紛れ込んだ物 11
「セオは、外よ!」
しなやかな走りで先導するシェリーが、わずかに顔を傾けシモンに目を配った。
廊下を駆け抜けるシモンの後方、蜘蛛を模る大きな魔物が追いかけて来る。
長い脚を除く本体だけをみても、おそらくベッドよりも大きい。節を使って折り畳んだ足をせわしなくも器用に動かし、胸頭部から生える幾本もの細い手を巧みに操りながら、壁にぶつかることなく、時には身体を斜めに傾け、床を滑るようにしてシモンを追う。
全力で走るシモンよりも、おそらく魔物の方が速いだろう。
だが、身体能力が勝っていることを確信しているのか。魔物は、シモンを確実に捕らえるために一定の距離を保ち、狙いを定めているようだった。
シモンが自身に張った保護結界は、身体全体を覆う被膜のようなもの。衝撃を和らげ、鋭利な刃などで傷つけられるのを防ぐもの。
しかし、薄い結界の強度は、シモンの技量も相俟って心許ない。
魔物に捕まり腹部にある口腔に放り込まれ、鋭い歯を立てられでもしたら、ひとたまりもない。結界など身体ごと引き千切られるだろう。
ぐっと歯を食いしばり、魔物の伸ばす細い手に掴まれないよう、シモンはできるだけ身体を屈めて走る。
廊下の角を使い魔物を引き離そうとするが、魔物は速度を落とすことなく、シモンのすぐ後ろにまで迫った。
しゅるしゅると、黒く細い手が伸ばされて、シモンのすぐ脇を並走する。
右頬の隣を一本、左肩の辺りに、もう一本。
前方のシェリーが、ちらりとシモンを一瞥した。
視線を前方に戻し、瞬時に身を屈め加速する。
銀色の毬が、素早く軽やかに跳ねた。壁、天井へと駆け上がり、勢いを殺さないまま、ひらりと宙で身を翻す。床に着地すると同時に、深く体高を下げ――。
――シモン目掛けて力強く床を蹴り、容赦ない勢いで突っ込んだ。
一瞬の出来事にシモンは目を見開き、びくりと身体を震わせる。
直後。
シェリーはシモンの肩のあたりの衣服を咥え、そのまま後方に飛んだ。
今まさに、シモンを掴もうとしていた魔物の細い手から、攫う。
いきなり身体を後ろへ引っ張られた衝撃も、保護結界を張っていたために殆どない。
シェリーに運ばれるシモンの身体が、幾本もの黒い手の間をすり抜け、魔物の上を飛び越える。
蜘蛛の後方へと着地し、距離を取ったシェリーが咥えていたシモンの服をぱっと離した。
「シモン!」
一声。
注意を惹いて廊下の壁を蹴ったシェリーは、対面の窓硝子を破って外へと飛び出す。
大きな硝子の砕け散る、派手な高音が周囲に響いた。
シェリーに投げ出され、廊下をころころと転がるシモンは、硝子の割れる音を聞いて、彼女の意図を知る。
(……外!)
シェリーの往く先に、セオバルドがいる。
転がる勢いが弱まり、床に手を置いて跳ね起きたシモンは、シェリーの破った窓へと身体を向けて、外に飛んだ。
魔物が身体を収縮させて止まり、脚を小刻みに動かして向きを変える。その質量に見合わない身軽さ、俊敏さでシモンを追った。
雨にぬかるんだ地面に足をつけたシモンは、シェリーの姿を探すために顔を上げ、周囲にさっと視線を巡らせる。
灰色の曇天と白霧が溶け合い、天地の境界のない、曖昧な景色が眼前に広がっていた。早春の冷たい雨が降り注ぎ、シモンの頬を打つ。
「こっちよ!」
声に導かれ視線を投げた先。シモンは、白い靄に包まれて霞む、シェリーの銀の被毛を見つける。
すぐにでも駆けだせる体勢でいるシェリーの紫の瞳を、捉える。
走り出そうと重心を傾けた――その時。シモンの右足首に、細い紐状のものが巻き付き、勢いよく後ろに引かれた。
反動で、上半身が大きく前に傾く。
「わ……あっ!」
――転ぶ……!
シモンは、地に両手を付こうとして咄嗟に前に出すが、指先は宙を泳いだ。
身体は逆さまに引き上げられ、地面を離れる。
右足首に巻き付く黒い手を振り解こうと暴れるシモンに、次々と細い手が伸びて、左足を、腕を、肩を、髪を掴む。身体に巻き付いていく。
「シモン!」
警告を促す、差し迫った響きを持つシェリーの鋭い声。
がんじがらめにされ身動きが取れなくなり、逆さのまま巨大蜘蛛の腹部の上に吊るされる。シモンの眼下には、鋭い歯に縁どられた底のないぽっかりとした闇があった。
(落とされる……!)
餌を待つ黒い口腔が間近に迫り、シモンの顔が引き攣る。
一か八か。
シモンは、魔除けの結界を張るために呪文を唱え始める。
呪文を唱えながら、シモンは目算する。
子供たちを護るために張った大きな魔除けの結界、自分の身体に施した防護のための保護結界と既に二つの結界を張っている。続けざまに張ろうとしているのは、一つ目と同じ魔除けの結界。
しかし、己の力量と魔力の残量を考慮すると、まともなものである可能性は限りなく低い。
おそらくは、長くは維持できずに、魔物を一度弾いた瞬間に消失してしまうだろう。
だから、チャンスは一瞬、一度きり。
黒い手が口腔にシモンを放る瞬間、魔物の口よりも大きな結界を張れば、直接噛み砕かれることは免れるはず。
魔物を弾き、地に降り立つことができれば、結界が消えても走って逃げることができる。
シモンを捕らえていた黒い手が、口腔に放る為にするすると緩み、解けていく。
放たれて、身体が落ちる。
――今だ!
渾身の魔力を込めて、シモンは魔物の胴体と同等の大きさの魔除けの結界を張った。瞬時にシモンの身体を光の球体が包み込む。
そして。
足場のない不安定な空中で、シモンの身体は結界ごと魔物の口腔から弾き飛ばされ、地に転がった。
維持することが叶わずに、張ったばかりの魔除けの結界と、自身の身体に施した保護結界が同時に霧消する。
だが、魔物とは距離が空いた。
逃げ出そうと身体を起こし、立ち上がったシモンの足から、がくんと力が抜ける――。
「シモン! 走りなさい!」
ぼんやりと聞こえるシェリーの声が、やけに遠い。
――シェリーに応えようとするも、シモンの意思に反して、地面に両膝がついた。
ぐらり、と身体が傾ぐ。
(立て、ない……?)
手をついて身体を支えようとするが両腕に力が入らず、指先一つ動かない。凍りついたように手足の自由が利かなくなった。
ぴくりとも動かなくなった身体に、シモンは呆然とする。
ぬかるんだ地面に倒れ込んだシモンの顔や手を、雨が打つ。けれど冷たさを感じない。
身体が芯から冷え切って、ただ、酷く寒かった。
魔物から長く伸びた細い手が、ぐったりと動かなくなったシモンの腕を掴む。腹に、足にも別の手が絡みついた。引き上げられて上半身が地面から浮く。
次いで両膝が浮き上がり、引き摺られるつま先が、地面に薄い跡を残した。
視界が暗く霞み、思考の停止しかけた意識が、微睡むのにも似た感覚に襲われる。
とん、と間近に地を踏みしめる微かな振動を感じた。ほのかな風がシモンの頬に触れる。
(……シェリー?)
鞭をしならせて叩くような、軽く鋭い破裂音が鳴った。
シモンに絡みついていたすべての黒い手が、瞬時に張られた魔除けの結界によって、勢いよく弾かれる。
黒い手に持ちあげられていたシモンの身体が、支えを無くす。地面に崩れ落ちるかに思われた身体は、ふわりと宙に留められた。
水中を揺蕩うような浮遊感の後、シモンの背中と腰のあたりに力がかかり、引き寄せられる。力の入らない身体が包み込まれ、しっかりと支えられた。
耳許に吐息のかかるほど、近く。低い声で囁くように呪文が唱えられた。
……シェリーじゃない。朦朧とする意識の中で、シモンは、そう認識する。
冷たく凍えた身体に温かな熱が流し込まれて、身体の隅々まで巡る。満たされるのと同時に癒される。
今にも途切れてしまいそうに虚ろだった意識が、霞が晴れるようにはっきりとしていく。
指先に力が入り、ぴくりと動いた。
身体を預けて不安定な姿勢でいたシモンは、自分を支えるものに両腕を回し、ぎゅっと抱きしめて縋りつく。自分の足で立つために足裏を地面につけて、体重を乗せた。
顔を埋め、押し付けた頬に伝わるのは、衣服越しの人肌の優しい温もり。そこから自分のものではない、とくとくと脈打つ鼓動を感じる。
魔物ではない。肌に触れるものから、腕や身体にあたる感触から……、温かな血の通う人であることを確信して安堵するシモンは、ほっと吐息を洩らした。
「魔力の配分も考えずに、結界を乱発するからだ」
言葉は叱るものだが、安堵を含んだ柔らかな声音。
(あれ……?)
耳許で囁かれた声に聞き覚えがあった。
正常に思考が働き始めたシモンは、けれどまだ、状況が把握できない。
ゆっくりと瞼を持ち上げ、視覚で確認するべく身体を離そうとするが、ぴくりともしない。
目をぱちぱちと瞬かせて、考える。
元に戻った自身の五感を総動員して、シモンは状況を探る。……整理する――。
声も言葉も、セオバルドのもので間違いはない。
すなわち、背中や腰に回されているのはセオバルドの腕。シモンの身体は地面に崩れ落ちないようセオバルドにしっかりと抱え込まれ、身動きができないほどに強く、抱きすくめられている。
シモンは、そのセオバルドの背に両腕を回し、彼の胸に顔を埋めている。
――きつく抱きしめ合っている。そんな状況。
(どっ、どういうことーっ!?)
自分からセオバルドに抱きついてしまったことを自覚して、シモンは胸の内で悲鳴を上げる。
鼓動が跳ねあがり、心臓が抑えようもなくばくばくと激しく脈打つ。
かぁっと身体が芯から熱くなり、口の中がからからに干上がった。
「せ、せせ、先、せ……」
セオバルドの背に回していた腕の力を緩めるも、どうしていいのかわからないシモンは、硬直する。
「……私の見ていないところで、無茶をするんじゃない」
「ちょっとぉっ! いつまでそうしているのよ! 離れなさいよーっ!!」
苛立ちを迸らせたかのようなシェリーの怒声が、響き渡った。
声の余韻が収まると、セオバルドはシモンを抱きしめていた腕の力を、ほんのわずかに緩める。
「魔力が枯渇したことで、身体が極度に疲弊したんだ。君の魔力のように活性化の作用はないが、癒しの術に私の魔力そのものを織り込んで、体力と魔力の回復を促した。……立てそうか?」
火照った顔を上げることができずに、シモンは俯いたまま、こくこくと何度も頷く。
セオバルドが、ゆるりと両腕の力を抜いた。けれど、よろけたりすればすぐに支えられるよう片腕はシモンの腰に回したまま、背に回していた腕を解いて、シモンの肩に手を添える。
セオバルドに触れていた両手を離し、シモンが身体をまっすぐにすると、足裏に馴染みのある重みがかかる。
「ありがとうございます。大丈夫そう……です」
俯いて、消え入りそうに小さな声で礼を述べると、セオバルドはゆっくりとシモンの身体から手を離した。
ふらつくことなく、シモンがひとりで立つのをしっかりと見届けて、小さな吐息を漏らしたセオバルドは――。
「ここで、見ているといい」
短い言葉で指示し、身を翻した。




