夏の始まり 4
ウィリアムの敷地である広大な牧草地は、山羊たちが草を毟り食んでいるために、草丈が短くて走りやすい。
シモンは息を切らして走り、牧草地を突っ切った。
ウィリアムの牧場からやってきた小妖精たちは、山羊のミルクと妖精猫を歌っていた。
きっと。
パティのいる家畜小屋を見回りに行くのだと言っていたシェリーは、そこで小妖精たちと鉢合わせたに違いない。
(家畜小屋は……!)
以前、山羊のミルクを買うために農場へ足を運んだシモンは、ウィリアムに家畜小屋へと案内され、パティを紹介されている。
記憶を頼りに、シモンはカンテラを翳して家畜小屋を探す。
確かこの辺りのはず……、と首を巡らせたシモンの双眸が見開かれる。
「……あれだ」
山羊たちの家畜小屋が、星明かりを浴びて、ぼんやりと浮かび上がった。
家畜小屋の周りは静まり返っていて、人や妖精の気配はない。
シモンは戸口に近づいて、音を立てないように注意深く扉を開ける。星明かりから隔絶された真っ暗な家畜小屋へ、カンテラを滑り込ませて中を照らす。
屋内は広々として、床には藁が敷き詰められている。
近くにいた一頭の山羊が、灯りを携えるシモンに気づいて顔を向け、――目が合う。
「…………」
「……お邪魔します」
山羊たちは立ったまま、あるいは横たわり、思い思いに休んでいる。
休んでいる山羊たちが眩しくないように、彼らの瞳に直接光が射しこまないように注意して、シモンはカンテラを高く掲げる。
さっと、周囲に目を配る。
「シェリー?」
できる限り声を潜め、銀色の妖精猫の名を呼ぶ。
きょろきょろとシェリーを探すシモンは、家畜小屋の奥へ。注意深く足を進める。
目を皿のようにして、隅々まで見渡した。
「シェリー……、いる?」
耳を澄ませてみるが、シェリーの答える声も、鈴の音色も聞こえない。
シモンは屈んで、林のように立ち並ぶ山羊たちの足の間に視線を彷徨わせる。次いで、横になって休んでいる山羊たちの背の間に目を留めた。
(……あ!)
華奢で滑らかな曲線を描く、背の輪郭。
くったりとして動かない小さな銀色の塊を認めて、ぎくりとする。
薄暗がりに包まれていても、わかる。
シモンの脳内で、シェリーの鮮やかな美しい銀色の被毛と、ぴたりと一致する。
胸がざわざわし、呼吸が閊える。
力が抜けて転びそうになりながら駆け寄り、崩れるようにして傍らに膝をついた。
目を閉じて弛緩した小さな身体に、シモンは怖くて触れることができない。
「シェリー……!」
悲鳴にも似た音にならない悲壮な声が、シモンの咽から洩れた。
――薄らと。
閉じられていたシェリーの瞼が開いた。
むくれたシェリーはシモンと目を合わせず、放っておいて欲しいと言わんばかりの口調で言った。
「小妖精が山羊のミルクを盗もうとしたから、ひとりを上から押さえつけてやったのよ。そうしたら別の奴に背中を抓られて、痺れてしまったの」
不覚だったわ、とシェリーは悔しそうに独りごちる。
前のめりになって、シモンはシェリーの顔を覗き込む。
「シェリー、怪我は!?」
「……抓られて、痺れているだけよ」
覗き込まれたシェリーは、ばつが悪そうに、ふいと視線を逸らす。
ひたすらに不機嫌だが、思ったよりもしっかりと受け答えするシェリーに、シモンはひとまず胸を撫でおろした。
「妖精猫のシェリーでも、彼らを怒らせては駄目なんだね」
妖精は怒らせると、抓ったり刺したりして相手を痺れさせることがある。
ミルクを盗るのを邪魔した妖精猫も、例外ではなかったようだ。
「背中、痛む……?」
シェリーを掬い上げて膝に乗せ、彼女の身体に付いた細かな藁を撫でて落とし、背中にそっと手を当てる。
まだ治癒の術を使うことのできないシモンに、シェリーを癒すことはできない。
己が未熟であることを、シモンは申し訳なく思う。
「どうしてあなたがここへ来たの?」
素っ気ない物言いのシェリーだが、膝から降ろせとも、背に触るなとも言わない。拒絶されなかったことが嬉しくて、シモンは声音を柔らかくした。
「小妖精たちが、妖精猫を抓ったとか打ったって歌を歌っていたから吃驚して。あと、仲間を連れてミルクを盗みにやって来るって……」
弾かれたようにシモンを振り仰いだシェリーは、ぎょっとして紫の瞳を真ん丸にした。
「セオは!?」
「え? えぇ……、と。先生は森へ入って別行動だったから」
「あなた、セオに黙ってきたの!?」
「……うん」
口調、態度、表情全部で咎められ、シモンは急に後ろめたくなる。
シモンが口をつぐむと、シェリーは渋い顔をして小さな溜め息を吐いた。
「最初にミルクを盗もうとした小妖精は数人だったけれど……。それ以上の人数で来られたらどうしようもないわ。あなたはセオの所へ戻りなさい」
「シェリーは?」
「……私を抓った小妖精と、尾の付け根を打った小妖精を引っ掻いてやるわ」
澄ました顔で、つんとシェリーは顎を上げた。
ここに残るつもりでいるシェリーに、シモンは慌てる。
「無理だよ……!」
痺れて思うようにならない身体で、すばしこい小妖精を引っ掻くなんて、できるはずがない。それに、そんな真似をしようものなら、今以上に酷い目に遭うだろう。
「駄目だよ。酷い目に遭うことがわかっているのに、置いていけないよ。シェリーは大事な同志で友達だから」
それに、山羊たちのミルクが盗まれるのを、放っておくこともできない。
シェリーの背を撫でながら、シモンは、どうにかならないかと山羊たちを見回した。
驚いたようにシモンを凝視したシェリーは、すぐに我に返る。
「いいから! 小妖精たちが戻ってくる前に、人間のあなたは早く小屋を出て……!」
シモンを軽く睨めつけて、急かす。
妖精猫のシェリーであればともかく。
人間に姿を見られることをひどく嫌う小妖精たちは、シモンと家畜小屋で鉢合わせでもしたら、間違いなく逃げ出すだろう。だが、人間に姿を見られ、家畜小屋に出入りしていることを知られたとあれば、小妖精たちは二度とウィリアムの農場へは来なくなる。
それは、普段この家畜小屋で手伝いをしてくれる小妖精も同様に――、だ。
自然に近い存在である小妖精たちが行き来する牧草地だからこそ、美味しく健やかな草が育ち、それを食べる山羊たちのミルクが美味しいのかもしれない。
だから。
シモンは、小妖精たちに姿を見られるわけにはいかない。
「山羊たちに結界を張ってから、僕が物陰に隠れたら……」
「この数の山羊、一頭一頭に? それとも、この家畜小屋すべてを覆うほど大きな結界を? どちらにしても、力不足ではないの?」
わたわたとして当てずっぽうな提案をするシモンに、眉間に皺を寄せたシェリーは冷徹に言った。
「なんにしても、シェリーは一度、外に……」
「待って!」
家畜小屋から出ようと言いかけたシモンを、シェリーは鋭い声音で遮る。
黙ったシモンの膝の上で、ぴくん、とシェリーの耳が動いた。
「……戻ってきた。小妖精たちだわ」
「えっ!?」
ぴくぴくと耳を動かして、シェリーは目付きを険しくさせる。
「数が、ものすごく多い。家畜小屋の周りを囲っている。まったく……、ここにいる山羊のミルクを搾りつくす気かしら。とにかく、あなたはすぐに隠れて!」
姿を隠せる場所を探してきょろきょろするシモンは、家畜小屋の隅に、積み重ねられた藁と鍬などの農具が立てかけてあるのを見つける。シェリーに知らせようとして、ふと、腕から提げていた籠に目を留めた。
夜露に濡れる瑞々しい花が、たっぷりと手許にあった。
「あ、花を……、摘んだ花を家畜小屋に散らして飾ったらどうかな!?」
元々、家畜の無事を願い、厄を祓うために摘んできた花だ。
もしかしたら、ミルクを盗もうとする小妖精たちが嫌がるかもしれない。
シェリーは何か思案するように、不安気に首を傾げる。
「そもそも花は……、それに」
「時間がないから、シェリーは少しだけ待っていて! 花を散らしたらすぐに隠れるから」
言うが早いか、シモンはシェリーを下ろし、籠を掴んで勢いよく立ち上がる。
なにもできないよりは試してみようと、くるりとシェリーに背を向けた。
シモンは大急ぎで、家畜小屋の入口から摘んできた花を掴み、山羊たちの近くに撒いて散らす。
花を撒き終えて戻ったシモンはシェリーを抱き上げて、積み重ねてある藁の裏に身を隠す。
腕に抱えたシェリーが首を伸ばし、苦虫を噛み潰したような顔をした。
「やっぱり……。ねぇ、みてごらんなさい」
溜め息にも似た落胆の滲む声に促され、シモンは山羊たちの様子を窺い、ぎょっとする。
「えぇ……っ!?」
「静かに」
ぷに、とシェリーの柔らかな肉球が、下からシモンの唇を押し上げる。
(えぇぇぇっ!?)
甘い香りを放つ花に、休んでいた山羊たちは鼻をひくひくとさせて、首を揺り動かす。立ち上がって尾を振り、シモンの撒いた花を手当たり次第食べ始めた。
シェリーは、すぅっと目を細める。
「……山羊のミルクから季節の花の香りがするって、言わなかったかしら」
「ぜ、全部食べちゃった……!?」
あっという間に花を平らげた山羊たちは、まだ鼻をひくつかせて、花を探している。
「花はもうないの!? 山羊たちが花を探している今なら、一か所に集められるでしょう? 山羊たちを囲って結界を張れない?」
唖然とするシモンと、捲し立てるシェリーは、ほぼ同時に籠の中を眺め下ろした。
――しかし。
シモンの腕に提げられた籠には、一輪の花も残っていない。
惜しげもなく花を撒き切ったシモンは呆然として、シェリーと顔を合わせる。
「ごめん……」
「もうっ――!」
憤慨や不満の感情をぎゅっと詰め込んで吐き捨てたシェリーが、ぴたりと身体を固まらせた。
直後、家畜小屋の戸口を見遣る。
「……来たわ!」
息を潜めた。
するり。
するっ、……するり。
戸口や窓、屋根の隙間から、小さな妖精たちがひょこひょこと姿を現す。
絹の擦れるような音を立てて、くるりと軽やかにステップを踏む。
「山羊だ、山羊だ」
「ミルクの匂い」
「ミルクを搾って運び出せ」
「不思議の夜が去る前に」
「朝陽が顔を出す前に」
陽気に歌を口ずさみ、小躍りする小妖精たちは、ひとり、またひとりと家畜小屋に入ってくる。
内側から扉が細く開けられ、そこからおびただしい数の小妖精たちがなだれ込んだ。
搾ったミルクを運ぶための物か、小さな壺を頭上に掲げた者もいる。
広々とした家畜小屋は、数百、数千といった小妖精たちで、埋め尽くされてしまいそうだった。
堰を切った水のようなすさまじい勢いに、物陰から覗いていたシモンは目を瞬かせる。
(凄い数……!)
「まるで虫ね……。蟻の大群を見ているようだわ」
同じく物陰から首を伸ばして小妖精たちを窺うシェリーが、忌々しげに呟く。
小妖精たちが手際よくミルクを搾り出すと、シェリーが腕の中で身を捩った。腕から抜け出そうとするシェリーをシモンは慌てて抱きなおす。
「離しなさいよ! あの中にパティも……」
痺れた身体で弱々しくもがくシェリーを抱きすくめ、シモンはぶんぶんと首を横に振った。
小妖精たちが一斉に襲い掛かれば、小さなシェリーはあっという間に埋もれて身動きが取れなくなってしまう。シェリーを行かせるわけにはいかない。
「山羊たちのミルクが搾りつくされちゃうわ!」
――わかっている。だが。
小妖精たちに人間の姿を見せて驚かせ、立ち退かせることは、後々のことを考えると打つべきではない悪手である。
(小妖精たちに、帰ってもらうには……)
緊張の表情を浮かべたシモンは、シェリーを一度見つめて息を吸い込む。
ほんのわずかな間躊躇い、天井を仰ぐことで喉を反らしたシモンの口から、小さな声が漏れた。
「こ……っ」
「こ……?」
シェリーが怪訝そうに小首を傾げて、シモンを見上げた。




