いてみるのだが、思い描く不安が現実のものとなりそうで、声にだすことができない。
袖に絡む指を無理に剥がすことなく手を下ろし、セオバルドは唇を小さく動かす。
「シモン」
「……」
俯いたまま応えないシモンの頭に触れるように、そうっとセオバルドの手が乗せられた。
手の大きさにそぐわない優しい軽さに、シモンは現実味を感じられずに、そろそろと顔を上げる。
セオバルドが、確かにそこにいるのだと確認する。
「シモン、説明をさせてほしい」
突き放すのではないセオバルドの真摯な声音に、シモンは彼の青い瞳を見つめた。
「……はい」
「うん」
答えを得て、セオバルドは瞼を伏せて応えた。
目許にこもる力が緩み、セオバルドの表情から険しさが消える。
「だがその前に……、妖精の恋人に招かれた密告者が近づけないよう、敷地を覆う結界を張りたい。……君を、地獄に堕とすわけにはいかないからね」
「あっ」
はっとして息を呑んだシモンは、教会に密告者がやってくることを思い出す。
結界を張る妨げになっているのだと気づいて、掴んでいたセオバルドの袖を、ぱっと離した。
「すみません……!」
慌てて一歩二歩と後ろに下がったシモンに、セオバルドは自由になった手を差し出す。
「シモン、手を」
「手?」
小首を傾げて差し出された手を眺め下ろしたシモンは、言われるがままに自分の掌を重ねる。
重ねられた手をしっかりと握り、繋いだセオバルドが、ぐいっとシモンを引き寄せた。
状況がよく呑み込めないシモンは、丸く見開いた目をぱちぱちと瞬かせる。
「先せ……?」
「ゆっくり飛ぶから――」
至って真面目な顔のセオバルドは、囁くようにしてごく短い呪文を唱える。
耳に届く呪文は、古代言語の『飛翔』を織り込んだもの。
「はい?」
シモンが理解するよりも早く。
セオバルドとシモンを中心として、不可視の力が周囲から流れ込むようにして集まってくる。不可視の力は足許で渦を巻き、旋風の如く天に向かって立ち上がる。
セオバルドが、とんっ、と地を蹴ると、大地に引かれて繋ぎ止められていた身体が、自然の摂理からぷつりと切り離されて、軽くなる――。
セオバルドとシモンの身体が、宙に浮きあがる。
「わっ、ぅあ、足っ! 足が……っ!」
着かない。
――地を探して、ぱたぱたと動かす足先も宙を蹴った。
シモンの意思とは関係なく、身体がふわふわと宙を浮き、重心を失う。
繋がれている片手だけでは心許なく、掴むもののない空中で溺れるような錯覚を起こし、シモンの背筋が冷える。
身体がゆらりと前に傾き、咄嗟に繋がれていない片手を前に出すも、勢いよく宙を掻く。
瞬時にして、シモンは平静を失う。
「こ……っ!」
(怖い、怖いっ、怖いーっ!)
声にならない悲鳴を上げたシモンは、繋いでいる手はそのままに、片腕でセオバルドにしがみつく。
「君の身体も、私が浮遊させて支えているから――」
大丈夫だ、とセオバルドは言いたかったのかもしれない。
そう。
セオバルドに浮かされている身体は、どんなに手足を動かそうとも宙に絡めとられ、シモンの意思で自由にはならない。
とにかく身体を安定させていたいシモンは、離されまいとして必死に捲し立てる。
「すみません! 降りたら離れるのでっ、降りたら離れるのでーっ!」
「……わかった」
了承し、セオバルドは片腕をシモンの背に回して、しっかりと抱いて支えた。
セオバルドの胸に押しつけられ、身体が密着することで上半身が安定し、安堵を得たシモンは吐息を洩らす。それと同時に、我に返った。
取り乱し、しがみついてしまった気恥ずかしさから落ち着かなくなり、かぁっと火照る顔を伏せる。
――迷惑かもしれない。
そんな思いが一瞬脳裏を駆け抜けたが、遠慮や羞恥の感情よりも、恐怖心が勝った。
やっぱり大丈夫です、とは到底言えない。
セオバルドに身体を預けて、礼拝堂の傾いだ尖塔屋根を見下ろせるほどの高さにまで上昇した。
遮るものの何もない広い夜空を冷たい風がまっすぐに吹いて、シモンの長く伸ばした前髪が、さらりと泳ぐ。
地表よりも幾分低い温度を、肌が感じとる。
「ま、まだ上がるんですか!?」
高いところが苦手なわけではない。けれど、足場のない感覚は常に落下の恐怖が付き纏い、馴染めない。
セオバルドが、教会の敷地全体の広さを測るように周囲を見渡した。
「ああ、……もう少し上がる」
尖塔屋根が、みるみるうちに小さくなる。
教会の敷地が眼下に一望できるようになると、上昇していた身体がぴたりと止まった。
「シモン、立ってごらん」
シモンの背に回していた腕を解いたセオバルドは、差し出した手を取るように促した。
上昇を止めたことで、身体は揺らぐことなく比較的安定している。
シモンは、おそるおそる腕の力を緩めてセオバルドの手を掴む。両手が繋がれ、自然と身体が離れてふたりの間に輪ができた。
「手を、離すよ」
込められていた力が徐々に抜けて、繋がれていたセオバルドの手は、シモンの手を支えるようにして添えられる。
あとは、重ねている手を離すだけ。
「……手を離した途端、どこかに飛んでいったり、落ちちゃったりしないですよね……?」
「しないよ」
こわごわと訊くシモンに、セオバルドは淀みなく答えた。
セオバルドの瞳を見つめながら、彼を信じてシモンは手を離す――。
「……立て、た?」
ふらつくこともない。
――不可視の力に支えられ、半信半疑の声を漏らしたシモンに、セオバルドは頷いて、礼拝堂の尖塔屋根を見遣る。
「ここからなら、結界を張る様子が見える。いずれ君も、こうした結界を張るようになるだろうから」
礼拝堂の尖塔屋根は、ちょうど敷地の中心辺りになる。
シモンから離れたセオバルドが、ほんの少し下降して、尖塔屋根の上空に立った。
セオバルドは懐から小さな革袋を取り出し、口紐を緩めて掌の上で傾ける。
革袋の口から、さらさらと零れ出るのは、セオバルドが呪いの為に合わせたのであろう灰色の粉だ。
セオバルドが掌の粉に、魔力を注ぎ込む。すると、灰色だった粉が透明感のある銀の燐光を湛える。掌から煙のように立ち昇り、宙へ伸びていく。
陽が沈み、薄墨色の夜闇に染まる景色の中を、鉱物を含む銀の粉は、氷の粒のようにきらきらと煌めき、周囲一帯に均一に広がっていく。
ふわ……、と。
シモンの鼻孔に、清しく爽快感のあるジュニパーの香りが届いた。
呪いの粉が運び伝えるのは、香りとそして、セオバルドの魔力。
高濃度の魔力に満たされ圧すら感じるのに、重苦しさも不快さもない。どこまでも清らかに澄んだ水底を思わせる、純度の高い魔力。
シモンの背後からすぐ脇を、すぅっと細い白銀の軌跡が通り過ぎた。
目で追おうとしたシモンの顔を、別の小さな光の粒が覗き込むようにして留まる。正面からそれを捉えて、シモンは、ぱちっと瞬きした。
(水の、精霊――?)
はっとして首を巡らせたシモンの視界に、季節外れの雪花の如く、そこかしこに舞う水の精霊たちが映る。
精霊たちの集う先。セオバルドの立つ、礼拝堂の尖塔屋根の付近に水の気配が凝り、彼の目前には水の精霊を宿した一振りの長剣が具現した。
長身のセオバルドの胸許から足許に届くという長さのそれは、透明感のある白銀の華奢な剣身。
結界を張るのだと言ったセオバルドが作り出したのは、清い水に精霊を宿す、浄化の――。
(儀式刀……?)
伸ばした両手で柄を握ったセオバルドは、長剣を頭上に翳して、くるりと水平に振るう。
時計回りに正しく描かれた円の軌跡は一閃し、光の波紋となって宙を滑る。展開された光の円は、教会の敷地をすっぽりと囲うほどにまで広がり、留まった。
一呼吸置いて、セオバルドは星の位置から正確な方位を測るかのように天を仰ぐ。凛とした佇まいで儀式刀を高く掲げ、低く、それでいて通る声で、魔の退去の術を唱え始めた。
淡く清浄な光を放つ円の中心で、大きく振るわれる細身の長剣が優美な煌めきを散らし、刃先はまっすぐに線を描く。
円内に浮かび上がるのは、厳密に描かれた美しい光の五芒星。
詠唱を続けながら、セオバルドが長剣を振るい宙に刻むのは、古代文字。天と四大の精霊の名が、円外に刻まれる。
円の外周に古代文字が連ねられると、セオバルドは再び両手で柄を握り、長剣を頭上に掲げた。先と同じようにくるりと円を描いて、閉じる。
それを合図に。
教会の敷地を囲う光の二重円が、天と地を結ぶ巨大な光柱となって、聳え立った。
結界は、セオバルドによって滞ることなく張られた。
一連の滑らかな動作に見入るシモンの目前で、光柱が細く薄くなり収束していく。光柱が闇にほどけ、魔力の波動と術が周囲に馴染んで落ち着くと、セオバルドは役を終えた儀式刀を霧消させた。
ちろり、ちろりと夜闇の中を小さな白銀の光の粒が、揺らめいた。
ひとつ、……またひとつ。
清い魔力に満たされた結界の中を、淡い軌跡を描いてふわふわと飛び交う水の精霊が、ゆっくりと上昇し始めた。
宙に浮くことに少し慣れて心に余裕ができたシモンは、ほんのりと残るジュニパーの香りを胸いっぱいに吸い込み、天にむかって降るように昇っていく白銀の精霊たちを見送る。
精霊たちの吸い込まれていくそこには、満天の星。
ちかちかと瞬く宝石のような星と、白金の砂を思わせる細かな星粒が、夜闇を飾る。
ほぅ、とシモンは感嘆の吐息を洩らした。
「空が、……近い」
濃い闇に包み込まれ、あたかも一粒の星になったかのような錯覚が生じる。
すぐ目の前にある星粒は、手を伸ばせば指先に触れることができそうで。
触れたら、夜空を離れてぱらぱらと降り落ちてきそうで。
シモンは無意識に、ゆるりと天に手を伸ばす。
――その手を。
いつの間にか隣に戻ってきたセオバルドが、押しとどめるようにして握った。
きゅっと握られた手は、痛みを伴うほどではない。けれど、振りほどくことの叶わない強さであったから、驚いたシモンは軽く瞠った目をセオバルドに向けた。
視線を交わした青い瞳が惑う。ほのかな憂いを透かした奥に、哀しみが覗く。
「先生?」
不意に。
繋いだ手を引かれて、体勢を崩しかけたシモンの背に、セオバルドが片腕を回す。
セオバルドの胸に抱き寄せられたシモンは、昇ってきた時と同様の格好となった。
「降りるよ」
耳許で、低く囁かれたセオバルドの声は。
微かな緊張を帯びて、ぎこちなく掠れ、静かな夜の空気に沁みこむようにして消えた。




