夏の始まり 2
真夜中の教会は、すっぽりと濃い闇に包まれていた。
夜の帳の下りた窓の外――。
耳を傾ければ、ほぅほぅと木霊する梟の声が、遠くから微かに聞こえてくる。
春先の夜気は、森の深淵を思わせるほどに水気を含み、冷ややかだ。
草木の纏う夜露で身体が冷えないように、深緑色の外套を羽織ったシモンは、摘んだ花を入れるための籠を片手に携え、もう一方の手には小さなカンテラを提げて、教会の玄関扉の手前でセオバルドとシェリーを待つ。
キッチンから少女姿で現れたのは、黒みの強い濃藍の外套を纏うシェリーだ。
外套の襟元から零れ落ちるまっすぐな銀糸の髪は、木々の梢から降り注ぐ月光の如くやわらかに煌めき、夜空と同色の外套に彩りを添える。
「おはよう、シェリー」
「おはよう」
挨拶を交わし合う二人の頭上。コツコツと階段を降りてくる靴音がして、シェリーとシモンは揃ってそちらを仰ぎ見る。
深みのある黒の外套を纏い、灯りを点した手燭を手に階段を降りてきたのは、見知った青年ではなく、落ち着いた雰囲気の黒髪の少年だ。
「えっ……――」
目を疑い、シモンは言葉を詰まらせる。
少年と青年の成長の狭間にある幼さを残した面差しは、手許で揺らぐやわらかな炎に照らされ、儚さすら感じさせる。
だぼついた外套は、幅も厚みもない少年の華奢な肩を浮き上がらせ、襟元から覗く項は細く白い。透明感のある肌は陶器の如く滑らかで、きめ細かな女性のそれ。
階下を眺め下ろすことで少年の癖のない黒髪が、さらりと額にかかった。涼しげな目許、長い睫毛の被る澄んだ青い瞳が覗く。
――少年と、目が合う。
すっと通った鼻筋に形のいい頤は、間違いなくセオバルドの特徴を捉えたもの。
だがしかし。
「えっ……?」
違和感が口を衝いて、疑問を伴う声となる。
あきらかに年齢がおかしい。
(先生が、若返った……)
目を丸くしたシモンは、ぽかんと口を開ける。
隣で、つんと顎を上げて目を細めたシェリーが、ふふん、と鼻で笑う。
「……礼拝堂は直さずに、町に顔も出さない。牧師っぽいことは、なぁんにもしていないのに、祭りの準備にうろうろしているのを、町の人たちに見られるわけにはいかない、ってところかしら」
セオバルドの整った薄紅の唇が、言葉を発しようと微かに動く。
「……」
手燭を持っていない方の手を喉許に当てたセオバルドは、そのまま何も言わずに階段を降りて、シェリーとシモンのそばに歩み寄る。
呆気に取られるシモンに、セオバルドは少し掠れた声で説く。
「眩惑の術の一種だ」
「……眩惑?」
年若く見えるのは瞞しで、本当のセオバルドは何も変わっていないのだろうか。
手の甲で目を擦ったシモンは、ぱちぱちと目を瞬かせて目を凝らす……。
ほぼ、身長の変わらないセオバルドの頭上に、そろそろと手を伸ばしてみるが、シモンの指先は宙を泳ぐ。
「あれ? 触れませんけど……」
思案顔のシェリーは、軽く握った片手を口許に当てて小首を傾げた。
「一般的な眩惑の術は、術者が魔力を纏い波長をずらして、他者の五感を惑わし魅せる『陽炎』のようなもの。……妖精が魔力を使って見せたい姿を模るのに似ているかしら。『触れない』ってシモンが認識するのは間違いじゃないわ。……でも」
シェリーは興味を引かれたらしく、少年姿のセオバルドに一歩近寄り、くいっと顔を寄せる。
間近で、セオバルドの青い瞳をまっすぐに覗き込み、奥底までを見据えた。
「この姿は、セオ自身の身体の記憶によるもの。……まさか、強力な自己暗示による時間遡行……?」
はっとして息を呑んだシェリーは、大きく目を見開いた。
「貴方……っ、自分自身に眩惑の術をかけたのね……!!」
シェリーが驚き呆れ返ると、セオバルドは、ふいと目を逸らす。
微妙な空気に置いてけぼりを食ったシモンがふたりを交互に見ると、シェリーは、じろりと視線を返して寄越す。
「貴方たち人間は妖精と違い、倫理的観点から変身しない、してはならないのでしょう? 他者に『呪い』でもかけられない限り、姿形が変わるのは、ご法度のはず。……これは、ただの眩惑の術じゃないわ。秘術や禁呪の類ではないの?」
何よりも、妖精と比べて寿命の短い人間の身体には負荷がかかり過ぎるのだと、腕を組んだシェリーは、セオバルドを横目で睨む。
不穏な雰囲気を察して不安に駆られたシモンは、おずおずと尋ねる。
「先生……? あの、身体は大丈夫ですか?」
目を伏せて唇を軽く引き結んだセオバルドは、咽の調子を整えるように「ん……」と小さく唸り、息を吐く。
「別の生き物に身体を再構築する――、作り変えることは禁呪とされている。……それは、人間を造ったとされる神の意志に反するからね。でも、これは自身の身体の記憶によるものだから、問題ないよ。負荷についても、一時のことだから大丈夫だ」
ちらり、とシモンはシェリーの顔色を窺う。
苦々しい顔をしたシェリーは、物言いたげな眼差しで、セオバルドを睨めつけている。小さく尖った唇は今にも動き出しそうで……、しかし黙っている。
一応。
シェリーが口を挟まないのなら、セオバルドの言葉に嘘はないのだろう。
「大丈夫、……なんですね」
ほっとして、シモンは胸を撫で下ろした。
少女を模るシェリーと、少年姿のセオバルド。
見た目の年齢や身長が、ほぼ自分自身と変わらないふたりに、シモンはわくわくして顔を綻ばせる。
「村にいた時には、同じくらいの歳の友達もいなかったから、先生やシェリーと一緒にお祭りの準備に出掛けられるなんて、嬉しいです……!」
不意に、シェリーの表情が険しくなり、微かに顔を俯ける。
「……やっぱり行かない」
急な気まぐれを起こしたかのように、低く硬い声音でシェリーは意見を翻した。銀糸の髪を優雅に揺らして踵を返すと、少女の姿は銀色の靄となって暗闇に霧消する。
何か気に障ることを言っただろうかと、戸惑うシモンはシェリーを呼び止める。
「え? 待って、シェリー……」
「パティのいる、家畜小屋の周りを見回ってくるわ」
銀色の妖精猫は、シモンを振り返り一瞥をくれると、ちりちりと澄んだ鈴の音を鳴らし、灯りの外へ――。
暗がりへと吸い込まれてゆくシェリーの小さな背を見送るシモンに、セオバルドが声をかける。
「行こう」
さっきから咽の調子が悪いのか、声に違和感があるのか。
セオバルドは、喉許に手を当てて眉をひそめる。
「先生、風邪ですか?」
体調を気遣うシモンに、「否」と応えたセオバルドは、しばし思案する。
「ああ、そういえば、声変わりをし始めた頃だった」
喉許から手を離し、納得したように言った。
きょとんとして、シモンはゆっくりと目を瞬かせる。
「……?」
なんだろう、それは。
風邪の一種か、咽の病気か。
「声、変わ、り……?」
何か悪い病気だろうかと深刻な表情を浮かべて、シモンは躊躇いがちに、セオバルドに訊き返した。
セオバルドは軽く咳払いをして、怪訝そうに眉を寄せる。
「成長過程で、男性は声が低く変わるだろう?」
まさか知らないのか、そんな驚きを含む声音だった。
(知らない……!)
息が止まりそうなほど動揺したシモンは、否定の意を込めて瞬時に笑みを浮かべてみせるが、顔が引き攣る。
亡くなった祖母からは、成長期に起こる男性の身体の変化なんて、教わっていない。
育った村の人たちは皆、シモンよりも年上で成人していたから、成長過程にある男性なんて見たことがない。
そもそも男性の声がいつごろ変わるかなんて、今までシモンは、気に掛けたこともなかった。
ざっくり考えて、成人する頃には成長期は終わっているはず。
シモンと同じ年頃に見える少年セオバルドはきっと、そうした成長が早かったに違いない――。
「……そうなんですねっ! か、変わるんですねっ! 先生は早いんですねっ!」
けれど。
セオバルドは表情一つ変えることなく、冷ややかなまでに淡々と言った。
「いや? ……この姿は、私が十三歳の時のものだ。周りと比較しても、私は別に早くはなかったよ。それに、遅くとも大体、十五までには……」
「十五までには……!?」
ひやりとして頭から血の気が引き、シモンは悲鳴のような声を上げた。
もはや取り繕うこともできない。
額に嫌な汗を滲ませ大きく目を見開いたシモンは、こくりと固唾を呑み込み、凍りつく。
「そういえば――」
セオバルドの落ち着きを払った声が、一音一音はっきりと、シモンの鼓膜を打つ。
同じ高さにある澄んだ青い瞳が、わずかにも逸らされることなく、まっすぐにシモンの双眸を捉えた。
「――君は、あと半年もすると、十五だったか」
低く掠れる声で囁かれる言葉は、死刑宣告のように聞こえた。
(ひぃぃぃぃぃっ!)
両掌を頬に当てて、悲鳴を呑み込んだシモンは、逃げ出してしまいたい衝動に駆られて、仰け反る。
(どっ、どうしよう……!!)
たった半年で、声を低く変えなければいけないなんて。
全身からじっとりと汗が噴きだすのを感じながら、シモンは頭の中で十四年間生きてきた記憶を漁り、声の変わる話を手繰り寄せる。
童話で、狼が子山羊を食べようと、声を変えるために石灰を飲んで、山羊のお母さんの声の真似を――。
(違う! それは高くなる方……!)
狼狽えたシモンは、顎に手を当てて俯き、必死に考え込む。
ない。
(あ!)
ぱっ、とある言葉が閃き、大きく目を見開いたシモンは、弾かれたように顔を上げた。
「……そう、だ」
思わず小さな声が、口から洩れる。
風邪、だ。
今、セオバルドの声が掠れていたのを、風邪だと思ったように。
次に風邪をひいて、咽の調子が悪い時に「声、変わりました」と言えばいいんだ。そう考えたシモンは晴れやかな表情、明るい顔をする。
そして風邪が治ったら「声変わり、ちょっと落ち着いたみたいです」と伝えれば、ちゃんと段階を踏んで成長しているように思われるはず――!
セオバルドは、そんなシモンの思惑を見透かすように、すっと目を細めた。
「言っておくが……、声変わりは風邪ではないから、元の声に戻ったりはしないよ」
そのまま落ち着き、低い声に定着する。
セオバルドは、そう付け加えて釘を刺す。
「ぅっ。……へ、へぇ、豆知識……」
痛くも痒くもない喉を両掌で押さえて、追い詰められた表情のシモンは、その場に硬直する。
もう、駄目かもしれない。
半年後には、疑心の目を向けられて、きっと針の筵だ。
自らの首を絞め、ぴくりとも動かなくなったシモンに、セオバルドは眉を寄せて神妙な顔をする。
「まぁ、成長しても声の高い男性はいるし、声変わりの遅い男性も、もちろんいるが……」
「でっ、……ですよね!」
首の皮一枚繋がった。
希望を見出したシモンが勢いあまって身を乗り出すと、セオバルドは微妙に顔を顰め、軽く口を引き結ぶ。ぴく、と口角を震わせ、セオバルドは深く頷いて応えた。
心底安堵したシモンは、胸に手を添えると肺の空気をすべて吐き出し、ぐったりと脱力する。
吐息と共に、気の抜けた声がこぼれる。
「はぁぁぁ……」
「……っ!」
片手で素早く口許を押さえたセオバルドが、俯いた。
同時に呼気が洩れて、肩を震わせる。
「こほ、こほっ」
軽く咳払いするセオバルドの顔を、シモンが覗き込む。
「先生、咽は大丈夫ですか?」
声変わりとは、咽がむずむずするものなのだろうか。
ほぅ、と息を吐き出し、顔を上げたセオバルドは、屈託なく笑った。
「ああ、大丈夫だ。……行こうか」




