妖精の恋人 13
「――鋭敏だった感覚は、あれからどんどん遠のいて。でも世界は色褪せてしまったわけでもなくて……。そう、一歩引いた外側から見ている感じかな。今は、自分が生きていること、日に日に身体が良くなっていくのを実感することが嬉しいし、心のままを書き連ねることが楽しいんです」
自宅で療養し終えて教会を訪れたケネスは、柔らかに微笑み、生きていることを確かめるように胸に手を当て、穏やかにそう語る。
そして背筋を正し、セオバルドとシモンを交互に見ると、深々と頭を下げた。
「その節は、ありがとうございました」
生気の戻ったケネスの肌は血色がよく張りがあり、頬にはほのかに赤みがさす。力のあるしっかりとした声といい、彼の体調が格段に良くなっていることは明白だった。
生き生きとしたケネスの様子に、シモンは心底安堵して頬を緩める。
「元気になられて、本当に良かったです」
セオバルドはケネスを家に招き入れて、応接室へと通した。
「どうぞ」
響きのいい低い声が、ケネスにソファを勧める。
ちりちり、ちりちり、……ちりん。
涼やかに鈴の音を響かせて、風と共に扉の隙間から応接室へと滑り込むのは、シェリーだ。
シェリーは、鈴の音に惹かれて首を巡らせたケネスを横目に、とん、と陽だまりの窓辺へ飛び上がる。ぐ……っと前足を伸ばして大きく身体をしならせるや否や、くるりと丸くなって微睡みはじめた。
ケネスは、どこか懐かしむ眼差しでシェリーを眺める。
「彼女の言葉も、一緒に過ごした思い出も、今の気持ちも全部――。書きだすことで整理して、見つめ直しているんだ」
寂しげに微笑むケネスは、思いを巡らせるかのように瞼を伏せて、口をつぐむ。
「……そうですか」
頷くことで手許に視線を落としたシモンは、静かに相槌を打ち、ケネスに温かなハーブティーを出す。次いで、ケネスと向かい合わせに座るセオバルドにも同じものを出して、ソファに腰を下ろした。
――あの日。妖精がケネスの部屋から姿を消した後。
セオバルドとシモンは、ケネスの了承を得て、詩の書き連ねられたノートや紙のすべてを、一か所に集めた。
ケネスは、机上に積み重ねられたそれらの前に佇み、哀愁の眼差しを向ける。
その詩のひとつ、ひとつ。……ぽつりと書き落とされた一片の言葉でさえ、ケネスにとっては、妖精と共に作り出したかけがえのないもの。
そっと瞼を伏せて吐息を漏らし、ケネスは首を巡らせる。シモンと視線が合うと、咽を詰まらせながら低い声で言った。
「シモン、……お願いしていいかな」
けれど。
自ら進むべき道を見出し、未来へ向かって歩き出そうとするケネスの声に迷いや躊躇いはなく、悔恨の響きはなかった。
ケネスの命を救いたいなどと意気込んでいたが、見聞を広げるために故郷を出てきたという彼は、シモンが思うよりもずっと強い人だった。
結局。
シモンにできたことは殆どなく、選択肢の一つを提示したに過ぎないのかもしれない。
「はい」
ケネスからの依頼を受けて、シモンは清めの術の施された短剣を両手で持ち、魔力を込める。
シモンのすぐ後ろにセオバルドが寄り添い、耳許で囁く。
「すべての紙が同一の魔力を帯びているから、それを探ってごらん」
「はい……」
それは、一枚一枚からは感じ取れないほどの微弱な魔力の波動。集められ、重ねられることで魔力の波動が呼応して、はっきりとした波を打つ。
「波動の中心を捉えて、絶つんだ」
セオバルドに頷いて応え、瞼を閉じたシモンは波動の源を丹念に探る。
(……!)
――捉えた。
波動の中心を真下に、シモンは両手で短剣の柄を握り垂直に構え、突き立てる。
短剣の切っ先から伝わる微かな手ごたえと共に、魔力の波動が絶たれたことを感じて、シモンはゆっくりと瞼を開けた。
妖精の息吹のかかる詩の記された紙は、短剣の触れた部分から淡く光り、さらさらとほどけて細かな光の粒子となる。
陽が落ちて。蝋燭の薄明りに照らしだされるほの暗い部屋を、煌めく白金の粒が夜空を彩る星々のように瞬いて、舞った。
それは、ケネス自身の生命力でもあり、彼の紡いだ言葉の結晶。
形あるものから解き放たれて、手許からきらきらと舞い上がる光の粒を、シモンはケネスと共に見つめ続けた。
すべての紙が形を失い、白金の優しい光が部屋にあふれる。
ほどなくして。
光は薄闇にとけてゆき、部屋は徐々に夜の静謐さを取り戻していった――。
「本当に、もう町を出るんですか?」
体調が良くなったばかりなのに、と気遣う口調で尋ねるシモンに、ケネスは物想う顔でハーブティーに手を伸ばす。優しく細められた目で、カップの水底を覗き込みながら、彼は小さく頷いた。
「折角繋いでもらった命だから、時間を無駄にしたくないんだ。あちこちを旅して、いろいろなものを見たい。ひとつでも多くのものや、人と、その心に触れたい。きっとまだ、心を動かされる美しい景色や様々な出来事があるはずだから……。沢山学んで、彼女の待っている荒野へ、書き溜めたもの持っていきたい。……悔いのない人生を彼女に誇れるように」
彼女と再会する未来を思い描いているかのように。幸せそうに微笑むケネスに、ほわん、とシモンの気持ちが軽やかに、明るくなる。
嬉しさが込み上げて、思わずシモンも笑みを零した。
「及ばずながら、ケネスさんの旅の無事をお祈りしています」
「ありがとう」
そわそわとして落ち着かない様子のケネスは、セオバルドとシモンの間に視線を彷徨わせ、「それで……」と言い辛そうに切り出した。
「町を出る前に、ふたりにお礼をしたいのですが、生憎何もなくて」
身体を傾け上着のポケットに手を入れたケネスは、小さな革袋を掴みだした。指先でケネスが革紐を摘まむと、微かにカチカチと硬貨の擦れ合う音がする。
ケネスは緊張の面持ちで、テーブルの上に革袋を置いた。
「気持ちばかりで、本当に少ないのだけど……」
セオバルドは、感情の窺えない取り澄ました顔をして、淡々と相槌を打つ。
「そうですか」
ケネスや革袋に一瞥もくれず、セオバルドは平坦な声で話す。
「貴方のために動いたのは、シモンですから。謝礼の話でしたら、彼に」
まるで、自分自身は無関係だといわんばかりの口振りだった。
思いがけないセオバルドの言葉に驚いて、シモンは慌てふためき、目を真ん丸にする。
「いえ……! 僕はお礼だなんて、そんな」
自分がしたくてしたことだからと、恐縮して首を横に振るシモンに、ケネスは表情を和らげる。
「でも、君があの時、僕を見つけて手を差し伸べてくれなかったら……。諦めかけていた僕の背を、押してくれなかったら。僕は本当のことを知っても、自分の気持ちから目を背けて、生きることを選べなかった。それに……」
ケネスは、窓辺で丸くなっているシェリーに視線を送る。
「こうして体調が良くなるまで、その子と何度もお見舞いに来てくれたでしょ。その度に部屋の掃除をしてもらったし、美味しい食事も作ってもらったのだから、なにもお礼をしないで町を去るのは、なんだか申し訳ないし、心残りで……」
気が済まない様子のケネスに、シモンは困って、隣に座るセオバルドの顔を窺い見る。
首をわずかに傾け、ちらりとシモンと視線を交わしたセオバルドは、柔らかな声音で言う。
「受けたのは君だから、好きなように決めたらいい」
セオバルドがほのめかすのは、対価である。そう察したシモンは、以前に彼と、対価について話したことを思い出す。
セオバルドは、互いの関係を対等に保つために対価を得ることは必要不可欠であると言ったが、それはきっと、彼の経験に基づく考え方。
そして、セオバルドが今まで『シモン』や『アニーの絵』を対価としたように、柔軟であって然るべきもの。
しばし黙考したシモンは、セオバルドの言葉に、自分の想いを重ねる。
依頼に対する対価とは、依頼者の身に起きた出来事を円満に解決することができたという証でもある。それは、自分の労に対する労いであり、謝礼――。すなわち、依頼した人間の気持ちを受け取ることに近いのかもしれない。
(それなら……)
依頼者は、対価を払うことでひとつの出来事に区切りをつけ、心置きなく次へと進むことができるのではないかと、シモンは考える。
対価を得ることは、依頼に対する一定の形式。
シモンは自分なりにそう解釈し、答えを導き出す。
テーブルの上に置かれた革袋を持ち上げ、シモンは大事に両手で包み込む。
……お金は、ケネスが旅をするのに必要な物。だから――。
ぱっと弾かれたようにケネスに顔を向けて、シモンは硬貨の入った革袋を彼の手に握らせる。
「お金は受け取れません。その代わり、ケネスさんがこの町に戻ってきた時に、旅のお話を聞かせてもらってもいいですか?」
ヒースの咲き乱れる荒野に迷い込んで、妖精と出会った話を聞かせてくれたように。
「そんなことでいいの?」
何年先になるのかわからないのに、とケネスは拍子抜けしたような顔をして、目を瞬かせた。
「はい」
答えて、シモンは大きく頷く。
美しいものを素直に感じ取り、感性の赴くままに妖精を見つけ出し、受け入れてしまえるケネスだから。様々な場所を訪れ、人の心に触れることで彼が感じたもの……。ケネスの心が揺さぶられた、旅の情景を知りたい。
旅の途中で紡いだ詩を読ませてもらいたいとも思ったが、それはきっと、恋人である妖精に一番に見せたいだろうから……。
「ケネスさんの心に残った素敵な旅の景色や、出来事を教えてください」
晴れやかに微笑んでみせるシモンに、ケネスは少年のように屈託のない笑みを浮かべて返す。
「うん、わかった。……ありがとう、シモン」




