幕間 ~感傷~
――黄昏時。
陽が落ちた直後の空は、ほのかな赤みを含む紫に染まった。
木々は一足先に夜の彩りを装い、夕暮れの空に闇色の梢を咲かせる。
丘の上の小さな教会から、ぽつりぽつりと灯りの点りはじめた町へと続く細道に、ちりん……、と涼やかな鈴の音が鳴り響いた。
なだらかな傾斜のついたその道を下っていたケネスは、鈴の音に気づいて足を止める。
「……鈴?」
不思議そうな顔をして、きょろきょろと周囲に視線を巡らせた。
「ここよ」
少女を模るシェリーは、ケネスに声をかけて、足を一歩前へと踏み出す。
左手首に結わえられている銀の鈴が、鳴らない靴音の代わりに微かな音を立てた。
声を辿るケネスが、シェリーの姿を視界に捉えて、視線を結ぶ。
ついと視線を滑らせて、シェリーの左手首に目を留めたケネスは、柔らかに頬を緩める。
「綺麗な音色の鈴だね」
瞼を伏せたシェリーは、鈴の結わえられている左手首をケネスから隠すように、そっと右手で覆う。
ケネスと少女の姿で会うのは、部屋で倒れていた彼のそばについて、目覚めをシモンに伝えた時以来だ。
けれど。
掃除や食事の世話と称して、ケネスに治癒の術を施すシモンに付き添い、銀色の妖精猫は何度も彼の部屋を訪れている。
その胸許で鳴る銀の鈴の音を繰り返し耳にしているケネスは、目の前に立つ銀髪の少女が同一の存在だと気づいている。
……そんな気がした。
左手首に右手を添えて黙ったままでいるシェリーに、ケネスは、さりげなく話題を変えた。
「見送りに来てくれたの?」
「そんなんじゃないわ」
刺々しい声音に不機嫌をにおわせるシェリーは、即座に斬って捨てる。
旅立ちを目前に控え、ケネスの心は既に未来に向かって歩き出しているのかもしれない。
ケネスの希望に満ちた明るい瞳を見据えて、シェリーは微かに眉をひそめる。
ほろ苦いものが腹の底から込み上げて、じわりと全身を巡り、……胸が苦しくなる。
「贅沢ね」
命か、それとも恋人である詩神と才能か。
シモンによって、選択を突き付けられた直後であり、あの状況下でケネスが計算ずくであったとは思えない。――だが。
類まれな感性を失う代わりに、ケネスは当面の死を免れ、詩神の心を繋ぎ止めて、好きなことをする時間も得た。
死の淵に立ちながら、生きることに心を傾けたケネスは、己の生を基盤として、捨てることのできない大事なものを余すことなく選び取ったのだ。
シェリーは、密かに小さな吐息を漏らす。
人間という生き物は、本当に――。
「そうだね……。君の言う通り、僕は欲が深いのだと思う」
困ったように微笑み、視線を落とすことで目を逸らしたケネスに、きょとんとしてシェリーは目を瞬かせる。
シモンと同様、鈍い類だと思っていたケネスに、言外に滲ませたものが通じたことに少し驚いた。存外、彼は賢く要領がいいのかもしれない。
放った皮肉が正確に伝わったことで溜飲を下げたシェリーは、つん、と顎を上げて、細めた目でケネスを見下す。
(わかっているのかしら)
ケネスが、詩神に会いに行くことを『約束する』と伝えた時に。
詩神が『約束なんてしない』と返した理由が、シェリーにはなんとなく理解できた。
約束を結べば、予測のできない不確かな未来において、ケネスの心を縛ることができたかもしれない。
また、ケネスを待つのだと決めた詩神自身の心にも、暗い海を照らす灯台のように希望の明かりを灯しただろう。
だが、果たされなかった約束は、時に後悔となってケネス自身の心を刺す。
長い時間を生きて、人間に関わることの多かった詩神は、知っているのだ。
常に移ろい、変わっていく人の心を。
……どんなに愛おしく思っても、両の手で掬い上げることもできずに、零れて落ちて消えてしまう儚い命を。
それでも。
詩神はケネスの意志を受け入れ、離れることを決めた。
その彼女が、信じると言ったのだから――。
「……言ったことを、守りなさいよ」
低く囁くように、けれど叩きつける響きをもってシェリーはケネスに言い放つ。
独りで行く旅は、決して安全なものではないだろう。
旅先で、別の誰かに心を移すことがあるかもしれない。
この世に変わらないものも、『絶対』もないのだから。
けれど、自分で選んで決めたのなら、どんなに時間がかかってもいい。
「生きて、帰って来なさい」
恋人である詩神と、再会を果たして欲しい。
シェリーは、心からそう願う。
軽く目を瞠ったケネスは、投げかけられた言葉の意味を噛み締めるかのように物想う顔をして、黙る。
ややあって、真剣に表情を改めたケネスは。
「うん、……そうだね」
しみじみと相槌を打つ。
そして、シェリーに微笑したケネスは、胸の奥底にまで沁みこむ優しい声音で、「ありがとう」と言った。
短い会話を終えて、ケネスを見送ったシェリーの瞳に映るのは、薄闇に呑まれた町の景色と、そこで暮らす人々が点す灯り。
道を照らす街灯の光や、窓から零れる暖かな灯りを、シェリーは目を細めて眺めた。
(さて……、と)
銀の薄靄を纏い、少女の姿から妖精猫の姿へと戻ったシェリーは、胸に抱く懸念から額に皺を寄せて、教会のある丘に視線を投げかける。
詩神の美しい容姿は、詩人を魅了するためのもの。
詩人に『類まれな感性』を与え、その生命力を奪うことで存在する彼女たち詩神は皆、恋人となった詩人に、激しい執着をみせる。
死を与え、詩人の命を摘み取ることで、彼らの愛情を永遠に留めようとする。
展翅板に縫い付けられた蝶が、朽ちることなく、いつまでもその美しさを留めているように……。
詩人が生きていた時とは、比較にならない長い時間を、そばに置いて慈しみ、愛でる。
それこそ。
――彼らの魂が、色褪せてしまうまで。
だからこそ。
詩神たちは、元来詩人の心変わりを許さない。
詩人に並々ならぬ愛情を注ぐ一方で、詩人の心許す者に深く嫉妬する。
ケネスの魂を迎えに行かないと言い切り、彼を自由にした彼女は、少し風変わりな詩神だったが……。
詩神は、詩神。
夜闇を透かして教会を見据えるシェリーの脳裏に、能天気にぽやぽやと笑うシモンの顔が浮かび、思わず渋い顔になる。
穏やかな雰囲気で人当たりの良いケネスと、ぼーっとしたところのあるシモンは気が合うのか。打ち解けるのが早かったように思えた。
当人たちの間に恋慕の情がなかったとしても、ケネスがシモンに心を許せば、詩神の嫉妬の対象になるだろう。
(折に触れて、近づくなと忠告はしたけれど……)
しかし結局、シェリーの忠告がシモンに聞き入れられることはなかった。
シモンにとっての抑止力。……雇用主であるセオバルドの言い付けに背いてまで、ケネスに関わろうとするシモンを、シェリーに止められるはずもない。
説得されて折れたのだろうセオバルドが、シモンと共にケネスの部屋に現れた時点で、シェリーは忠告することを止めた。
セオバルドも、詩神の性質について知らないわけではないだろうに。まったく、どうして……と、シェリーは胸の内で嘆息する。
(……まぁ、そばにセオがいるのだし、大丈夫でしょう)
制約のあるなかで、言うべきことは言ったのだ。
後のことは、セオバルドに任せておけばいい。
それに、あの場にいる詩神に、刺激を与える存在は少ない方が良い。
シモンに付き添う形で、最後までケネスと関わった自覚のあるシェリーは、そう判断して教会に背を向ける。
道に佇むシェリーの銀の髭を、夜気を帯びた風がそうっと撫でていった。
鼻先を掠めていく、ひんやりとした空気が心地良い。
喉を反らせて見上げると、頭上を覆う影のような枝葉の間から、紺碧の硝子を思わせる透明な空と、瞬きはじめた星々が覗いた。
今夜は空気が澄んで、きっと星が綺麗だから。
白金の粒を流し、散りばめたような星空の下、散歩を楽しむのもいいかもしれない。
シェリーは暗い道を逸れて、自身の目線よりも高く伸びた草原の海へと分け入り、まっすぐに歩を進める。
満天に煌めく星と、町の儚い灯りの両方を望むことのできる、見晴らしのいい場所を目指して――。




