妖精の恋人 8
妖精は、肉体を離れた詩人の魂を異界に迎えに行く――。
シェリーによって知らされた事柄に、シモンは零れそうなほど大きく目を見開いた。
それが本当ならば、生死の境界は妖精と詩人を分かつものになりえない。
妖精にとって、ケネスの死は何の意味も持たない。
「確かに、死んだ恋人を諦めきれないリャナンシーは、死者の世界に詩人の魂を迎えに行くの。……でもね」
胸に繊手を当てた妖精は、わずかに顔を伏せる。ふわり、と銀の長い睫毛が霧のように被さり、濃藍の瞳が陰る。
「そばに、いるだけ」
「……いるだけ?」
どういうことだろう。
憂える妖精の言葉が理解できずに、シモンは鸚鵡返しに訊き返す。
「生前の身体があれば、恋人の魂をそこに返すの。身体がなければ霊体となった恋人を、そばに置くの。どこへ行くのにも、連れていくの」
それは。
恋人である詩人が亡くなっても、離れることなく寄り添い、共に在り続けるということ。
永き時を生きる彼女たち妖精にとって、幸せの形の一つなのかもしれない。
けれど、妖精は物哀しく弱々しい声で語る。
「人にとって生と死は、明確な境界よ。死者は生者とは違うわ。一度、死を迎えた身体に魂を返したところで、生き返りはしない。所詮、死した身体は、仮初の容器でしかないの。皆、徐々に動かなくなり、やがて朽ちてしまう――」
妖精は、そうした詩人を何人も見てきたのだろうか。
深い哀れみとやるせなさに彩られる濃藍の瞳を、静かに閉じた。
「――霊体にしても、そう。生きている時にはあった、物に触れる身体がない、色を映す瞳がない。美しい音を聞き取る耳もない。生きている時に当たり前にあった感性は徐々に失われていく。時間がたてば経つほどに感覚は遠のいていく。魂として死んだ時のまま、人間として新しい何かを生み出すことはないの。……どんなに優れた詩人でもね」
死した生き物の魂は、現世を離れて異界に渡る。
生と死、死と生を繋ぐ環の狭間で、現世に渡る魂に与えられるのは、安寧。
身体を離れて同時に五感を失い、新しい刺激は得られなくなる。
穏やかな深い眠りの底で、生きていた時のすべては薄らいで、剥がれ落ちていくように忘却し、まっさらな状態で生まれ変わる。
その環の中から妖精によって連れ出されたとして、詩人の魂に人間としての新たな成長はない。
死んだ時のまま。
妖精にとって、人は儚い蜻蛉のようなもの。
いつまでも一緒にいたいと願っても、叶わない。
愛しい人との幸せな時間を、永遠に繋ぎ止めておくことはできない。
人を愛した妖精の悲哀に触れて、理解したシモンは、顔を俯ける。
妖精は、諦念の吐息を漏らして、薄らと寂しく微笑んだ。
「時間が経てばたつほどに、考えることも話すこともしなくなる。最後には表情すら無くし、虚を映す瞳を、時折彷徨わせるだけ。そんな、ただの残滓のようになった恋人に飽きてしまうのよ。そしてリャナンシーは、影のようになった男を置いて、新しい恋人を探しに行くの」
「そんな……!」
悲痛に声を上げて、シモンは穏やかに寝入るケネスの顔を見遣る。
出会って間もないが、朗らかに人懐こく笑うケネスを知っている。
自分の紡いだ詩を詠みあげる妖精の声に耳を傾け、幸せそうに聞き入るケネスを知っている。
そんな彼が無気力に表情を無くし、独り置き去りにされる姿を想像して、シモンの胸が締め付けられるように痛んだ。
しなやかでありながら凛として、妖精は、シモンをまっすぐに見据えた。
「私はこの人が好きよ。この人が笑うのが好き。優しい声が好き。この人が見聞きして感じたものと、想いの紡がれた詩が好き。だから……、この人が死んだら、魂を迎えに行く気はないの」
やわらかに甘い声音は、しかし芯が通りシモンの心に響く。それが、紛れもなく彼女の真実であることを窺わせた。
妖精は、目を醒まそうとしないケネスの顔を覗き込み、彼の瞼に小鳥の羽根が触れるようなキスを、軽やかに落とす。
「また来るわね」
優しく包み込む声音で囁いて、妖精は立ち上がる。開かれていた窓から青空へと舞い上がり、降りそそぐ陽光にほどけて、すぅ……と消えた。
出て行った妖精と入れ違いに、初夏の陽気に温められた微風が、そよそよと部屋へと入り込む。
「あの妖精に関わるのは、よしなさい」
シェリーの涼やかに透る声には、確固たる忠告と戒めが込められ、シモンの耳に鋭く刺さった。
関わるなということ。
それはつまり、妖精に生命力を奪われるケネスを、このまま放っておくことに他ならない。
「ねぇ、シェリー」
物想う瞳を妖精の消えた空に向けていたシモンは、ゆっくりと首を巡らせ、シェリーに問いかける。
「シェリーも先生も、ケネスさんの具合の悪い原因が、彼女にあるって知っていたんだよね。どうして、教えてくれなかったの?」
小さな嘆息がシェリーの鼻から漏れた。小首を傾げたシェリーは、シモンに問い返す。
「あなたが知ってどうするの? ケネスの優れた感性は、彼の生命力と引き換えに、恋人であるリャナンシーから得たもの。遥か昔から、彼女たち『死の詩神』に魅入られた詩人の書き遺したものは、価値を認められ、後世に伝えられてきたわ。それは事実なの。優れた歌い手や詩人は、それ故に薄命なのよ」
妖精と詩人の関係は、古くからある一つの摂理なのだと、シェリーは肯定の意を示す。
――妖精猫のシェリーは、妖精を否定しない。
リャナンシーの存在も、最初から『そういうもの』として、受け入れているようだった。
「でも……、そうかもしれないけれど。それなら、今みたいに治癒することができるのなら……!」
身を乗り出したシモンが詰め寄っても、シェリーは表情一つ変えずに、ぴくりとも動かない。
ただ。
厳しさを湛えた紫水晶の瞳は、本当にそう思うのかと問いただす眼差しでシモンを睨めつけた。
「……あなたが治癒したところで、リャナンシーがケネスから離れない限り、その場しのぎにしかならないのよ」
またすぐに具合が悪くなるのだと、シェリーは青白いケネスの寝顔を一瞥する。
「じゃあ、先生も? 先生がここへきては駄目だといったのは……、僕がここへきても結局、なにもできないから?」
シモンは、セオバルドの頑なな態度を思い返して、力なく肩を落とす。
セオバルドもシェリー同様、妖精の存在を是認し、ケネスがこのまま命を落としても仕方がないと考えているのだろうか。
ケネスは助からない。だから――。
一時的な治癒などは必要ないと、ケネスを訪ねることを禁じたのかもしれない。
どうすることもできない無力感から、泣き出しそうになるのを堪えたシモンは両手を拳に握り、俯いて、きゅっと固く唇を噛み締めた。
「……そういうところよ」
軽風にそよぐ梢の、微かな葉擦れの音よりも小さな声で、シェリーは、ぽそっと呟く。
静かな紫の瞳が、凪いだ水面のように項垂れたシモンの姿を映し出す。
「セオがあなたに伝えない『余計なこと』を、私は言えないわ。だから、これは私の想像で……、ただの独り言」
ぴん、と張るシェリーの髭の先が細かく震えた。つい、と目を伏せたシェリーは、窓に視線を移して、歩み寄った窓辺に飛び乗る。
「セオが、ケネスに関わるなと言ったのは……。ケネスがもう長くないことが、わかったからよ。あなたが……」
窓辺で正面から風を迎え入れるシェリーは、シモンを振り返ることなくそっぽを向いたまま。
すらりと垂れ下がる銀の尾が、ぱたんぱたん、と振り子のように大きく左右に揺れた。
「あなたに、真実のことを伝えたら。……ケネスが長くないと知ったら、あなたはそのことに苦しみを覚えたりはしない? 弱っていくケネスを放っておける? 彼の世話を焼いて親しくなれば、あなたはケネスが死んだ時に悲しむでしょう? セオは――」
途切れたかに思えたシェリーの声を。
消え入りそうに掠れる小さな囁き声を、外から入り込んだ風がシモンの許へと運び、届けた。
――セオは、あなたが心を痛めることがないよう、悲しみから遠ざけたかったのだわ。




