紛れ込んだ物 10
早朝から降り始めた雨は、しとしとと降り続いて止む気配がなかった。
子供たちと朝食を摂った後、シモンはアニーにせがまれて談話室へと足を運ぶ。
談話室は既に、雨のために外へ出られない子供たちで賑わっていた。
晴れの日であれば。
大きな窓から差し込むたっぷりの陽光で明るく暖かなのだろう。しかし、今日は外に濃い霧がかかり、空の雲がそのまま落ちてきたかのような白色をして、遠くまで見通すことはできない。
室内は、白霧を映す窓の色彩よりも影が濃くて、肌寒かった。
シモンは、談話室をぐるりと見渡す。
沢山の子供たちの中で、ローラは子供たちを相手にお絵描きをみてやり、本を持ってくる子供には文字の読み方を教えてあげている。
マシューは部屋の一角で、男の子たちと談笑しつつ、時折談話室の中を走り回る子供たちに注意をするなどして、気を配っている。
シモンはアニーに渡された本を手に、明るい所を探す。火の入れられた暖炉近くの床に腰を下ろし、アニーを膝の上に乗せた。
本を開いて読み始めると、シモンの周りに小さな子供たちがわらわらと集まってくる。
シェリーはちゃっかりシモンの隣に座り、一緒に本を覗き込むふりをして子供たちの相手を免れていた。
各々が思い思いに過ごしていた談話室に、突然険しい声が上がった。
「っ、……なにするんだよ!」
「うるさいっ!」
暗がりの濃い部屋の中央辺りから言い争う声が聞こえ、シモンは本の朗読を止めた。
顔を上げて、視線を巡らせる。
本を読む声が止んで、周りにいた子供たちが一斉にシモンの視線を追う。
「お前ら、止せっ!」
喧嘩を始めた二人の男の子の間に、マシューが仲裁に入った。
瞬間。
談話室を満たす空気の臭いが、質が変わった。
ぞくり、背を這う悪寒にシモンは身を強張らせる。湿気とは違う、肌にべっとりと纏わりつく冷たくて重い、嫌な気配がした。
(あれ……?)
おかしい。
違和感に目を瞬かせたシモンは、次いで手の甲で擦る。
視界が、やけに薄暗かった。
部屋の中央辺りは影が重なるようにして、殊更暗い。
……目を凝らすも、喧嘩をしている片方の男の子の、顔が見えない。
「……!」
男の子の顔を覆う影の濃淡が微かに移ろい、シモンははっと気づく。
「なんで……、黒い靄?」
「シモン! 上よ……!」
目を瞠るシモンの隣で、天井に視線を向けるシェリーが、鋭く囁いた。
高さがある故に仄暗い、広い天井に長い脚を伸ばして張り付く、刳り抜いた影絵のように平べったいもの。
妙な質感を持った大きな蜘蛛の形の、黒い塊。
その大きさ、禍々しさに戦慄したシモンは顔を強張らせる。
――いつの間に……?
周囲の騒がしさに紛れたのか、音も気配も感じなかった。
蜘蛛の膨らみを帯びた腹部の上。胸頭部に黒い影が凝った。
影は、こよりを撚るようにして、くるくると細く長く伸びる。ちょろちょろと一本。もう一本と、胸頭部に細い紐のようなものが生えた。
だら……ん。
蜘蛛の胸頭部から生えたものは、重力に従いぶら下がる。
風もないのにゆらゆらと不気味に蠢くそれは、闇色をした細い細い枯れ枝のような腕と、小さな手。
全身が粟立つ感覚に、シモンは思わず膝の上のアニーを抱き締め、身を固くする。
「シモン? どうしたの?」
天井を仰ぐシモンに倣い、視線を上げたアニーが、「ひっ」と小さな悲鳴を上げた。
蜘蛛の真下――、細い腕の伸びた先。喧嘩をする二人の子供がお互いを口汚く罵り始めた。一方の子供がマシューの制止を振り切り、片方の子供を突き飛ばす。
突き飛ばされた子供の足がもつれて、後方に大きく身体が揺らいだ。刹那。
黒い蜘蛛の胸頭部から生えた闇色の細い手の一本が、しゅるしゅるっと凄まじい速さで真下に伸びた。しなやかな触手のような細い手が、バランスを崩した子供の服の襟首を掴む。
くいっ……!
掴むや否や、鞭のようにしなる黒い腕が、子供の身体を壁へと投げつける。
驚愕に目を見開いたシモンの前で、子供の身体が放り投げられた猫のように軽々と、勢いよく飛ばされる。
――壁に打ちつけられたなら、怪我では済まない……!
シモンが息を呑むよりも早く、突如隣で膨れ上がった何かが空を切って飛んだ。
飛ばされた子供が壁に叩きつけられる直前に、大きな銀色の塊が受け止める。
瞬時になされた出来事に理解が追い付かず、シモンは呆然とする。
しなやかに、すらりとした体躯はそのままに。猫の時よりも、身体の割合に対して幾分か頭部が小さい。
(羊……よりも、大きい?)
本の挿絵でしか見たことのない、ヒョウのような。
到底猫とは思えない大きさの、美しい銀色の獣が声を張り、叱咤する。
「ぼさっとしない! 魔除けの結界!」
シェリーの声に、シモンは我に返って天井を見上げた――。
子供を離した細い手はするすると縮み、振り子のように揺れて、蜘蛛の腹部の中心へと刺さった。
魔物は、自らの腹に刺した手を力任せに外側へと引く。
もう一方の手を腹部に差し込み、両側から腹をこじ開ける。
胸頭部から、幾本もの黒く細い手がするすると生えては次々に腹に刺さり、力がこもった。
みしみしと蜘蛛の腹に縦に亀裂が走り、ぱっくりと割れる。
……腹部に真っ黒い口が、できた。
口腔には鋭い歯が並び、擦り合わせる度にぎちぎちと嫌な音が鳴る。
胸頭部から垂れ下がる幾本もの細い手は、不規則に伸びては縮み、ゆらゆらと蠢いて宙を探る。
できたばかりの口腔に放り込む、獲物を探し求める。
突如現れた巨大な銀色の猫に驚き、天井に張りつく大きな黒い蜘蛛に気づいた子供たちの悲鳴が、耳を劈く。
天井を見上げた子供が、次々に甲高い声を張り上げる。恐怖が連鎖し、幼い子供たちは火がついたように泣き叫ぶ。
恐慌をきたした子供が一人、部屋から逃げ出そうと扉へ走った。
すると蜘蛛は、扉の上――天井の壁際まで身体を滑らせ、長く細い脚を伸ばして床に突き立てる。
扉を塞がれ、ぺたりと尻もちをついた子供の服を、巨大猫のシェリーが咥えて素早く扉の前から引き剥がす。
シモンが叫んだ。
「マシュー、ローラ! 子供たちをここに集めて! 早く!!」
結界を広く張れば、薄くなる。
自身の力量を把握しているシモンは、できるだけ子供たちを一か所に集めたい。
蜘蛛を模る魔物の存在を認知していたマシューとローラは、すぐに動いた。ふたりが子供たちに声をかけ、手を引き、シモンのそばへと連れてくる。
止まない泣き声や悲鳴につられるように、黒い影や靄がどこからともなく滲み出てくる。
……集まってくる。
天井を這う魔物から伸びる枯れ枝のように細い手が、湧き出した黒い影や靄を器用に掴む。掴んだそばから口へ放る。
鋭い歯が動き、むしゃむしゃと喰う。
「上を見ちゃだめ!」
ローラが両腕に何人もの子供を抱き締めて、必死に子供たちを宥める。じっとしていられず逃げ出そうとする子供をマシューが両手に抱き上げた。
シェリーの身体がしゅっと縮み、元の大きさに戻ると、シモンの肩に飛び乗る。
「部屋に閉じ込めて捕食する気よ! 早くしなさい!」
慌ただしく急かされて、焦る気持ちを押し殺すシモンは、結界の範囲を定めて呪文を唱える。
シモンの足許を中心に光が奔り、くるんと大きな円を描く。淡く優しい光の帯が円から立ち上がり、シモンと子供たちを包み込んで半球体の膜となる。
仄暗い部屋に現れた陽だまりを思わせる柔らかな光。結界に気づいた子供たちの泣き声がわずかに止んだ。
だが。
広範囲に沢山の子供たちを包んだ魔除けの結界は、薄い泡沫のよう。
魔物が脚を伸ばして踏みつけたら。否、胸頭部から生える細い手に殴られでもしたら、それこそ泡のように弾けてしまいそうだった。
心許なさを覚えたシモンは、肩の上のシェリーに自信のない顔を向ける。
「ねぇ……、シェリー。このままもつと思う?」
「セオが気づいて、ここに来るまでってこと?」
喉を反らせて結界を見回したシェリーが、額に皺を寄せて渋い顔をする。
「この卵の殻みたいに薄い結界で? ……厳しいわね」
「……うん」
容赦ない現実的な答えを貰い、シモンは結界内に留まりセオバルドを待つ考えを捨てた。
意を決したシモンは、鋭く短く息を吸い込み、ぐっと腹に力を込める。
護身用に持っていた短剣に魔力を込めて、子供たちを落ち着かせていたローラを振り返る。
まっすぐにローラの瞳を覗き込むシモンは、彼女の手を取り、両手で包み込むようにして短剣の柄をぎゅっと握らせる。
「ローラ、子供たちをこの円の中から出さないで。もしも黒いものに掴まれそうになったら、迷わずこれで切り付けて。……頼むね」
昨夜シェリーに教えられ、円の意味を解っているローラは、怯えを浮かべつつも真剣な表情で深く頷いた。
次いでシモンは、腰に結わえてあったお守りのぬいぐるみを外し、少しの間悩む。踏ん切りのつかないまま、それをマシューに手渡した。
「これ、持っていて」
「ぅ、ん? ええ!?」
シモンから渡されたぬいぐるみを両手で掴み、目を剥いたマシューは顔を引き攣らせる。
「……あれに投げればいいのか!?」
「投げてみてもいいけど……、ごめん。僕にもよくわからない。もしかしたら、それ……、急に僕を追いかけて走り出すかもしれないけど、一応お守りらしいから」
お守りと銘打つなら、ないよりはまし。
「え……っ? はぁっ!?」
足許にしがみついて泣きじゃくるアニーの手を、シモンはそっと剥がす。床に膝をつき、アニーと目の高さを合わせて彼女をきゅっと一度抱き締める。
「アニーにも、お守り。マシューやローラと一緒に、みんなとこの円の内側にいれば大丈夫だから。アニーはここにいて?」
シモンは、首に提げていた魔除けを外して、アニーの首にかける。頭を優しく撫でてにっこりと微笑んでみせる。
「うん」
泣き止んだアニーが、こくりと頷いた。
「シェリー、先生の居場所はわかる? 迷わずに案内できる?」
シェリーは愚問だと言わんばかりに、ふんと鼻であしらう。
当然のことと流し、先を促す。
「どうするの?」
「魔力を持った人間は……、とりわけ僕は、他の人よりもいい匂いがするんでしょ? 先生の所まで走る。魔物を引き付けるよ」
魔除けやお守りを預けていくのは、魔物を引き付けるため。
短剣を置いていくのは、魔物がシモンを諦めて、子供たちの所へと引き返した時のため。
紫水晶を思わせる瞳を細め、シェリーは薄く微笑む。
「……いいわ、案内してあげる。泣き喚く子供の所に残されるのはごめんだもの。でも、捕まりでもしたら置いていくから」
子供たちを護るための魔除けの結界を維持し、シモンは自身の身体に保護結界を張る。
「シェリーにも……」
張られた魔除けの結界をちらりと一瞥したシェリーは。
「要らないわ。あなたにそんな余裕はないでしょ。それに、私は捕まらないもの」
顎をつんと上げて、事も無げに言った。
結界を張ることでかかる負担を、シェリーが気にしてくれたことが、シモンは嬉しい。
「ありがとう。でも、シェリーも気をつけてね?」
シェリーがシモンの肩を、とん、と蹴る。
飛び降りるのと同時に再び身体を大きくさせ、巨大な猫の姿になった。床に着地して、シェリーは振り返る。
「扉は私が破るから、ついていらっしゃい」
頭を低く下げて、シェリーは勢いよく床を蹴った。
俊敏な動きで、扉の前に刺さる蜘蛛の脚を避け、だんっ、と凄まじい音を立てて扉に体当たりをする。
打ち破られ、ぐらりと傾いだ扉目掛けて、シモンが結界の中から飛び出した。
……ずるり。
天井に張り付いていた巨大な蜘蛛が、結界から出たシモンの気配を敏感に感じ取り、脚を動かす。
黒い巨躯が、壁を滑り下りる。
壊れた扉から談話室を飛び出したシモンを、蜘蛛を模る魔物が追った。




