妖精の恋人 14
軽やかな風が、さらりと教会の敷地を通り抜けていった。
梢の葉がそよ風に戯れ、微かな葉擦れの音を立てた。
ケネスを見送るために、セオバルドと玄関先に立つシモンは、風に流され顔にかかる前髪を手櫛で掬って耳に掛ける。
樹葉の囁きに誘われ空を仰ぐと、斜陽に照らされた薄雲が淡い黄金色に染まっていた。
じきに空は、燃えるような朱色に彩られて……。
夜の帳が下りたのなら、輝く宝石を思わせる幾多もの星が、満天に縫い付けられるのだろう。
軽く瞼を伏せることで、自然に視線を落としたシモンは、それとなくケネスと顔を合わせる。
緩やかな癖のあるケネスの栗色の髪が、一束。まるで風の余韻を受けたかのように、ふわりと揺れた。
ケネスの髪に、……その頭上に視線が揺れ動いてしまわないように。シモンは、ケネスのヘーゼルカラーの瞳にぴたりと視線を定め、柔らかに微笑んでみせる――。
ケネスの頭上で、宙に留まる妖精の青みがかる長い銀髪が、風を含んで泳ぐ。
妖精は切ない眼差しを送り、ケネスの栗色の髪を慈しむように優しく、……優しく撫でた。
――生きることを選び、妖精を拒んだケネスの意志は固いのだろう。
そばにいる彼女に見向きもせず、髪に触れるしなやかな指にも気づかない。
ケネスにはもう、妖精の姿が見えていないのだから……。
「……ケネスさん。旅の道中お気をつけて」
「シモンも元気で。お土産話を楽しみに待っていて」
「はい」
「じゃあ、行くね」
シモンと再会を約束し、にっこりと顔を綻ばせたケネスは、セオバルドに向き直ると丁寧な一礼をして、身を翻した。
教会から町へと続く道を下り行くケネスの後ろ姿は、次第に遠ざかり、小さくなっていく。
シモンの隣で宙に浮く妖精が、やるせない表情でケネスの背をじっと見つめた。
「まさか、ね。こんなふうにケネスと引き離されるだなんて、思いもしなかったわ。……ねぇ?」
抑揚のない声で囁いて、妖精はシモンに冷ややかな視線を流し、薄く微笑む。
ちくり、と痛みを覚えたシモンの胸に、妖精に対して後ろめたい感情が湧き出す。だが。
ケネスの気持ちに寄り添うことを選び、彼の意志を尊重するのだと決めたシモンには、軽々しく謝罪の言葉を吐くことなどできない。
それなら、せめて。
ケネスが帰ってくるまで、妖精の寂しさを埋めることはできないだろうか。
そんな思いに駆られて、ぎゅっと両の手を拳に握ったシモンは、妖精に一歩近寄った。
「……貴女さえ良ければ、ここで一緒に――」
「シモン」
――ケネスを待たないか。そう誘いかけようとしたシモンの言葉を、セオバルドがやんわりと遮った。
宥める響きを帯びた声音に、シモンは、はっとして口をつぐみ、目を伏せる。
妖精にとってシモンは、ケネスと別れることになった謂わば原因なのだから。自分自身の発言が如何に配慮に欠けたものであるのか、気づいた。
「恨まれても、仕方ないと思っています」
「そうねぇ……」
妖精の艶やかな唇が弧を描き、美しい笑みを形作る。妖精は指先で唇に軽く触れて、思案するように視線を落とす。
「でも、恨む……というのも少し違うわ」
長い銀の睫毛が、ベールのようにかかる濃藍の瞳の奥。容赦のない酷薄な感情が垣間見え、次いで愉悦が満ちる。
「横やりを入れられた、腹立たしさはあるけれど」
微笑んでいても、妖精の声は地を這うように冷たい。鋭利に研ぎ澄まされた敵意が放たれ、シモンの肌をぴりっと刺す。
横からセオバルドに腕を掴まれたシモンは、彼のそばに、す……と引き寄せられる。
ぱっと顔を上げたシモンと視線を交わし、目配せすることで制したセオバルドは、半歩前へ出る。
「引き離しはしたが、彼から記憶や想いまで取り上げたわけではない」
敢えてそれをしなかった。そんな口振りで放たれたセオバルドの言葉に、妖精の顔が無感情に凪いだ。
怒りの矛先をシモンからセオバルドへと変えた妖精は、すっと目を細め、彼を鋭く睨めつける。
風に靡く柳の如く、妖精の視線を飄々として受け流したセオバルドは、彼女を説き伏せるように言葉を継ぐ。
「信じると言ったのだから、彼を待つつもりなのだろう?」
夕暮れの涼しい風が吹き抜けて、張り詰めた重い空気を新しいものに変えていった。
風に靡く髪を片手で押さえ、妖精は、ふと表情を和らげる。
「……ええ」
吐息にも似た声で肯定し、セオバルドの背後にいるシモンに視線を移す。
「私から離れてまで、詩を書き続けたいだなんて。長い、……とても長い時の中で、そんな人は今までにいなかった。だから、ひとりくらいいても……、心変わりしないといったケネスを、信じて待ってみてもいいって思えたのよ」
腹立たしさ以上に今は楽しみなの。そう独りごちた妖精は、ケネスとの再会に思いを馳せるように、濃藍の双眸を閉じる。
待つことを決めた妖精も、旅立とうとするケネスの前に姿を現す気はないようだ。
「でも、それはそれ、これはこれ」
つま先で宙を蹴って、ふわりと舞い上がる妖精は、セオバルドの頭上へと移る。
まるで寝そべるように身体を横たえると、セオバルドの黒髪に手を伸ばし、その一束を指に絡めて弄ぶ。
「ケネスが戻ってきた時に、旅の話をこの子が耳に入れるのは癪なのよ。この子に入れ知恵をして私の邪魔をした貴方も……。ねぇ? 牧師もどきの魔法使いさん」
妖精はからかう口調でそう言って、嫣然と微笑む。
「……え?」
耳を疑い、シモンは思わず訊き返す。
妖精に向けて大きく瞠った目を、ぱちりと瞬かせる。
――牧師もどきの魔法使い。
何かの比喩か、それとも冗談なのか。
理解が追いつかずに、シモンの思考が停止して呆然となる。
(牧師、……もどき?)
妖精の言葉を額面通りに受け取るのならば、セオバルドは、牧師のふりをしている偽者ということになる。
真偽を確かめようとして薄く口を開くも、躊躇するシモンは声を出すことができない。
妖精は、嘘を吐かない。
嘘を吐かない妖精の言葉は、すなわち真実であるのだから。
(先生が、魔法使い?)
教会に転がり込み、牧師から身を護る術を教わっているのだと信じていたシモンは、信じられない面持ちで、半歩前に立つセオバルドの横顔を見上げた。
けれど、シモンの位置から、まっすぐに妖精を見続けるセオバルドの表情は窺えない。
動揺するシモンの胸中など知るはずもなく、妖精はセオバルドを見据えたまま、くすくすと悪戯っぽく笑う。
「もうすぐここへ、密告者がやって来るわ。仕事をしない牧師がいるって伝えたら、『あそこは教会の跡地のはずだ』って不審がっていたけれど」
密告者をここへ招いたことを告げる妖精は、シモンにもう一つの新しい真実を知らしめた。
「…………」
言葉を失い、凍り付くシモンに気づいた妖精が、一瞥をくれる。
「仕返しよ」
教会から出て行くのか、もしくは牧師のふりをする不届き者として密告者に監視され、ゆくゆくは地獄に堕ちるのか。
悪戯をして困らせる少女のように無邪気な笑みを浮かべた妖精は、町の方から吹き上げる風に身を任せ、濃藍に染まり始めた空へと姿を消した。
宵闇の迫る空から、半壊した礼拝堂に視線を巡らせたシモンの咽から、消え入りそうに掠れた声が零れ出た。
「あ、跡、地……?」
なにがなんだか、さっぱりわからない。
予期せず知らされた真実と、自分の認識が噛み合わずに、シモンは混乱する。
けれど。
言われてみれば、セオバルドが聖職者として奉仕する姿や、聖書を開いて神に祈りを捧げている姿を、一度たりとも見たことがない。
それは単純に、修理されないぼろぼろの礼拝堂に、訪れる人がいないからだと考えていたが。
セオバルドが、いつになっても礼拝堂を直さずに放置していたのは――。
(もしかして、直す必要がなかったってこと?)
セオバルドが牧師でないと考えた方が、辻褄が合う。
妖精の言葉が腑に落ちて、同時にシモンは血の気を失う。教会でセオバルドやシェリーと暮らしてきたすべてが、根本からひっくり返されたかのような奇妙な感覚に陥る。
視界が歪んで、くらりと眩暈がした。
ふらつかないよう両足に力を入れたシモンは、躊躇いがちに手を伸ばし、隣に立つセオバルドの服の袖を指先で摘まむ。
「……先生?」
セオバルドを呼ぶシモンの声は細く、心許なく震えた。




