妖精の恋人 7
ケネスの微かな寝息が、静かな部屋に響いている。
治癒の術を施し終えたシモンは、呼吸を繰り返すケネスの口許を、規則正しく上下する胸を、心配と緊張の混ざる面差しで注視する。
「……どう、かな?」
術は効いているだろうか。
不安に駆られたシモンは居ても立っても居られずに、恐る恐るシェリーに尋ねた。
ぴん、と立てた耳をケネスの胸許に当てて、じっと彼の状態を探っていたシェリーが、首を持ち上げて座り直す。
「胸を打つ音も、呼吸の音も、さっきよりは幾分か良いかしら。先に注いだ魔力が、上手く作用したみたいね。治癒の術が効いて、身体が体力を回復させるために、眠りを必要としているのよ」
「そうなんだ、……良かった」
軽く瞼を閉じて、深く安堵の息を吐いたシモンの肩から、力が抜ける。
「シェリー」
ゆっくりと瞼を持ち上げて、シモンは隣に腰を下ろすシェリーに顔を向ける。真剣に表情を改め、シェリーの紫水晶を思わせる澄んだ瞳を、覗き込む。
「さっき、シェリーは、ケネスさんが生命力を奪われているから衰弱しているって言ったんだよね。……誰が、どうして?」
倒れていたケネスを見つけても、シェリーは動じることなく不思議がる様子もなかった。
シェリーは、すべてわかっているのだと考える方が、自然だった。
「……」
交錯していた視線が、つい、と逸らされる。
紫の双眸は、シモンの背後のただ一点を、じっと見据えた。
「シェリー?」
部屋に流れ込んだ清かな風が、ふわり、とシモンの髪をそよめかせた。
(窓?)
シェリーの視線を追い、振り返ったシモンは、大きく目を瞠る。
「あ……」
窓辺にいたのは、青みがかる銀糸の髪に濃藍の瞳の女性。
――詩の妖精だ。
妖精はシモンの隣に膝をついて、眠っているケネスの顔を覗き込んだ。柔らかに目を細めて微笑し、そっとケネスの明るい栗色の髪に触れて、慈しむように優しく撫でる。
「深く、眠ってしまっているのね」
ケネスは、ただ眠っているのではない。それを知っているシモンは、憂いに陰る瞳を伏せる。
静かにひとり、思案に耽る。
医者を呼ぼうとしたシモンにシェリーは、『身体が悪いわけではない』と言った。『生命力そのものを奪われて衰弱している』……とも。
(あれ……?)
その発言の真意を尋ねた時に、シェリーが見つめたのは、彼女ではなかったか。
それに。
生きている者の生命力を奪うなどということが、人間にできるとは考えにくい。
ふと、噂好きのお婆さんの『何かに憑りつかれているんじゃないか』という声が脳裏を過り、シモンは背筋にうすら寒さを覚える。
思い起こせば、セオバルドが態度を急変させたのは、シェリーから妖精の話を聞いた後だったのではないか。
詩の妖精を軸に、シモンの頭の中でいくつかの点が線を結ぶ。
半信半疑でありながらも、仮定はおぼろげに体を成す。
「ねぇ……?」
隣に座る妖精が、シモンの耳許で囁きかけた。
妖精の可憐な澄んだ声に、シモンの意識は否応なく捉えられる。
びくん、と肩を震わせたシモンの表情が驚愕に彩られ、凍りついた。ゆるりと顔を横に向けて、シモンは間近で妖精と目を合わせる。
「この人は、もう長くないの?」
そんな空恐ろしい言葉ですら、薄紅の唇から零れ落ちる音色は、奏でられているかのように美しい。
優しく甘やかに耳朶を打ち、心地良い響きは胸を震わす。
たとえようのない、天上の音楽のような……。
「それは、貴女がよく知っているはずだわ。詩人に……、ケネスに類まれな才を与える代わりに糧となる生命力を奪っているのは、他ならない『死の詩神』といわれる貴女なのだから」
依然として落ち着きを払うシェリーは、妖精とケネスの関係について冷然と明言した。
濃藍の瞳が優雅に転じて、冷ややかにシェリーを見据える。
「……ええ、だってそれが私、リャナンシーだもの。私には人の身体のことはよくわからないわ。段々と弱っていって、ある日突然動かなくなってしまうから。でも――」
ふふっ、と呼気を小さく弾ませた妖精は、悪びれることなく、満ち足りた笑顔で言った。
「私が与える感性で、ケネスは詩を返してくれる。彼は私を受け入れたわ。私たちはお互いに与えあって、一緒に喜びを見出しているの」
ケネスの生命力そのものが妖精の糧であり、彼自身の才となっているのだと理解したシモンは、色を失う。
ケネスには当然、詩の妖精についての知識はないだろう。医者に診てもらったのだと、自身の体調不良の原因に思い当たる節のなさそうだったケネスは、きっとこのことを知らない。
「ケネスさん、ずっと体調が悪いって……。今も倒れていたんです! このままじゃ、ケネスさんは……」
言い淀んだシモンは、きゅっと唇を引き結ぶ。わずかに躊躇ってから、言葉を絞り出した。
「ケネスさんが亡くなったら、貴女は哀しくないんですか……?」
妖精の思想や感情は、人間のものとは違う。
それでも。
ケネスと並んで詩を詠みあげる彼女は、彼の言葉に心を添わせているように見えた。
人の心にまったく添えないのであれば、そばで聞いていたシモンの心に響くものにはならなかったはず。喜びも哀しみも、人に限りなく近い感性を持っているのではないか。
「ええ」
妖精は、みるみるうちに表情を陰らせて、憂いをあらわにする。雨粒に打たれて、心許なく項垂れる繊細な花のようになる。
「……死んでしまったら、そばにいなくなってしまったら哀しいわ。だってもう、心打たれる詩も、美しい歌も書いてくれないのだから」
しっとりと哀しみを纏う妖精は、細くはかない声を震わせる。泪の一粒でも零そうものなら、その瞬間にほどけて消えてしまいそうに痛々しく見えた。
意図せず、胸に湧きあがる憐憫の情に狼狽えたシモンは、言葉を失う。
そんなシモンを尻目に、なにを……と、シェリーは事も無げに言う。
「ケネスが死んでも構わないのでしょう? だって、貴女たちリャナンシーは、恋人にした人間が死ねば、異界にその魂を迎えに行ってしまうんですもの」




