妖精の恋人 9
小さなトレイに乗せられたカップから、温かな湯気と共に、ハーブの香りがほのかに立ち昇った。
トレイを片手に緊張の面持ちのシモンは、セオバルドの部屋の前に立つ。
もう一方の手を軽く握り、扉をノックしようとして、寸前で止める。
胸が早鐘を打ち、深呼吸をしても治まらない。
町でシェリーに指摘されたように、いつもよりも早い時間にシモンは出掛けた。出際に断りを入れたから、シモンが教会を出た時間をセオバルドは知っている。
だから。
いつもよりも、帰宅の遅れた理由を――。
町から戻ってこなかった理由が、ケネスの家に寄っていたからだと、セオバルドは気づいているかもしれない。
もう一度、セオバルドと話をしないと……。そう自らを奮い立たせたシモンは、息を吸い込む。
……やわらかな湯気が鼻孔をくすぐり、清しいハーブの香りが胸に沁みわたる。
意を決して、コンコン……、と軽く扉を打った。
直後。
扉越しに飛び立つ小鳥の力強い羽音が聞こえて、シモンは訝しむ。
(……部屋に、小鳥?)
そして。
「どうぞ」
セオバルドの声に招かれ、シモンはドアノブに手を掛ける。
「失礼します」
ゆっくり扉を押し開くと、シモンの脇から廊下へ、風が流れた。
ざぁ……、と。
砂浜に打ち寄せる漣にも似た葉擦れの音が、部屋に鳴り響く。
葉擦れの音に紛れる小鳥の囀りと軽やかな羽音に、シモンは部屋の奥へと目を向ける。
セオバルドの部屋の窓が、解放されていた。
窓の外の景色は、薄暗い部屋に差し込む明るい陽光とのコントラストで、ぼんやりと白んで見える。
心地良い風と共に部屋を巡り、シモンの許に届くのは外の香り。そのせいか、普段は部屋を満たしている古びた本の匂いや、どこからか漂う薬草の香りも薄らいでいる。
窓が解放されていることで、部屋独特の雰囲気が和らぎ、シモンの緊張も、いくばかりかほぐれる。
物の少ないすっきりとした部屋の、きっちりと整理整頓された本棚を横目に、シモンはセオバルドの許へ、淹れたばかりのハーブティーを運んだ。
シモンは、机上に写本を広げて読み物をするセオバルドの傍らに立つ。
音を立てないよう注意を払い、机の隅にカップを置いて、セオバルドに声をかける。
「先生、お茶を置いておきますね」
「ありがとう」
簡単なやり取りの後、シモンはセオバルドの横顔を、そぅっと窺い見る。
空になったトレイを、ぎゅっと胸に押し付けるように抱きしめて、シモンは薄く口を開く。
「……先生」
視線を寄越すでもなく、眉一つ動かさずに平然としたセオバルドは、先の言葉を促すかのように黙りこくる。
トレイの縁を掴むシモンの手が、強張った。
「言い付けに背いて、すみません。さっき、ケネスさんのところへ寄ってきました」
本に目を落としていたセオバルドが、軽く瞼を閉じた。
驚く素振りも見せず、声を発することもない。
……やはり、セオバルドは気づいていたのだ。
それでも尚、口を挟む様子のないセオバルドに、シモンは一呼吸置いてから言葉を継ぐ。
「そこで、ケネスさんと妖精のことを……、リャナンシーのことを知りました。衰弱しているケネスさんが、このままでは長くないことも……。何か、ケネスさんの命を助ける術があったら教えていただけないでしょうか」
腰を折って、深く頭を下げた。
部屋は静まり返り、一呼吸、二呼吸……。早く打つ胸の鼓動と、潜めた呼吸の音だけがシモンの身体の内で反響する。
何か、返事をもらえるまで。
否――。
返事がもらえずとも、セオバルドがその場からいなくなるまで、頭を上げるつもりはなかった。
やがて、深く息を吐き出したセオバルドが、名を呼んだ。
「シモン」
ただ呼ばれたのではない。続く話のための語り掛ける口調、穏やかな声音だった。
応えるために、シモンは頭を上げる。
「はい」
椅子に腰かけるセオバルドは身体の向きを変え、真摯な青い瞳でまっすぐにシモンを見た。
「……君は、彼がどうしたいのか、知っているんだろうか」
どう、とは。
ケネスを助ける術を教示するのではなく、彼の意向を尋ねるセオバルドに、シモンは困惑の表情を浮かべる。
セオバルドが何故そんなことを訊くのか、わからなかった。
「…………」
答えることのできないシモンに、セオバルドは眉を寄せて、苦いものを口に含んだように表情を歪める。
「わからないのなら、彼の命を助けたいというのは、君の希望でしかないんだ」
いいかい? とセオバルドは重々しく口を開き、厳かな口調で説く。
「彼の感性は妖精から得たもの。そして、対価として生命力を妖精に奪われている。……つまり、命を助けるということは、妖精との関係を絶つということになるんだ。……彼にとって妖精を失うということは、恋人を失うのと同時に、与えられていた感性も失うということ。それを伝えて尚、彼が生き永らえたいと願った時に、君は手を貸すことができる」
「それは……」
ただ、命が助かればいいと考えていたシモンは、言い淀む。
「彼の意向を確認せずに、君の希望だけを押し通した場合。仮に生き永らえたとしても、彼は失ったものの大きさに苦しみを覚えるだろう」
「……あ」
妖精が部屋を訪れた時の、ケネスの嬉しそうな笑顔を思い浮かべて、シモンは、はたと気づく。
恋人である妖精も、詩を紡ぐための感性も、きっとケネスの大切なもの……。
「彼は、どうしたいのか――。詩人として、自身を通した言葉を詩という形で遺し、短い生を生き抜くのか。それとも、恋人と感性を無くして生き永らえるのか。……きちんと伝えた上で、選ぶのは彼自身でなければならない。君の希望と彼の希望が一致するのなら、それでいい。だが、もちろん彼が、逆の選択をする可能性もある」
言われたことを正しく理解し、難しい顔をしたシモンは、きゅっと唇を噛む。
命か、それとも恋人と才能か。
一方を得るためには、もう一方を諦めなければならない必然。
二つを得ることは、できない。
その非情な選択をケネスに突き付けるのは、他でもない、関わろうとするシモン自身だ。
青い双眸をそっと伏せて、セオバルドは物想う顔をする。
「それでも君は、彼と関わろうというのか」
暗く沈む静かな声音が、憂いを帯びた。
セオバルドを見つめるシモンは、もしかしたら……と、思いを巡らせる。
早々に、ケネスや妖精からシモンを遠ざけようとしたセオバルドは、過去に同様の経験をしたことがあるのではないか、と。
「先生は……」
掠れるように小さな声で問いかけて、シモンは口をつぐみ、視線を落とす。
自分自身の言葉を打ち消すように、ゆるりと首を横に振った。
余計なことを訊きかけたのだ。
セオバルドが慎重な姿勢を示し、シモンを案じるのは、その時に彼が何か辛い経験をしたからなのかもしれない。だとすれば、セオバルドにそのことを尋ねるのは、あまりにも思い遣りに欠けているような気がした。
沈黙という圧が、薄暗い部屋を支配した。
屋外の音が、すぅっと遠のいて、窓から射し込む陽光は陰影に呑まれた。部屋という一つの空間で、ふたりは流れる時間から隔絶されたかのように静止している。
シモンは視線を落としたまま、思い詰めた表情で押し黙る。
ぴくりとも動かないセオバルドは、凪いだ水面を思わせる青い双眸でシモンを見つめ、静かに答えを待つ。
いつしかカップに湛えられていたハーブティーの湯気がひっそりと消えて、ほの明るい琥珀の液体に窓が映り込む。小さな水面に鋭利な薄光が貼りついた。
どれだけ考えても、シモンにはケネスがどうしたいのか、わからない。
「僕は……」
何も知らなければ、ケネスは最後の時まで、心穏やかに過ごせるのかもしれない。
真実を告げることで、彼の心を掻き乱すことになるかもしれない。
それでも。
「ケネスさんが、どうしたいのか。今、僕にはわかりません。わからないけど……、わからないから……。ケネスさんが、生きたいと思う可能性が。生きる未来を選びたいと思う可能性が、ゼロでないのなら……。伝えたいと、思うんです」
「この先も彼と関わるというのなら、君のことだ。どんな結末に転んだとしても、途中で放り出すことはできないだろう。……そして、君は関わることで、少なからず彼の苦悩を共有することになる。その覚悟は、あるのだろうか?」
シモンの性格を踏まえて危惧するセオバルドは、覚悟を問うことで、再考を促した。
(覚悟……)
思わず顔が強張り、シモンは口を引き結ぶ。
結末は、どこに行き着くかわからない。
セオバルドの言葉には、選択肢を与えられたことでケネスが悩み、一方を選ぶことで苦しむ可能性も暗に示されている。
ケネスから、恨みや憎悪といった感情を向けられるかもしれない。
けれど――。
「……はい」
関わるのだと決めた以上、ケネスの抱える苦悩を和らげるためにできる限り尽力することを、シモンは肝に銘じた。
しばし黙って、セオバルドは瞼を伏せることで微かに頷く。
「君が悩んで出した答えなら、私はそれを否定しないよ……。君を苦しめるのは、私の本意ではないからね」
シモンの出した結論を受け入れ、セオバルドが漏らしたのは、諦めにも似た小さな嘆息。
そして、セオバルドは彼自身の意志を、毅然として告げる。
「……だけど、これだけは覚えておいて欲しい。私は、君が心に癒えないほどの深い傷を負うことを、望んでいないということ」
護身用として渡してある短剣を持っておいで、とセオバルドは言った。
――妖精に才を与えられているのなら、与えられた才の凝縮された、結晶ともいうべきもの。妖精と詩人を繋ぐ形ある物。彼であれば、妖精に与えられた感性から生み出された、想いや魂の込められて紡がれた詩。それを記した物を、君に渡した短剣に魔力を込めて壊し、両者の繋がりを絶ってしまえばいい。
そして何よりも、魅入られた者がきちんと意志をもって、それらを受け入れないのだと拒絶の言葉を口にすることだ。妖精と繋がり、その力を分け与えられた詩人の言葉は特別だから。意思を込められ、音をもって紡がれた詩人の言葉は、術と同じ。
与えられた感性を、そのまま妖精に還すだろう――。
机上のカップに手を伸ばして持ち上げ、セオバルドは口許でそれを傾ける。
「行こうか」
私も付き添う、とカップを机上にそっと戻し、椅子を引いて立ち上がった。
飲み干されて空になったカップをトレイに乗せたシモンは、セオバルドを見上げる。
「え? 行くって……?」
きょとんとして、目を瞬かせた。
セオバルドはわずかに顔を傾け、シモンに視線を流す。
「君が来る少し前に、小鳥を介してシェリーから伝言が届いた」
はっとして息を呑んだシモンは、緊張と心配を織り交ぜた表情を浮かべる。
「ケネスさんが目を覚まさなかったので……、シェリーに彼のそばに付いていてもらうよう頼んだんです。あの、シェリーは、なんて……?」
「彼が、目を覚ましたそうだ」




