夏の始まり 5
「コ……ッ」
唇を尖らせ喉を反らせたシモンは、家畜小屋の天井に向けて、声高く叫ぶ。
「コケコッコ――ッ!!」
――朝です。
ぴた……っ。
山羊のミルクを搾り取っていた、千を越える小妖精たちの動きが一斉に止まった。小妖精たちの視線のすべてが、シェリーとシモンの隠れる藁の山へと注がれる。
隠れていても感じる、突き刺さるような視線にシモンは、うっ……、と息を詰まらせる。
(怖ぁ……)
突然、甲高い声で鶏の鳴き声を真似たシモンに、シェリーは目をまんまるにする。
シモンの耳許に口を寄せて、空気の漏れるような声で囁く。
「……正気?」
こく、とシモンは小さく頷いて応える。
妖精は、夜を好む。
だから彼らは、朝の訪れを報せる鶏の鳴き声を嫌うのだと、幼い頃に祖母から聞いたことがあった。
「鶏が鳴いたら、もう朝でしょ?」
シモンは、しっかりと抱えたシェリーの首筋に頬を当てて、彼女の胸許に囁き返す。
夜が明けると勘違いしてくれたら、小妖精たちは家畜小屋から出て行ってくれるかもしれない。
シモンは祈る気持ちで、じっと身を固くする。
だがしかし。
外は深い闇に閉ざされて、夜明けの気配は微塵もない。
小妖精たちの、戸惑いざわつく声が聞こえる。
「やあ、もう一番鶏が鳴いた」
「けれども、外はまだ暗い」
「夜が白む前に」
「朝が訪れる前に」
それ、もう一搾り。
夜目の利くシェリーは物陰から首を伸ばし、小妖精たちの様子を窺う。
「一段と速くなったわ」
作業が、とシェリー。
「……っ!?」
口許を押さえたシモンの手の中から、声にならない悲鳴が漏れた。
(まさかのペースアップ!?)
予想外の展開に、シモンの思考が停止する。
「……なんて浅ましいのかしら」
ものすごい勢いでミルクを搾っていく小妖精たちに、シェリーは苛立ちを隠さない。
「ちょっと! もう一声、それっぽく鳴いてみなさいよ……!」
「えぇ!?」
シェリーにせっつかれて、シモンは動揺する。
小妖精たちが逃げ出さなかったことで、鶏の真似は失敗に終わっている。
ミルクを搾ることに夢中になっている小妖精たちも、二度目は、隠れている藁の裏側まで様子を見に来るかもしれない――。
シモンが煩悶の表情を浮かべた、その時。
家畜小屋の外。少し遠くの方から、明るく朗々とした声が響いた。
「もう夜が明ける。祭りが始まる。さあ、夜露に濡れたサンザシを戸口に飾ろうぞ」
幼さを残す、変声したばかりの少年の声が、戸口の隙間から漏れ聞こえる。
人の気配を感じた小妖精たちが一斉に息を呑み、ぴりっと緊張が走った。
冷たく凍りついた空気の中、まるで屋根を打つ雨のように小妖精たちの小さな足音が、ざぁ……と立つ。
小妖精たちは、潮が引くような勢いで、家畜小屋の隙間や、細く開いた戸口から外へと出て行く。
やがて、家畜小屋にいた小妖精たちは、唯のひとりもいなくなった。
――それを見計らうように間を置いて。
きいぃ、と細い音を立てて、家畜小屋の扉が開かれた。
「シモン、……迎えに来た」
穏やかな声音に誘われ、シモンは物陰から顔を覗かせ、そぅっとカンテラを翳してみる。
家畜小屋の入口に少年の人影を認めたシモンの身体を、安堵が包み込む。
意図せずに吐息が漏れて、緊張が緩んだ。
「……はい!」
カンテラを提げて、片腕にシェリーを抱えたシモンが、物陰から出た。大人しい山羊たちの合間を縫い、とんとんっと軽快にセオバルドの許へと駆け寄り、詫びる。
「勝手にいなくなって、すみません」
「ああ」
セオバルドは相槌を打って、シモンの胸に抱かれたシェリーに視線を滑らせる。
「用事を済ませて森から戻ったら、君の姿が無くて驚いたが……。森から出てきた沢山の小妖精が、妖精猫と山羊のミルクを歌いながら、同じ方角へと向かうのが見えてね。……きっと君も歌を聞いたんだろうと、すぐに見当がついて、小妖精たちを追ったんだ」
シェリーの背に片手を翳して、セオバルドは治癒の術を施す。
癒され、痺れのとれたらしいシェリーはシモンの腕から抜け出して、とんっ、と地に滑り下りた。
ぽそっと短く呟かれた「ありがとう」と、ちりんと弾む澄んだ鈴の音が、重なる。
軽く身体を伸ばしたシェリーは、何事もなかったかのような顔をして、セオバルドとシモンを振り返る。
「……私は、することがあるから、行くわ」
「シェリー、もしかして……」
不安が胸を過り、シモンは表情を曇らせた。
恐るおそる、訊く。
「小妖精を追いかけて、仕返し……」
「しないわ」
澄ました顔、感情のこもらない声音でシェリーはぴしゃりと言う。
ふい、と顏を背けて、軽やかに鈴を鳴らしながら、シェリーは小走りで戸口の隙間から外へ出て行った。
セオバルドが目を細めて、くすりと笑みを零す。
「さっき鳴いた一番鶏は、君か」
――ばれている。
言い当てられ、シモンは軽く俯いて目を伏せる。気恥ずかしさから、かぁっと頬が熱くなった。
「……はい。似てなかったですよね……?」
「上手かったよ」
あまりに上手くて、気づいた時には笑いを堪えるのが大変だったと、セオバルドはくすくすと笑った。
笑われるほど、可笑しかったのだろうか。
身動きの取れない状況下で、いっぱいいっぱいだったシモンは、小さく唇を尖らせる。
「他に思いつかなかったんです……! 僕は、先生みたいに色々できませんから」
「いや? あれで良かったよ。君が鶏の鳴き声を真似たから、小妖精たちは私の言葉を自然に受け入れて森へ帰ったのだから」
目を逸らし拗ねてみせるシモンに、セオバルドはおっとりと気遣う口調で言う。
家畜小屋の中で鶏の鳴き真似をしたシモンに気づいたセオバルドは、おおよその状況を把握して、外から声掛けをすることで小妖精たちを森へと帰したのだ。
小妖精たちは、家畜小屋にいるところを見られたわけではないのだから、またウィリアムの農場へとやってくるはずだ。
良かったはずなのに、笑われたことがなんだか腑に落ちない。
ちらり、とシモンは上目遣いでセオバルドの顔色を窺う。
「本当ですか?」
「ああ。だから、今度君がここへミルクを買いに来る時。農場主に小妖精たちのために戸口の外へ多めにミルクを置くように伝えるといい」
「はい」
わかりました、と答えてから、どうも釈然としないシモンはセオバルドに尋ねる。
「あの、先生が僕の立場だったら、鶏の真似、……しましたか?」
シモンと同じ目線で、涼やかな青い瞳に柔らかな光を湛えたセオバルドは、冴え冴えとした微笑を浮かべる。
「……さぁ? どうだろう」
柔和な声音で韜晦し、はぐらかす。
あどけなさを残した少年の顔で、大人びた笑みを向けられたシモンは、思わずどきりとする。
なんとなく落ち着かなくなり、シモンは話題を逸らした。
「そういえば、先生は何をしに森へ入ったんですか?」
用事は済んだのだろうかと慮るシモンを、セオバルドは戸口の外へ招く。
戸口の脇には、森に入る前にセオバルドの抱えていたサンザシと、もう一束。――白く可憐な小花がたわわに咲く小枝が、細い紐で結わえられ、立て掛けられていた。
わぁ、とシモンは目を大きく見開く。
「サンザシの花束ですか? 綺麗ですね! すごい。……満開」
「駒鳥が、この辺りで一番に咲いたサンザシの花を歌っていたから」
陽当たりが良かったんだろう――。
そう言ってセオバルドは、夜の藍に染まる雪のような白花に目を落とす。
ふわ……、と長い睫毛が掛かり、サンザシの花を見つめる青い瞳が物憂げに陰った。
「……これは、シモン。君に」
妖精の住んでいない枝を、然るべき手順を踏んで取ったものだから、と。花の付いたサンザシの束をシモンへと差し出す。
――サンザシの花の甘い香りが、冷たい夜気にとけこみ、静かに馴染んでいく。
シモンは驚きの表情で、サンザシの花束をおずおずと受け取り、腕に抱く。
「このために、森に……?」
「君は、花が好きだろう?」
しっとりと穏やかなセオバルドの声音は、優しさを含み、甘い花の香と絡む。
(花……?)
思い当たるのは、孤児院でセオバルドと同室になった時に、薔薇の花を咲かせたこと。
口に出した覚えもない、些細な好みだった。
それをセオバルドが心に留めていたことに吃驚して、シモンは目を瞬かせる。
改めて目を落とし、枝を覆うほどに霞みがかるサンザシの白い小花に見惚れたシモンは、ふと気づく。
(あ、……棘が)
サンザシの枝には、鋭い棘がある。
サンザシを戸口に飾るのは、棘に宿る魔力が、病魔や悪いものを家の中に入れないという謂れがあるからだ。
渡された花束は、糸で括られた持ち手にあたる部分のみ、棘が根元から丁寧に折られている。
そんな細やかな気遣いをされたことも嬉しくて、シモンの顔が、ぱぁっと明るく華やいだ。
「……サンザシは、家の内に持ち込むと妖精たちの機嫌を損ねてしまうから、君のよく出入りする裏の扉に提げるといい」
ふわり、と花の香りが立ち、シモンの鼻孔をくすぐる。
暖かな季節への移り変わりを報せる白い花束を手に、幸せな心地になる。
「ありがとうございます」
気持ちの和らいだシモンは、にっこりと微笑んだ。




