妖精の恋人 2
買い物袋を提げて帰路につくシモンは、大通りをまっすぐに進む。
ふと、視界の端に何かが映り込んだような気がして――。
(あれ?)
違和感を覚えたシモンは、怪訝に眉をひそめて歩みを止める。
数歩引き返し、大通りから脇へと逸れる細い路地裏を覗き込む。
細い道に沿って視線を這わせた、先。
建物の影が差す、薄暗い風景の一角。
「……えっ!?」
明るい栗色の髪が、シモンの目に飛び込んでくる。
建物に背を預け、両膝を抱えてうずくまる青年らしい人影を見つけて、シモンは大きく目を瞠った。
考えるよりも先に駆け寄り、荷物を放るようにして置いたシモンは、座り込む青年の正面に膝をつく。
「あの……っ」
シモンの声にも、青年は力なく両腕に顔を埋めて反応しない。
青年の肩に触れて、シモンは横から彼の顔を覗き込んだ。
――もしかして。
「ケネス、さん?」
思い当たる青年の名を、尋ねる口調で呼ぶ。
少しの間を置いて、青年はわずかに顔を横に傾け、気怠そうに薄らと目を開けた。
「……君は、さっきパン屋で……?」
「はい。町はずれの教会でお世話になっている、シモンといいます。具合が悪いんですね、誰か人を呼んできましょうか?」
自分よりも身体の大きな男性を、ひとりでは運べそうもない。
近くに手を貸してくれそうな人はいないだろうかと、シモンは周囲に視線を巡らせた。
「君が、あの教会の……?」
ひどく驚いた様子で、ケネスが絶句する。その表情がみるみるうちに諦念に彩られていく。
ケネスは暗く陰る瞳を伏せると、力ない声で呟く。
「そうか……、薄幸の牧師さまのように、僕ももう……長くはないんだね」
「……はい?」
ほぼ初対面、シモンの顔も知らないのに、知った口振り。
加えて不吉なことを口走るケネスに、シモンは目を丸くして、思わず訊き返した。
シモンにまじまじと凝視されたケネスが、困った顔で視線を彷徨わせる。
「その、本人を前に言い辛いんだけど……。まだ若い牧師さまが臥せってしまわれたのは、君が教会に来てからだから――」
言葉を区切ったケネスは、伏し目がちにシモンの顔色を窺い、より一層声を潜める。
「――原因? は、君かもしれない……っていう、噂?」
愕然として、シモンは薄く口を開く。
「……僕が、原因で……?」
牧師が悪霊に呪われ、臥せったとでも……?
不幸を運ぶ悪魔か、はたまた教会に居座る死神のように言われ、一瞬目が点になったシモンは、そういう類のものではないと否定するために、口角を上げて微笑んでみせる。
「ケネスさん」
動揺と、複雑に渦巻く感情を無理矢理抑え込んだがために、シモンの口許が引き攣り、抑揚のない声は不自然な棒読みとなる。
「それはただの噂で、牧師さまは薄幸ではありません。先生は、とても元気です」
決めつけるのは、良くない。それは重々承知している。
けれど、シモンは作った笑顔の下で、思わずにはいられない。
あの噂好きのお婆さんが、ケネスに体調を訪ねる時に、何かそれらしいことを囁いたのではないのか、と。
「牧師さまは、……大丈夫なの?」
「はい……!」
身体をぐっと前に出したシモンは、真剣な顔つきで力強く頷いた。
刹那。
きょとんとして、軽く目を瞬かせたケネスの表情が和らぐ。安堵の吐息が、素直な言葉と絡んで彼の唇を滑り落ちる。
「よかった……」
心底嬉しそうなケネスは、陽光を透かす淡い栗色の髪を軽やかに揺らし、幼い少年のように笑み崩れる。
年上の青年ではあるが、ケネスの無邪気な反応はなんだか可愛らしい。信じてもらえたことも相俟って、シモンもつられて頬を緩めた。
「そっか」
納得したらしいケネスは一つ頷いてから、荷物を片手に抱える。
もう一方の手を地について腰を浮かせ、立ち上がろうとするが足許がおぼつかずに、よろけた。
ひやりとして、シモンは咄嗟にケネスの腕を掴んだ。
「大丈夫ですか?」
「……ごめん。少し休んだから大丈夫だよ」
ふらつきながらも、なんとか立ち上がったケネスの顔色は、言葉とは裏腹に優れず、心許ない。
掴んだ腕を離すことができずに、シモンはケネスに肩を貸し、背を支えて寄り添う。
「ケネスさんの家は、近くですか? お送りします」
ケネスの家は、路地裏を通り抜けた町はずれにある、集合住宅の一室にあった。
「鍵は、開いているから……。こんなに何もない部屋に入る泥棒もいないし……」
自嘲気味に微苦笑するケネスが、弱々しく言った。
部屋に上がって、目前に広がるのはリビング。玄関脇には、キッチンなどの水回りが備え付けられている。リビングの先にはベッドスペースがあり、そして奥の壁には、採光のために取り付けられたのであろう大きめの窓があった。
しかし。
真っ先にシモンの目に飛び込んできたのは、間取りではなく、リビングのテーブルや、床に散乱する沢山の紙だった。
そういえば。
ケネスが歌や詩を書いているのだとパン屋の主人から聞いたことを、シモンは思い出す。
部屋を眺めまわし、入口で足を止めたシモンに、ケネスはぽつりと呟く。
「……散らかっていて、恥ずかしいよ」
「あ、いえ……。こちらこそ不躾にすみません。とりあえず、横になった方がいいですよね」
部屋の散らかり具合を気にしている場合ではない。
ケネスを支えてベッドに連れて行き寝かせるも、ぐったりとして辛そうな様子にシモンは表情を曇らせた。
「お医者さまは……」
呼ばなくていいのだろうか。
ベッドに寝かされたままの姿勢で、ケネスは小さく首を横に振った。
「診てもらったことはあるんだ。……でも、どこも悪くないから。最近ちょっと疲れやすくて。……大丈夫、少し休めばよくなるよ」
「それならいいんですが……。誰か、一緒にお住まいの方はいますか?」
家人がいるのなら、その人が帰宅してから帰ろうかとシモンは考える。だが。
「いや……。ひとりだよ」
「そう、ですか」
誰もいないのならば、せめて少し様子をみてから帰ろう。そう決めて、シモンは改めてケネスの部屋をぐるりと見回した。
(うん……?)
視覚から入ってきた情報が、うまく整理できなかった。
見間違いかもしれないと、シモンは目を擦って……。
大きく見開いた目で、もう一度しっかりと部屋を見回す。
部屋全体が灰色に霞がかるのは、埃の精……?
いや、違う。
至る所に張り巡らされた蜘蛛の巣と、ふわふわと積もる埃のせい。
天井から無数に垂れ下がっているのは、逆さまに生えた灰色の細いキノコ……、ではなく。
――蜘蛛の糸と、塊。
微かな風にそよぎ、ゆらゆらと不気味に揺れるそれらは、ぽかんと開いたシモンの口に落ちてきそうだった。
ぱちくり、と一度目を瞬かせたシモンは、思わず口を引き結ぶ。見てはいけないものを見てしまった気分になり、天井から視線を急降下させて、床へ。
足の踏み場もなく落ちているケネスの衣類やゴミ、白い紙に紛れて、点々と落ちている黒く小さな塊は、シモンの嫌いな異界から滲み出た黒い影や、靄の欠片のようなもの――。
(え……?)
――ではない。
普通の人にも可視できるものであり、忌み嫌われるであろう虫の死体、多種。
年季の入ったものなのか、足や羽が外れ、ほろりと胴体が崩れているものもある。
(ひぃぃぃっ……!)
ぱっ、と口許を両手で覆ったシモンは、悲鳴が零れないよう噛み殺す。
ぞわぞわと冷たいものが背筋を這い、身を竦ませたシモンは、声を出さずに「大っ……変……!」と唇だけを小さく動かす。
シモンの脳裏に、噂好きのお婆さんの顔が浮かび、『あの子はね、半年くらい前から急に白い顔を……』と、話しかけてくる。同じフレーズが何度も反芻されて、耳の奥でがんがんと反響する。
きっと、半年程は碌に掃除ができなかったに違いない。
いや、もしかしたらもっと以前から……。
失礼だろうか。迷惑かもしれない――。そんな思いがぐるぐると巡り、シモンは遠慮がちに切り出す。
「あの、ケネスさん」
「うん?」
呼びかけに答えたケネスに、シモンは、彼が嫌そうな素振りを見せたらすぐにでも撤回するつもりで、控えめにお願いをする。
「……すみません。差し出がましいとは思うんですが、……ちょっとだけ掃除を……、させてもらってもいいですか?」
えっ、と目を瞠ったケネスは、困ったような申し訳なさそうな顔をした。
「あー……、やっぱり汚いよね。その、つい後回しにしていたら、こんなになっちゃって……」
歯切れ悪く言い淀み、はにかんだケネスの青白い頬にほんのりと朱が差す。
「ずっと掃除をしていなかったから、僕は凄く助かるけど……、いいの?」
「はい、もちろんです」
どのみち、少し様子をみてから帰ろうと思っていたのだ。
ケネスの了承が得られたシモンは、ほっと胸を撫で下ろす。
「ありがとう、シモン。あ……っ、ごめん! 床に落ちている紙なんだけど、文字の書いてあるものは捨てないでくれるかな? 紙に走り書きしてあるものは、まだノートにもまとめていないから……」
はっとして慌てたケネスがベッドから上体を起こそうとするのを、シモンは満面に笑みを浮かべて押しとどめる。
「わかりました。床の紙は、まとめてテーブルに乗せておきますね。ケネスさんは、休んでいてください」
ケネスに背を向けて立ち上がったシモンは、きりっと表情を引き締める。
窓を全開にして空気を入れ替えると、そこから部屋の全体を見据えて把握し、掃除の段取りをつける。
心を無にして、淡々と掃除に取り掛かった――。




