夏の始まり 1
笛の音を思わせる高く澄んだ声で、駒鳥が囀る。
空を伸びやかに転がるそれに、キッチンでお茶を淹れていたシモンは、明るい窓の外に視線を巡らせ、小鳥の姿を探す。
つい最近まで冬の薄暗い灰色であった窓の外の風景は、暖かな春の陽射しを受けてすっかり淡い緑へと変わっていた。
木々の梢からは薄緑の新芽が育ち、厚みのない若葉はそよぐ風に煽られ、枝先でひらひらと軽やかに舞う。
さわさわと優しい葉擦れの音を立てる若葉は、柔らかな陽光を受けて明るく透かす。地面に優しい木漏れ日を落とし、濃淡のある影を作り出した。
草木の纏う夜露の溶け込んだ、清涼な空気に満たされた朝だった。
シモンは、ミントの香りを漂わせる淹れたての熱いハーブティーをトレイに乗せる。それをテーブルに着いたセオバルドの許へと運んだ。
「暖かくなって、もうすっかり春ですね」
頬杖を付いたセオバルドは、双眸を閉じたまま微かに頷く。
眠たそうなセオバルドの様子に、冬眠から目覚めたばかりの蛙を思い浮かべたシモンは、口許に小さな笑みを湛えた。
野兎も、生まれたばかりの小さな子兎たちを巣穴から連れ出して、芽吹いたばかりの柔らかな草を食むようになるだろう。可愛い子兎の姿を想像するシモンの声は、心なしか弾む。
「それに、明日はお祭りですもんね」
ハーブティーの注がれたカップをセオバルドの前に置くとミントの香りを含む湯気がまっすぐに立ち昇り、彼の頬を柔らかに撫でた。
セオバルドは薄らと瞼を上げて、ハーブティーを眺め下ろす。
「明日は『Beltine』……、夏の始まりだから」
――ベルティンは、太陽の季節の訪れを祝う祭りである。
気候は春だが、明日からは暦の上で夏となる。
冬という眠りの季節から、動植物の命が動き出す、夏の季節へと変わる。
その節目とされる、特別な日。
町で催される祭りは、土地の豊穣や、放牧する家畜の多産と無事を祈願するためのものだ。
ミントの若葉の強い香りが嫌だと、セオバルドからほんの少し席を離した妖精猫が、「そうね」と相槌を打った。
シモンにブランデー入りのホットミルクを用意させたシェリーは、立ち昇る香りに鼻先を当てて、うっとりと目を細める。
ホットミルクを一口舐めて咽を潤すと、より一層幸せそうに目を細める。
「数日前から、箒や鍬の先にカンテラを提げて、夜空を渡り夜会へ向かう魔女を何人か見かけたわ」
興味を惹かれて、シェリーに視線を送ったシモンは、キッチンへと戻る。
「魔女? 夜会? ……へぇ」
妖精も悪魔もいるのだから、魔女がいてもおかしくはない。
箒や鍬にまたがり、夜空を渡る魔女たちをぼんやりと思い描きながら、シモンは手許のフライパンを動かす。
フライパンで音を立てて香ばしく焼かれているのは、朝食のベーコンだ。
脇の皿には、シェーブルチーズと摘みたての香草を少量加えたオムレツと、そして、きつね色に焼かれたマフィンが盛り付けてある。カリカリに焼き上がったベーコンをフライパンから滑らせて、マフィンの上に乗せたシモンは、それをテーブルへと運んだ。
テーブルに着いたシモンを、シェリーは物知り顔で一瞥する。
「この時期の夜会は、夏の始まりの日の前夜に行われる、魔女による最大の祭事。夜祭よ」
「そうなんだ。魔女にとっても季節の節目は特別なんだね」
「魔女だけじゃないわ。冬の始まりの日と同様に、季節の変わる前夜からは大気に不思議の力が満ちて妖精も活発になるの。それこそお祭り騒ぎよ。羽目を外して家畜からミルクを盗もうとする妖精だっているんだから」
油断ならないのよね、と少しだけ渋い顔をして、シェリーは独りごちる。
同じ妖精の名を持つ妖精猫なのに、まるで自分にミルクが回って来なくなることを心配する口振りのシェリーに、シモンは頬を緩める。
「最近シェリーはウィリアムさんの農場の、パティのミルクがお気に入りなんだよね」
パティという名に、丸めていた背筋をしゅっと伸ばしたシェリーは、大きく見開いた瞳をシモンに向ける。紫の瞳がくるんと丸くなり、きらきらと輝く。
「まだ若い山羊の彼女のミルクは濃くて、ぎゅうっと旨味が濃縮しているのにさらっとした後味だから。それにほんのり季節の花の香りがするの。この界隈の猫の中でもよく話題になるのよ」
初めて飲んだ時には思わず唸ってしまったと、熱っぽく語ったシェリーは、ころころと機嫌よく咽を鳴らす。
猫にも噂話があることを知り、感心したシモンは、手許のチーズ入りオムレツを見下ろす。
「うん、確かに美味しいよね。……沢山の山羊の中から、ミルクの味や名前までわかっちゃうなんて、すごいね」
パティのミルクは飲む以外にも、シェーブルチーズやバターにしても美味しい。
だから、最近シモンはシェリーに指定されて、町はずれにあるウィリアム農場を訪ねて、パティのミルクを予約して買うようにしている。
妖精や猫たちに評判だからといっても、町の人たちは誰一人として知らないことなので、値段は他の山羊のものと変わらない。
シェリーは誇らしげに胸を張った。
「猫の情報網を見くびらないでほしいわ。集会を通じて得られる情報量は膨大なの」
シェリー曰く、とある野良猫からの情報で、たまたま美味しいことが知れたパティのミルクは、美味しいことがわかっていても人間と暮らしていない妖精猫には買う術がなく、言葉の話せない普通の飼い猫には飼い主に訴える術がないという。
憧れのミルクだそうだ。
思案顔のシェリーは、そっと目を伏せる。
「あまりにも猫たちの間で噂になったから、ミルクの好きな小妖精たちの耳にも届いていると思うの。パティや、彼女のミルクを盗もうとしないか、心配だわ」
「……そうならないために、厄除けの花を飾り、篝火を焚くんだろう」
セオバルドが、目覚めたばかりの抑揚のない虚ろな声で呟く。
祭りは、夜が明ける前から――。
この季節に花を咲かせる草木を摘み取るところから、始まる。
季節の節目の前夜は不思議の力が大気に満ちる。
不思議の力のとけた大気から降る夜露を纏う草木は、特別な魔力を宿す。魔除けの木や花を探し、夜露の乾いてしまう前に摘み取り、厄除けとして家の戸口などに飾る。
厄災を祓うために焚かれたかがり火の周りを、人々が踊り、放牧する家畜を歩かせることで、一年の無病息災を祈る。
「じゃあ、シェリーも一緒に夜中にサンザシや花を摘みに行こうよ。先生も来てくれるし」
冬の始まりの前夜、シモンはオーグルに森へと誘い込まれたこともあり、セオバルドが同伴してくれることになっている。
どうせならみんなで、とシモンはシェリーを誘った。
「……なんで私が」
相手にしない素っ気ない口調で言い放つと、シェリーは俯き、マグから立ち昇るホットミルクの湯気を顔全体で浴びて、香りを満喫する。
「パティのミルクを心配するのなら、シェリーが農場の家畜小屋の戸口に、花やサンザシを飾ってあげたらどうかな?」
パティをはじめとする家畜の無事を願い、厄を除けるために。
農場主のウィリアムももちろん飾るだろうが、パティのミルクを想って妖精猫のシェリーが摘んだものを飾ったのなら、より効果がありそうだとシモンはシェリーに提案する。
ぴくん、とシェリーの耳が動き、長くすらりとした銀色の尾が、ぱたんぱたんと葛藤するかのように左右に揺れた。
花飾りに豊穣の祈りを込めて飾ったら、ウィリアムの牧草地には、美味しい草が生えるかもしれない。
「……美味しい草が生えたら、それを食べたパティのミルクが、もっともっと美味しくなったりして」
シモンは程よく冷めたハーブティーを口に含み、こくんと呑み下す。
魔力を注いで育てたハーブの新芽をたっぷりと使って淹れたハーブティーは、渋みが少なく軽やかだ。瑞々しい若葉のほんのりとした甘みと、爽やかな喉越しに春を感じたシモンは、ほわんと表情を和ませた。
ぴん、と耳を立てた次の瞬間――。すっ、と首を持ち上げたシェリーは、紫の瞳の光彩をわずかに濃くし、光を浮かべて爛々と輝かせる。
しかしシモンと目が合うと、はっとして、すぐに取り繕う。
「まぁ、行ってあげてもいいわよ? 散歩のついでに」
涼しい顔をして、つん、と顎を上げたシェリーの声音は、棘のない明るく滑らかなもの。
「うん……!」
シェリーとも一緒に出掛けられることになり、ぱっと顔を輝かせたシモンの声は明るく、喜びに彩られた。




