妖精の恋人 3
天井に張り巡らされていた蜘蛛の巣を箒で絡めとり、壁や床、キッチンを磨き終えたシモンは、ほぅ……と大きな溜め息を吐いて、部屋を見回した。
(だいぶ、片付いたかな?)
ようやく掃除が一段落して。
普段の癖で近くの小窓に視線を投げたシモンは、沈みかけた陽光を浴びて淡い金色に染まった薄雲に、はっとして我に返る。
「今……」
何時なのだろう。
ケネスが寝入り、静かになった部屋で。夢中になって掃除をしていたシモンは、時間の経過に気づかなかった。
(どうしよう……。先生、なにか食べたかな?)
午前中に教会を出たきり、家事も、セオバルドの授業もほったらかしてしまった。
金縛りにあったように立ち竦むシモンの頭から、さぁっと血の気が引いて、額に嫌な汗が滲む。
「……見違えたよ。ありがとう」
背後から掛けられた声に驚いたシモンは、ぴくりと小さく肩を震わせた。
振り返ると、ベッドから足を降ろして立ち上がったケネスが、驚いた顔で部屋に視線を巡らせている。
「ケネスさん、もう起きて大丈夫なんですか?」
「うん、だいぶ楽になった」
にこり、とケネスは屈託なく微笑む。
まだ少しふらついているが、立てなかったさっきと比べると、幾分か良いのだろう。
「よかったです……!」
安堵したシモンの顔が、ぱぁっと明るくなる。
この様子なら、帰ることができそうだ。
「すごく、いい匂いがするんだけど」
不思議そうなケネスの視線が、シモンを飛び越えて、キッチンで湯気を立ち昇らせる小鍋へと向けられた。
ええ、とシモンは表情を和ませる。
「先程、知り合いから野菜のお裾分けを頂いたので……。掃除の合間にお鍋を借りて、リークとポテトを軟らかく煮てスープを作りました。良かったらパンと一緒に、パン粥にでもして召し上がって下さい。もし、なにか手伝いが必要だったらパン屋さんに伝えてもらえれば、伺いますから。僕は、そろそろ失礼しますね」
独り暮らしで体調が悪ければ、家事に手の回らないところもあるだろう。
手伝いを申し出たシモンに、一瞬きょとんとしたケネスは、淡く微笑む。
「いろいろとありがとう、シモン」
「いいえ」
笑みを返し、鞄を肩から下げたシモンは、自分の荷物をまとめる。
換気と掃除のために開けてあった、部屋の奥の窓を閉めようとしたシモンは、窓枠にちょこんと腰を下ろす銀色の妖精猫の姿に気づく。
紫水晶を思わせる澄んだ瞳が、静かにシモンを映している。
「……シェリー」
ふふん、と鼻で笑うシェリーは、すっと目を細めて小首を傾げる。
ぱたんぱたん、とタクトをとるように、長い銀の尾を振った。
「あら、お邪魔だったかしら、シモン。随分と戻ってくるのが遅いから、セオに様子を見てくるよう言われたのだけれど――」
キッチンに立つケネスには届かないシェリーの密やかな声は、けれど、笑みを含んでご機嫌に弾む。
「――あなたにも、身の回りを世話するようないい人がいたの……」
「シェリー!」
喜びに声を弾けさせたシモンは、祈るように両手を組み、懇願の眼差しでシェリーに縋りつく。
「良かった! ……つい、掃除に夢中になっちゃって。申し訳ないんだけど、先に帰って先生に『すぐに帰ります』って伝言をお願いできないかな?」
ケネスの家も教会も、同じくして町の端にある。
小さな町とはいえ、端から端に移動するとなると時間がかかる。連絡ができるのなら、報せは早い方がいい。
きっと、シモンが帰るよりもシェリーの方が、速い。
シモンの胸ほどの高さしかない窓辺で、澄ました顔のシェリーは、つん、と顎を上げてシモンを見下す。
「町で見つけて無事だって、とっくに報せたわよ。それが私の仕事だもの」
しゅっと背筋を伸ばして、至極当然とばかりに言い放つ。
両手を組んだまま、シモンは歓喜のあまり、うわ言のように呟く。
「神、様……!」
「妖精猫よ」
違う、と半眼の呆れ顔で返すシェリーの耳が――。
ぴくん、とそばだつ。
ちりんっ、と小気味好く銀の鈴を鳴らし、シェリーは窓辺から部屋の中へと身を躍らせる。
軽やかに床に降り立ったシェリーは、間髪を入れずにシモンの肩へと飛び上がった。
着地した姿勢のまま、わずかに首を巡らせるシェリーは、たった今腰を下ろしていた窓辺を横目に見遣る。
「お客よ」
シモンの耳許で、囁いた。
初夏の清かな微風が窓から滑り込み、同時に『何か』の気配を感じたシモンは、シェリーの視線を追う。
――窓辺から目を離したのは、ほんの刹那。
瞬時に、姿を現した『客』に、シモンは目を瞠る。
そこにいたのは、肌が透けるほどに薄い布を幾重にも重ねて纏う、若い女性。
柔らかな薄布であるが故に、女性の華奢な肩の形から丸い果実を思わせる豊かな胸も、くびれた腰のなだらかな曲線もはっきりと見て取れる。
成熟した大人の色香を放つ、魅惑的な女性だった。
けれど。
彼女から感じるのは、野辺を風と共に駆け抜けていく精霊のような、清々しさにも似た自然に近しい気配。
この気配を、シモンは知っている。
(……妖精?)
人外のもの。
宵空の濃藍を一滴落としたように青みがかる、癖のない長い銀糸の髪が、乳白色のなめらかな頬を撫で、肩口からさらさらと滑り落ちた。
妖精は瞼を薄く開き、宵闇の空を閉じ込めたかのような瞳を巡らせ、シェリーとシモンに視線を絡める。
「妖精猫と……?」
色艶美しい白肌に映える薄紅の唇から零れたのは、耳を疑うほどに甘やかで透明感のある声。
薄暮の空の、ほんの刹那を散りばめて、人を模ったように見える美麗な妖精に、シモンの目が釘付けになった。
妖精は、薄布から伸びる細くしなやかな腕を緩く組み、質量を感じさせない軽く優雅な足運びで数歩、シモンに歩み寄る。
頭ひとつほど、自分よりも身長の高い妖精に間近で立たれ、わずかにたじろいだシモンは顎を引く。
冴え冴えとした美貌に静かな笑みを湛え、妖精は少し高い位置から、目を伏せるようにしてシモンを見下ろした。
「見えるのね、珍しい子」
「……えっ」
声をかけられるとは、思っていなかった。
妖精の悠然とした態度に気圧されて、反応の遅れたシモンの代わりに、肩の上のシェリーが答える。
「この子を連れて、すぐにお暇するわ」
「そうね、そうして頂戴」
シェリーを一瞥した妖精は、まっすぐな銀糸の髪をさらりと数本靡かせ、シモンの脇を通り抜けた。
「ケネス」
耳に心地の良い妖精の可憐な声が、まろやかに、伸びやかに通る。
テーブルに目を落とし、掃除の際にシモンが拾い集めた紙の束を確認していたケネスが顔を上げて、心から嬉しそうに笑顔を弾けさせた。
「来ていたんだね……!」
妖精の声に反応したケネスに、シモンは目を瞠った。
(ケネスさん……。妖精が見えて、声も聞こえてる?)
セオバルドと自分以外に、この町で妖精の存在を認識できる人間がいたことに驚く。
目を丸くしたシモンと視線を交わしたケネスは、訝しげに小首を傾げ、不意に驚いた顔をする。
しかし、妖精がそばに寄ると、すぐに彼女に意識を向けた。
「君が、気に入ってくれるといいのだけれど」
高揚を押さえられない様子のケネスは、声を弾ませ、テーブルに着いて紙の束を広げ始めた。
「ええ」
椅子に腰かけるケネスの隣にぴたりと寄り添う妖精は、一枚の紙を手に取って、軽く瞼を落とす。
――ゆっくりと、口を開いた。
す……、と部屋の空気が引き締まった。
窓から入り込み、部屋を巡っていた風までもが、耳を澄ませるように静まる。
妖精は、紙に書き留められたものに旋律を添えて、歌うように詠み上げる。
彼女の咽から溢れるのは、美しく滑らかな音色。
旋律という彩りを添えることで、ケネスの綴る詩を邪魔することなく、情景を繊細に際立たせる。
紡がれる言葉に耳を傾けたシモンは、そぅっと瞼を閉じた。
妖精が喜びを口ずさめば、溢れ出した幸福感がシモンの身体を満たして包む。心は軽やかに躍り、自然と笑みがこぼれた。
哀しみを歌えば、シモンの胸が冷えて陰った。胸の内をしっとりと厚い雲が覆い、ぱらぱらと降る雨粒は泪となって、頬を転がり落ちる。
天の神秘に触れたのなら、瞼の裏に刻々と様相を変化させる大空が映る。夜の帳が下りたのなら、満天に散りばめられた星々が宝石のように煌めき、幾筋もの銀の軌跡を描いて流れてゆく。
木々の梢を揺らし颯爽と駆け抜ける風、柔らかであたたかな木漏れ日、せせらぎを跳ねる水珠の小さな囁き。
五感に訴えかけるように歌われるケネスの世界は、聞き入るシモンに、様々な情景を鮮明に思い描かせる。
……幼い頃からシモンがずっと見つめてきた、故郷の村の懐かしい景色と重なる。
ケネスの詩と妖精の歌声に心を掴まれて、動こうとしないシモンの肩の上で。
――ちり、ちりん。
震える星を思わせる音色で、銀の鈴が鳴った。
「帰るわよ。もう陽が沈んでしまうわ。セオが待ってる……!」
小声だが強い語調で急かすシェリーに、夢心地だったシモンの意識が、唐突に現実へと引き戻された。
(陽が、沈む……?)
我に返ったシモンは、窓の外を見遣って呆然とする。
宵を迎えた空の端は、透明な薄紅にほんのりと染まり。
妖精の瞳と同じ深い濃藍が天から降りそそいで、町全体を包み込もうとしていた。




