妖精の恋人 5
「シモン、どうしたの?」
パン屋の奥さんに名前を呼ばれて、ぼんやりしていたシモンは、我に返って顔を上げた。
セオバルドに、ケネスの家へ行くことを禁じられた、数日後。
ケネスのことが気掛かりだったシモンは、気づいたらパン屋へと足を運んでいた。
パン屋の奥さんに、硬貨を差し出したところまでは、覚えているが……。
「あ、……すみません。なんでしょう?」
よく聞いていなかった。
心ここに在らずといったシモンと目を合わせ、パン屋の奥さんは悪戯っぽく笑う。
「はい! この間、パンの端切れをケネスさんに譲ってしまったでしょ? 約束通り、今日は多めに入れておいたからね」
目の前のカウンターに、どんっと置かれた手提げ袋を覗き込んだシモンは、目を瞠る。
「え? ……こんなに? いいんですか?」
いつもよりも明らかに、おまけのパンの量が多い。
口許を片手で隠したパン屋の奥さんが、主人の方をちらりと盗み見て、こそっとシモンに耳打ちをする。
「昨日のパンと、昨日と今日の切れ端。ケネスさんもそろそろ来るかと思って、切れ端をいつもよりも、少しだけ……ね、厚めに切っておいたの。でも、あの人来なかったから」
口許の手を頬に滑らせ小首を傾げると、パン屋の奥さんは、眉尻を下げて物想う顔をする。
そういえば。
パン屋の奥さんも、ケネスのことを気にかけていたのだった。
パンの入った袋に両手を伸ばし、胸に抱えたシモンは、不安に表情を陰らせ躊躇いがちに尋ねる。
「ケネスさんは、お店に来てないんですか?」
「そうねぇ。シモンとここで入違った後、一度だけ来たかしら」
「あの……、ケネスさんはその時に、具合が悪いとか言っていましたか? 何か聞いていませんか?」
シモンが身を乗り出すと、パン屋の奥さんは思い出す素振りで、視線を彷徨わせる。
「特に、何も言っていなかったかしら。まぁ、相変わらず顔色は優れなくて、具合も悪そうだったんだけれどね」
「そう、ですか」
ドアベルを鳴らしてパン屋を出たシモンは、扉から一歩離れる。
余韻を残すドアベルの音に潜み、空高いところで、ちりんと可憐な鈴の音が転がった。
耳馴れた鈴の音に、立ち止まったシモンは、空を見上げて視線を巡らせる。
――ちりん。
居場所を知らせるように、再び鳴る鈴の音。
振り返るシモンは、パン屋の扉から白い外壁へ。暖色の屋根へと視線を這わせる。
淡く明るい青の空に流れる薄雲の白に、とけこんで馴染む妖精猫の姿があった。
彼女は、パン屋の屋根にちょこんと腰を下ろしていて、胸許の銀の鈴を前足で鳴らしたようだった。
「……シェリー」
シモンと視線を交わしたシェリーは、立ち上がって一度軽く伸びをする。窓のひさしや木枠を上手く使い、建物の外壁を軽やかに駆け下りてくる。
地面に足を着いた次の瞬間、シェリーは、しなやかな動きでシモンの肩の上に飛び乗った。
くるり、と身体の向きを変えて、首を伸ばしたシェリーはシモンの瞳を覗き込む――。
「浮かない顔ね。いつもより、だいぶ早い時間にあなたが町へ出掛けたから、もしかしてって思ったんだけど。ケネスのことが気になっているのかしら? 彼の様子を見に行こうか、悩んでいるのかしら?」
――心に蟠る迷いも煩悶も、すべて見透かすように目を細めた。
すぐには答えられず、顔を俯けるシモンに、シェリーは改めてセオバルドの意思を伝えた。
「でも、セオはケネスのところへ行くなと言ったわ」
「うん……」
項垂れたシモンは、深い溜め息を漏らした。
様子を見に行くのが、駄目だというのなら……。
シモンは、足許に落とした視線を、ゆっくりとパンの入った買い物袋に移す。
「だけど、パンが……」
「パン?」
シェリーが眉間に小さな皺を寄せて訝しむ。
尋ねられたシモンは、視線を買い物袋に落としたまま、ほのかに微笑む。
「パン屋の奥さんが、ケネスさんの分も僕にくれたから。おまけしてもらった半分を、ケネスさんに届けてくるよ」
どんな理由をつけても、それがセオバルドの言い付けに背くことだと理解している。
だから、シモンが浮かべた笑みは曖昧で、どこか苦いものになった。
「あなたたち人間にとって……。助手であるあなたが、雇用主であるセオの言い付けに背くことは、彼に解雇されても仕方のない、『雇用契約違反』と同義、ではないのかしら」
面白くなさそうなシェリーの声音には、「自分はそうであるのに」といった不平の響きが込められていた。
「え……?」
「私は……」
シモンの肩を蹴って、シェリーは大通りの石畳に降り立つ。
数歩進んでから、振り返った。
「セオに訊かれたら、あなたがケネスのところへ寄ったって報告するわよ?」
「うん。……でも、先生には、帰ったらきちんと僕の口から伝えるよ」
だめだ、と繰り返し言葉を重ねたセオバルドに、隠したままではいられない。
この後ケネスに会ってみて、もしもまた彼の体調が悪いようだったら、もう一度セオバルドに掛け合ってみようとシモンは考えていた。
シェリーは、シモンと対面する形で石畳に腰を下ろす。深みのある澄んだ紫の瞳が、物静かにシモンを見つめる。
「……私、あなたのそういうところ、嫌いよ」
さらりと告げられたシェリーの声には、嫌いという言葉の割に、嫌悪の情は込められていない。むしろ、いじけて拗ねたような細い声音だった。
「えっ……」
気丈に振る舞うのがシェリーの常である。
シェリーが今にも泣きだしてしまいそうに思えて、驚いたシモンの「なんで」と訊き返す言葉が、咽で詰まった。
シェリーに歩み寄り、人通りに背を向けて。シモンは、彼女から自分が見えやすいように、暗く沈む小さな声を聞き漏らさないように屈んで、目線を近くする。
「シェリー……?」
「言い付けを守らなくても、自分はセオに捨てられないと思っているんだわ」
「……そんなことないよ」
声を潜めて囁くように、けれど嘘偽りのない透る声でシモンは言った。
ケネスを見舞いたいと申し出た時に。
セオバルドが授業や課題を引き合いに出し、そんな余裕はないと言ったのは、偏に助手としての実力が不足しているからだと、シモンは自覚している。
一度強く咎められているのだから言い付けに背けば、セオバルドの怒りを買うだろうこともわかっている。
解雇だって、十分にあり得る。
「あるのよ……!」
語気を荒げ、苛立ちをあらわにしたシェリーは、目を吊り上げシモンを睨めつける。
「だから、ケネスのところへ行くだなんて言えるの! 大体……、普段からあなたは自分が見たいところを見るばかりで、自分に向けられる他者の目や気持ちには、鈍感なんだから!」
思いのたけを吐き出すようなシェリーの声は硬く尖り、怒りが滲んだ。
眉を寄せて考え込むシモンは、答えに困り言い淀む。
「それは――」
なんのことだろう。
気づかないうちに、なにかシェリーの気持ちを踏みにじり、怒らせるようなことを言ってしまったのかもしれない。
シモンは、どう答えるべきなのかいまいち掴めないまま、シェリーの機嫌を著しく損ねてしまったことだけを把握した。
結局のところ。
シェリーが怒っている原因は、今彼女の挙げた自分の欠点によるものだろう。
わからないものに対して適当に謝るわけにもいかず、黙りこくるシモンに、「だけど」とシェリーは力なく呟く。
「最近、そんなあなたに少し慣れてしまったわ」
憂鬱に瞳を陰らせたシェリーは、瞼を伏せて視線を逸らすと、シモンに背を向ける。
「……もういいわ。ほら、とっとと行くわよ」
「行くって?」
「パンなんて理由をこじつけるくらいだもの。どうせ何を言ったって、ケネスのところへ行くつもりなんでしょう? 私はちゃんと注意をしたわ。叱られるのは、あなただけよ」
「シェリーも、一緒に行ってくれるの?」
目を瞬かせるシモンを振り返るシェリーは、すっかりいつもの調子で、つんと細い顎を上げる。
「あなたが遅くなったら、セオに報せるのは私なのよ」
細かく状況を知っていた方が伝えやすいだけ、と素っ気ない口振りで答えたシェリーは、ふい、と前を向いて歩き出した。




