妖精の恋人 4
空の端を染めていた淡い薄紅が徐々に移ろい、青みを帯びた深い紫になる。
刻々と深まる濃藍の空に白金の星が瞬き始めて、夜空を作り上げる直前――。
買い物袋を提げたシモンは、シェリーと共に、窓に煌々と明かりの灯る教会へと駆け込んだ。
息を切らせ、ひとまずキッチンへ荷物を置いたシモンは、すぐさま身を翻す。
――直後。
小さく息を呑んだシモンの足が、ぴたりと止まった。
いつの間にそこにいたのか。
シモンの視線が、キッチンの扉の前に立つその人の顔に、釘付けになる。
「……先生」
「遅かったな。町で何かあったのかと思った」
あからさまでないが、セオバルドの表情や声音、纏う雰囲気は少しずつ硬い。
シェリーが先に報せてくれていたとはいえ、シモンは請け負った家事も受けるべき授業も、放り出してしまった。いつぞやの、町から強引に連れだされた時とは訳が違う。
セオバルドが、にこやかであるはずがない。
緊張気味に背筋を正し、シモンは謝罪を口にする。
「黙って遅くなって、すみませんでした。先生の食事は……」
「あるもので、済ませた」
「今日の授業も……」
「今日は、もういい。与えてあった課題は、明日提出するように」
「はい」
セオバルドに淡々と返答され、いたたまれない気持ちになったシモンは、項垂れて肩をすぼめる。
「それよりも……」
眉を寄せたセオバルドは、シモンの頭部に手を伸ばす。
びくんと首を竦めて、身を固くするシモンの髪を、セオバルドの指先が軽く撫でた。
「……髪に、埃の絡んだ蜘蛛の巣?」
目を凝らし、指先に付いたものを訝しむセオバルドに、シモンは、はっとする。
「あ、それは……。たぶん、ケネスさんの家で」
掃除をした時に、天井から落ちたものを被ってしまったのだろう。
慌ててケネスの家を出てきたから、身体の埃を払っていなかった。他にもまだ何か付いているかもしれないと、シモンはせわしなく手櫛で髪を梳き、衣服を眺めまわす。
急に身だしなみを気にして整え始めたシモンの様子を、セオバルドは不審そうにじっと見つめる。
「ケネス……?」
「ケネスさんは、ついさっき、パン屋さんで知り合った町の人です」
袖や背中、足先まで、蜘蛛の巣や汚れがついていないことを確認したシモンが顔を上げると、背後からシェリーが口を挟む。
「……ケネスは、貴方と同じくらいの歳の男性よ。この子ったら、独り暮らしをしているその人の家に上がり込んでいたの」
「…………な――」
愕然として大きく目を見開いたセオバルドが、弾かれたようにシェリーに顔を向けて、絶句する。
荷物の隣にちょこんと腰を下ろして落ち着きを払うシェリーから、セオバルドは、ゆるゆるとシモンに視線を移す。
まじまじとシモンの顔を見据えるセオバルドの顔が、驚きや戸惑い、不安といった感情に彩られて固まった。
凍り付いたかのようにぴくりとも動かなくなったセオバルドを、シェリーとシモンが見つめる。
誰も言葉を発しないキッチンが、しんとして静まり返る。
帰宅の時間が遅れたことの他に、まだ何か悪いことをしたのだろうか。
シモンは困惑の表情で、おずおずとセオバルドに問いかける。
「……先生?」
「…………」
シモンと視線を交わしたまま、なんだかひどく物言いたげなのに、セオバルドは何も言わない。
「ずっと様子を見ていたけれど、私に気づくこともなく、一心不乱に掃除をしていたわ」
目端を利かせ、報告を重ねるシェリー。
ゆっくりと目を瞬かせ、ほぅ……と深く息を吐き出したセオバルドが硬直を解いた。疲れたように、そっと瞼を伏せる。
「何をしているんだ……、君は」
無用心に過ぎる、とセオバルドは溜め息混じりに呟く。
無用心? とシモンは小首を傾げた。
「ケネスさんは、パン屋さんも知っている、この町の人ですよ?」
人を模る魔物でもなく、人攫いなどという物騒な人間でもない。
微かに眉をひそめたセオバルドは、むっとして口を引き結ぶ。優に一呼吸置いてから、おもむろに話を切り替えた。
「……それで、こんな時間まで、掃除をすることになった経緯は?」
瞬時にして緊張したシモンの両手が拳に握られ、きゅっと力がこもる。
「路地裏で座り込んでいたケネスさんが、あまりに具合が悪そうだったので、家まで送っていったんです。体調が悪いせいか、その……。部屋も少し散らかっていたので、ケネスさんが身体を起こせるようになるのを待ちながら、つい掃除を始めてしまいました」
かいつまんで説明したシモンは、納得してもらえるだろうかと、セオバルドの顔色をそぅっと窺う。
そして、もう一度深く頭を下げて、謝罪を重ねた。
「すみませんでした」
セオバルドは渋い顔をして黙るも、ややあって吐息を漏らし、仕方ないといったふうに頷く。
「わかった」
許してもらい、ほっとしてシモンの気持ちが緩んだ。
ほんのりと頬を上気させたシモンは、町で出会ったケネスのことと、彼の部屋に舞い込んだ妖精のことを思い浮かべて、満面に笑みを溢れさせる。
セオバルドに、何をどこから話そうか迷い、そわそわとする。
「あの……、先生。帰り際に、ケネスさんの家に妖精が入ってきたんです。ねぇ? シェリー」
妖精猫のシェリーなら、彼女がどんな妖精なのか知っているはず。
シモンは話の輪に入るよう誘いかけ、詳しい補足を期待する眼差しで、シェリーを振り返った。
けれど。
シェリーは、会話に加わることに気乗りがしないのか、それとも何か思うところがあるのか。
「……そうね」
歯切れの悪い返事をして、考えあぐねるように黙り込んだ。
待っていても口を開かないシェリーを訝しみながら、シモンはセオバルドに視線を戻す。脳裏に妖精の姿を描いて、うっとりする。
「すごく綺麗な女性の姿をした妖精だったんです。ケネスさんにも妖精が見えていて……。妖精と、詩について話し始めたんですよ」
「詩について?」
眉をひそめて険しい顔をしたセオバルドは、思案するように黙った。
そんなセオバルドの引っかかった部分を解きほぐすように、神妙な顔をしたシェリーが、控えめな口調で言い添える。
「ええ。妖精が、ケネスにだけ見えるように波長を合わせたのよ。この辺りでは珍しい……」
小さな額に皺を寄せたシェリーは言い淀んで、一度口をつぐむ。
まるで言葉を探すように視線を落として彷徨わせた後、セオバルドをまっすぐに見つめた。
「……詩の妖精ね」
シェリーは低い声音で、さらりと告げた。
きょとんと目を瞬かせるシモンの隣で、すっと目を細めたセオバルドは、厳しい顔をする。
(詩の妖精……?)
シモンの知らない、初めて耳にする妖精だった。
だが、詩に携わる妖精というのなら、合点がいく。
「そっか、ケネスさんは詩を書くからですね! 部屋を片付けた時に集めてまとめたから、少し見えちゃったんですが、どれも、とても素敵な詩だったんです。ケネスさんの詩を詠みあげる妖精の声も、素晴らしくて……」
軽く瞼を閉じて、シモンは余韻に浸る。
妖精は、よほどケネスの紡ぐ詩が気に入っているのだろう。ケネスがセオバルドや自分と同様に、人ならざるものを見ることのできる人間でないのは残念だったが、妖精がケネスの家を訪れた理由がわかり、すっきりとした。
「先生、ケネスさんなんですが、もうだいぶ前から体調が悪いそうなんです。家事に手が回らないようだったので、時々お見舞いがてら、お手伝いに行ってもいいですか?」
「……だめだ」
芯のある硬い声で、セオバルドはきっぱりと答えた。
まさか反対されるとは思わずに、面食らったシモンは「え……」と小さな声を漏らす。
表情を真剣に改めたセオバルドは、しっかりとシモンと視線を合わせて、丁寧に理由を説く。
「君には、君自身が言い出して請け負った日課と、受けるべき授業があるだろう。それとは別に、課題も出している。他人のことにまで時間を割く余裕はないはずだ」
「課題なら……!」
反射的に声を上げて、シモンは考えを巡らせる。
なにも毎日通うとは言っていない。
それでも許してもらえないのは、今日帰宅が遅れ、家事や授業を受けなかったことで、セオバルドの信用を失ったからだと思い至った。
「課題は、遅れないようにきちんと提出します。それに、ケネスさんの部屋もほとんど片付いたから、これから先、帰宅が遅れることはないと思います」
「だめだ」
静かだが、先程よりも強い口調で言い切ったセオバルドは、ふい、とシモンに背を向けた。
これ以上取り合わないと態度で示し、部屋から出て行こうとするセオバルドを、シモンは慌てて引き留める。
「待ってください、先生!」
焦るあまり、シモンの声が大きくなる。
妖精と関わりを持つケネスに親しみを覚えていたシモンは、彼の体調が悪いことを知っていて、このまま放っておくこともできなかった。
それに、ケネスには手伝う旨を伝えてしまっている。
「ケネスさんは、本当に身体を動かすのも辛そうなので、手を貸して差し上げたいんです! でもっ、そのことで先生に迷惑をかけることは……!」
「だめだ!!」
はたと足を止めたセオバルドが、振り向いた。同時に、有無を言わさぬ勢いでシモンの言葉を遮る。
強い憤りを宿す青い双眸が、まっすぐにシモンを捉えた。
「無暗に他人事に首を突っ込むんじゃない……!」
常にないきつい物言いでセオバルドに叱られ、その迫力に気圧されたシモンは、身を竦ませる。
驚きの表情を浮かべて硬直するシモンに、セオバルドは一瞬、はっとして息を呑む。けれど、すぐに平静を取り戻し、何事もなかったかのように部屋を出て行った。
動揺の収まらないシモンは、動くこともできずに呆然として立ち尽くす。
夜の気配に包まれ、静寂の満ち満ちたキッチンに、ちり……と微かな音がした。
金属の擦れ合う硬く鈍い音に、シモンはぎこちなく首を巡らせる。
「ケネスにも妖精にも、もう近づかないことね」
一連のやり取りを黙って眺めていたシェリーが、いつもと変わらない滑らかに透る声で、シモンに釘を刺した。




