夏の始まり 3
春の風は柔らかに、清涼な夜の空気と若い草の香りをかきまぜる。
月はなくとも、満天にちりばめられ輝く星々は、闇の彩さえ和らげる。
いまにも降りだしそうな、綺麗な星月夜だった。
ほのかな星明かりを浴びて町の外へと足を運べば、足許に絡む若草は冷ややかな夜露を纏い、靴やズボンの裾をしっとりと湿らせる。
――遠く。ぽつりぽつりと小さな朱色の灯りが揺らめいている。同じように籠を携え、花草を摘みに出かける町の人たちの、カンテラの灯りだ。
祭りの前夜、活動的なのは人だけではない。
飛び跳ねる妖精たちの影が、そこかしこにひょこひょこと見え隠れしている。木々の梢を跳ね回り、草の間を駆け抜けていく掌ほどの小さな小妖精たち。シモンの腰辺りまで身長のありそうな妖精が、木の幹の間をすり抜けていく。彼らの数は多く、暦の移り変わる特別な夜にはしゃいでいるようだった。
シモンの一歩前を行くセオバルドが、はたと足を止めた。
す……、と手を上げて、シモンがそれよりも前に出ないよう制する。
きょとんとして、シモンは小首を傾げる。
「……先生?」
振り返ったセオバルドは、もう一方の手の人差し指を唇に当てて、『静かに』と示す。シモンに目配せをする。
セオバルドの、視線の先。
がさがさと騒がしく葉擦れの音を立てて、草叢を掻き分け、近づいてくるものがあった。
前を横切ろうとする小さな妖精たちに、セオバルドは、そっと道を譲る。
蠢く草叢が遠ざかっていくと、セオバルドはシモンに注意を促す。
「普段大人しい小妖精たちも、今夜は興奮状態にあるから刺激してはならないよ。彼らを怒らせないように……」
良い妖精はもちろん、悪い妖精とも上手に付き合っていくためには、自然に近い存在である彼らを尊重して、怒らせないこと。
声を潜めるセオバルドと目を合わせ、シモンは静かに頷いて応えた。
森に近づくと、人の持つカンテラの灯りは次第に減っていき、妖精たちの気配が色濃くなる。
すれ違う風が運ぶのは、木々を打ち鳴らす軽快なリズムと、草笛の澄んだ音色が奏でる滑らかなメロディ。そして、陽気に弾む歌声。
聞き惚れて歩調を緩めたシモンの手首を、セオバルドが掴んだ。
「シモン」
こっちへ、と。
歩いていた径を逸れて、セオバルドは一本の木の幹の裏へとシモンを引き入れ、隠れた。
――直後。
近くの木の根元、羊歯の茂みが激しく揺れ動く。
羊歯の葉の裏から次々に飛び出すのは、若草色をした小妖精たちだ。彼らと鉢合わせしないように、シモンはセオバルドと身を隠してやり過ごす。
「念のために言っておくが」
小妖精たちが駆けていく後姿を見送りながら、セオバルドはシモンの耳許でこっそりと囁く。
「今夜に限らず、月明りの草原などでは、あちらこちらで妖精が群れを成して、歌を歌い踊っているから、不思議な音楽が聞こえても近づかないように。そして、もし彼らに誘われても妖精の輪に入ってはならないよ。輪は、異界への扉となり得るものだから、一歩足を踏み入れれば、妖精界へと連れていかれてしまうからね」
妖精たちの楽しげな音楽に耳を傾けていたシモンは、どきりとする。
「はい」
頷いて、セオバルドは話を継ぐ。
「これからサンザシを取りに行くけれど、……今夜は特別な夜だ。決してサンザシの茂みの前に留まってはならないよ」
「それは……、茂みの奥深くが妖精の世界へと続くものだからですか?」
尋ねるシモンに、セオバルドは目を伏せることで、頷く。
「妖精はサンザシを好んでその茂みを通り道として使う。今夜は世界を隔てる帳が、特に曖昧だから……」
サンザシの茂みを通り道とする妖精が悪戯に、人間を妖精の世界へと攫ってしまうのだ。
囁き合うふたりの頭上、木の梢を風が清かにすり抜けていく。
風に揺らされた若葉のやわらかな葉擦れの音と共に、何処からともなく甘い花の香りが舞い、降ってくる。
花の香の置き土産をもたらした風は一息の間に流れ去り、遥か遠くの木々を騒めかせている。
ピロロロロロ……。
空高く響き渡る、駒鳥の愛らしい鳴き声に、隣に立つセオバルドは顔を上げて耳を傾けた。
「風に揺れる春の花を歌っている」
こっちだ、とセオバルドは歩き始めた。
時折、茂みから飛び出してくる妖精たちは、歌を歌い、踊り、輪を描きながら転がるように駆けていく。
そんな妖精たちの気配をいち早く察すると、セオバルドはシモンの手を引き、さっと身を隠す。
独りでは心許ないが、セオバルドがそばで誘導してくれる安心感から、シモンはだんだんと楽しくなり、くすりと笑い声を漏らした。
セオバルドが振り返り、不思議そうな顔をする。
「どうした?」
満面に笑みを浮かべるシモンは、カンテラを持っていない方の手で口許を押さえ、内緒話をするようにセオバルドの耳許に顔を寄せる。
妖精たちから身を隠して、声を潜めて囁き合う。
これでは、まるで。
「……『かくれんぼ』、しているみたいですね」
言葉にするとますます可笑しくなって、くすくすと笑う。
「かくれんぼ……?」
少し驚いたように目を瞠ったセオバルドは、木の幹の向こうの様子をそっと窺う。身を隠している自分たちの状況を改めて確認し「なるほど」と頷いて、表情をやわらげた。
お祭り騒ぎの妖精たちを上手く避けて、森に沿って歩くと、緩やかに傾斜のついた草原がシモンの目前に広がった。
珠を結んだ小さな花の蕾、ふわりと綻びかけた春の花があちらこちらにあった。どこからともなく甘やかな芳香が漂う。
シモンは朝に咲きそうな、夜露にしっとり濡れた花を選んで花茎を根元から手折る。それらを丁寧に籠に入れていく。
セオバルドは数歩離れたところで屈み、足許の一点をじっと見つめている。
「シモン、おいで」
シモンが傍らに屈むと、セオバルドはカンテラを受け取り自身の背中に置いて、灯りを遠ざけた。
「みてごらん」
そう言って、セオバルドは足許の野草を指差す。
背後から零れるカンテラの灯りに、ほのかに浮かび上がるのは、いくつかの膨らんだ蕾を持つプリムローズだ。
プリムローズなら、他にも咲いている花があちこちにある。
他のものとの違いを見出せず、目を瞬かせるシモンに、セオバルドは悪戯っぽく笑う。
「少しでいい。この花に魔力を注いでごらん」
「はい」
セオバルドが指し示す小さな一つの蕾に、そっと指先を触れさせ、シモンは魔力を注ぐ。
蕾がまろやかに膨らみ、陽だまりを思わせる淡い黄色の花弁が、緩んでいく。
ふんわりと花開き、ほのかに甘く香る。
「……あれ? えっ?」
開いた花弁の中に、もう一つ。小さなまぁるい黄色の蕾。
するすると珠がほどけて、夜を透かす透明な薄翅が、ぴん、と伸びた。プリムローズの花弁を重ねて衣服として纏う小さな小さな妖精が、たった今眠りから覚めたように欠伸をして、目を擦る。
妖精は、隣の蕾にちょこんとついた水珠を両手で掬い、顔を洗ってぱちぱちと目を瞬かせた。
背中の翅を震わせて、とん、と花を蹴って宙を舞う。
プリムローズから、プリムローズへ――。
夜露の珠を地面に降らせながら、蝶のように渡り歩く微小な妖精に、シモンは目を輝かせて感嘆の溜め息を洩らす。
「種の姿で冬を越していた妖精が、開花と共に目を覚ましたんだ」
自然に隠れている可愛らしいものを、さっと見つけ出してしまうセオバルドに、シモンは憧憬の念を抱く。
わくわくしながら、シモンはセオバルドの顔を覗き込んだ。
「先生は、どうしてこの花に妖精がいることがわかったんですか?」
何か特別に見分けるコツや、秘密があるのなら教えて欲しい。
ああ、と相槌を打ち、セオバルドは平然と言ってのける。
「妖精の眠る花蕾からは、微かに魔力の波動が感じられるからね」
ぎこちなく笑顔を軋ませるシモンの脳裏に――。
儚い蜘蛛の糸が一本、風に流され宙を漂うイメージが湧く。
「……へぇ……」
思ったよりもずっと、高度な技だった。
それはシモンにとって、土の中で冬眠する蛙の心音を探し当てるのに等しく、草原の中から瞬時に四つ葉のクローバーを見分けるのと同等に困難なこと。
言葉に詰まり固まったシモンに、セオバルドは淡く微笑む。
「次に見つけたら、教えるよ」
聞き慣れないはずの少年の声音は、笑みを含んで柔らかい。
少年姿のセオバルドに既視感ともとれる親しみを覚えるのは、肩を並べ楽しい時間を一緒に過ごしたからだろうか。
黙ってじっと見つめるシモンに、セオバルドは小首を傾げる。
「うん?」
「あ、えぇ……と」
少しだけ迷って、シモンは、はにかんで目を伏せる。
「なんだろう? 先生とこんなふうに過ごすのは初めてなのに。僕は、この時間を知っているような気がして……」
そんな錯覚に陥るのは、きっと。
人ならざるものの多かった故郷の村を、無意識に重ねてしまったからに違いない。
――それに、今宵は特別な夜。
大気にとけた不思議の力に当てられて、気分が高揚しているのかもしれない。
「すみません、なんでもないです」
うまく説明できずに微苦笑したシモンは、星々のひしめく明るい夜空を仰いだ。
草原と森の境で花を摘み続け、いつしか籠には、活けられたかのように春の花が咲き乱れる。
たっぷりの花に満足して、シモンは頬を緩めた。
「先生、そろそろ籠が一杯です」
「ああ。扉に提げて飾るには、充分な量だな」
セオバルドは、数本のサンザシを腕に抱え上げた。
サンザシは勢いよく若葉が芽吹いているが、枝先についている小さな蕾は緑色をして、硬く結ばれている。
――サンザシが花を咲かせるのには、まだ、ほんのわずかに時期が早い。
帰路につくべく、踵を返すふたりの頭上で響いた、ひときわ高い駒鳥の歌。
耳に心地よい澄んだ声に、シモンは足を止めて耳を傾けた。
隣で、はたと足を止めたセオバルドも、声に誘われるように森の奥を見遣り、物思う顔をする。
「先生?」
「シモン、少しの間ここで待っていてくれないか。そんなに時間をかけないで、戻って来られると思う」
「わかりました。でも、どこへ?」
駒鳥の声に、何か気になることでもあったのだろうか。
すぐ近くであれば、一緒についていく心づもりで尋ねたシモンに、セオバルドは簡潔に答える。
「森の奥だ」
「えっ……」
森の奥と聞いて面食らい、シモンは言葉を詰まらせる。次いで、星明かりの届かない、真っ黒な壁を思わせる暗い森に、視線を泳がせた。
森の深淵には、冬の始まりの日にシモンを喰おうとしたオーグルがいる。
……オーグルとは、万が一にも鉢合わせたくはない。
息を呑むシモンに、セオバルドは頷く。
「今夜、君を連れて森に入るのは、少し不安だからね」
「じゃあ、これを……」
セオバルドは灯りを持っていない。
持っていたカンテラを手渡そうとするシモンを手で制し、セオバルドは抱えていたサンザシの枝を下ろすと、小声で呪文を唱えて光の粒子を喚び出した――。
数多の星粒が、セオバルドの掌の上で小さな夜空をつくり、きらきらと瞬く。
目を射ることのない柔らかな白金の粒子は、セオバルドの両掌の上で、一点を中心にくるくると球体を描き始めた。幾本もの白銀の軌跡を光の膜が覆い、一つの球を作り上げる。
光の球は、セオバルドの手の中からふわりと零れて、膝下の低い位置に浮遊する。
小さな満月の如く、セオバルドの足許を優しく照らし出した。
「周りの魔力を探っても特に何もないが、妖精だけでなく近づいてくるのが人であっても、身を隠すように」
気づかれたらすぐに結界を張るようにとも言い付けて、セオバルドは森の中へと姿を消した。
独りで待つことになったシモンは、地面から張り出した木の根に腰を下ろし、幹にもたれ掛かる。
深夜の静謐に包まれて一息ついたシモンの髪を、そぅっと微風が撫でてゆく。
「……早く、早く」
どこからか。細く小さい、けれど甲高い声がシモンの耳を打つ。
徐々に近づいてくる声に首を巡らせ、おおよその方角に見当をつけたシモンは、セオバルドに言われた通り、木の幹の裏に隠れた。
「とびきり美味い、山羊のミルクが手に入る」
「邪魔な妖精猫は、抓ってやった」
「打ってやった」
「仲間を呼んで、ミルクをみんな搾り取ってしまおう」
やってきたのは、数人の小妖精だ。
小妖精たちは、興奮気味にくるくると踊りながら歌い、羊歯の葉の茂みに次々と飛び込んでゆく。
(妖精猫?)
小妖精たちの不穏な言葉に、シモンの鼓動がひときわ大きく跳ねた。
じっと目を凝らしても、まだ暗くて、目視することは叶わない。――だが。
背後の森と、町のある位置。目印となる星座から方位を測るシモンは、小妖精たちがウィリアムの農場からきたのだと、確信を持つ。
愕然として、大きく目を見開いたシモンは身を固くする。
「シェリー……?」
何か、酷い目に遭ったのかもしれない。
居ても立っても居られずに、シモンは勢いよく暗い森を振り返った。
(先生は?)
森へと入ったセオバルドは、まだ戻ってくる気配がない。
追いかけて森へ入ったとして、シモンはセオバルドの目的を知らない。跡を辿る術のないシモンが、彼に追いつく保証はどこにもない。
むしろ、迷子になるだけだろう。
――それなら。
花を収めた籠を持ったまま、シモンはカンテラを掴んで森に背を向ける。きゅっと唇を噛み締め、ウィリアムの農場に向かって一目散に走りだした。




