小さな村 8
「シモン!」
鋭く短く、叱咤する声が鼓膜を打ち、叩かれたかのようにシモンが我に返った。
声の厳しさが、すべきことを促していた。
声の投じられた方角や響く大きさから、シモンはセオバルドのいる位置をおおよそ把握する。
セオバルドは近くにいる。その事実がシモンの背を押す。
考えるよりも先に、身体が反応した。
ふ、と息を深く短く吐き出して、一間置いてから吸い込む。新しい空気を肺に取り込むのと同時に、真っ白だった思考が切り替わる。即座に、結界を張るという一つの動作に集中する。
シモンの身体が、日々繰り返し鍛錬したそれを自然にこなす。
意識し己の中の魔力を高めると、不可視の力が呼応して、空気がぴんと張り詰める。
周囲がシモンの魔力で満たされる――。
短剣を片手に、両腕を横に広げるシモンは、術を唱えた。
両腕の外側、シモンの身体の周りを光の粒が奔る。細い光の尾は軌跡となって、くるりと時計回りに円を描く。
描かれた円を基に、瞬時にして光が膜状に立ち上がる。薄布のような光がシモンを包み込み、球体となった。
身体に見合う大きさの結界は、シモンが小柄であるが故に、魔力の凝縮したもの。
結界の中に入り込んだ魔物を、拒絶するもの。
シモンの頭に触れていた蛇女の手が、勢いよく結界の外に弾き出された。
蛇女は弾かれた勢いで上体を反らせながらも、するりと下半身を結界に巻き付かせる。
間髪を入れずに巻き付いた蛇の胴体が、ぎりぎりと結界を絞めつけた。
太い胴体に圧を掛けられ、負荷のかかった結界は、歪に撓み、軋む。
「……っ!」
結界が消えてしまえば、シモンの身体など一瞬で潰される。
じりじりと肌を焼くような焦燥感、全身の感覚が麻痺するほどの恐怖に襲われたシモンは、それらを呑み込み、無理矢理心の底に押さえつけた。
結界が弾けてしまわないように安定させ、維持したまま、片手に持っていた短剣を胸の前に持ち上げる。
両手で柄を握りしめ、蛇女の喉を突くための魔力を込めた。
シモンが睨みつけるように見上げた結界越し、間近に蛇女の顔があった。
一歩踏み込んで結界の中から腕を伸ばし、蛇女の喉許に短剣を突き立てるのは、おそらく容易だ。
覚悟も、できていた。
けれど。
面識のある少女を前にして、微笑む彼女の顔がシモンの脳裏を過った。
短剣を構えるシモンの心に、迷いが生じた。
言葉を交わした時、人そのものであったミリアは本当に魔物なのかと、決意が鈍る。
躊躇いが、腕を硬直させる。
口を引き結び、奥歯を噛み締め、シモンは苦悶の表情を浮かべた。
――突けない。
この場を凌ぎ、朝を迎えることができれば、ミリアは再び人の姿に戻るような気がした。
まだ、人の部分を残しているのなら――。人の姿に戻りさえすれば、ミリアから何か事情が聞けるかもしれないと考える。
セオバルドが、ミリアを助ける術を知っているかもしれない。
そんな淡い希望を、シモンは胸に抱く。
それなら、と。
軽く目を瞑ったシモンは、深く息を吐き出し、意思を固める。
――結界を保たせる。
瞼を上げて、表情を引き締めた。
絞めつけてくる蛇女の胴体を、強く圧し返すのだと。その一点にのみ意識を集中し、魔力を研ぎ澄ませる。
蛇女に圧されて歪む結界が、シモンの意思に応えるように一際強い光を放つ。強固に形を正し、内から蛇女を圧し返す。
突如。
背後で膨れ上がる魔力を感じて、シモンの背筋に悪寒が走った。
びくりとして身体が竦み上がり、顔が強張る。
――刹那。水面に広がる波紋のように、さぁ……っと魔力の波動が奔り抜けた。
辺り一帯が、セオバルドの魔力一色に塗り替えられる。
その魔力の質も密度も、シモンのものとは桁違いに、濃い。
セオバルドに喚ばれ、引き寄せられるようにして集まるのは、清らなる水の精霊たちだ。夥しい数の精霊は、すぐさまセオバルドの魔力に呼応する。
周囲が清涼な水の気配に満ち満ちて、肌に触れる空気の温度が、すぅっと下がった。
シモンは、どこまでも澄み切った湧水に呑み込まれたかのような……。深い水底に立っているような錯覚に陥る。
瞬時にして宙に水が凝り、セオバルドの魔力を基に、すさまじい速さで術が練られ構築されているのを感じた。
幾分にも無駄なく、大胆かつ繊細に。瞬く間に作り上げられた無数の水の刃が、シモンと蛇女を囲い、闇夜を透かす銀碧の玻璃の如く浮かび上がる。
――それは、セオバルドの許で術を学んでいるシモンですら不可思議な魔法を連想する、瞬く間の出来事だった。
煌めく白銀が一筋、風を切る微かな音と共に、すぱんっと蛇女の首を深く裂いた。
喉許が裂けた衝撃で、ぐら……ん、と蛇女の頭が後ろに仰け反る。
すぐさま、別方向から飛来した刃が蛇女の胸許に深々と埋まる。次々と空から雨の如く降り注ぐ刃は、結界に巻き付く蛇女の下半身に浴びせられた。
結界に巻き付いていた蛇女の胴体が緩んで離れ、深々と刺さった刃を振り落とさんばかりに激しくのたうち回る。
まだ空には、水の精霊を宿し具現化した鋭利な刃らが、瞬く星の如く散在していた。
結界から離れた蛇女に対して、セオバルドが取るであろう行動を予測したシモンは、勢いよく身を翻す。
悲鳴のような声が、口を衝いて出ていた。
「先生! 待っ……!」
蛇女に背を向けたシモンの耳許で、幾筋もの風切り音が鳴った。頬にほのかな風が触れ、わずかに髪が揺らぐ。
自身の脇を刃が走ったのだと、感じた。
既に、多方向から一斉に放たれた刃が、蛇女目掛けて空を切っていた。
確かな質量を持った塊の崩れ落ちる音を最後に、シモンの背後で音が止んだ。
「……」
言葉を無くしたシモンが、ぎくしゃくとした硬い動きで首を巡らせる。朧げな月明りを頼りに、視線を這わせた先――。
結界から少し離れた草叢に、力なく地面に崩れ落ち、動かなくなった蛇女の身体があった。
落ちたカンテラの灯りに浮かび上がる蛇女の顔は、見知った少女の面影を残したまま。
栗色の乱れた長い髪の間から覗く少女の薄く開いた右の瞳は、ここではない、どこか遠くの世界を虚ろに見つめたまま。
結界の中で立ち尽くし、茫然とするシモンが、それを見つめ続けた。
「よく持たせた」
カンテラを拾い、目の前に立つセオバルドの姿にシモンの緊張の糸が切れると、結界はほどけるように霧消する。
「何で……? 先生」
細く掠れたシモンの悲痛な声に、セオバルドは不審そうに目を細め、わずかに首を傾げる。
セオバルドはミリアに会ったことがない。
昼間の、人としての彼女を知らない。
シモンは、セオバルドに説明すべく考えを巡らせるも、ミリアの顔や声が脳裏に浮かび、押し込めていた感情が堰を切ったように溢れ出した。
驚きや恐怖といった感情が湧きあがり、歯の根が合わないほど震えた。混乱するシモンは頭に浮かぶ言葉を手当たり次第並べる。
「先生、蛇女が……ミリア、あっ、あの、昼間に蛇女のことを、教えてくれた、村の、人……で」
膝から崩れ落ちてしまわないよう足に力を入れ、俯くシモンは震える両手で口許を覆った。
「でも……! さっきは普通に話をしていて、だから、先生ならミリアを助けることも……!」
「シモン」
セオバルドは静かに、そして宥める響きを持つ声音でシモンを遮った。
顔を上げたシモンに、セオバルドはゆっくりと言葉を紡ぐ。
「人に、死者を生き返らせることはできない。それはもはや、神の領分だから」
「死、者……?」
ぼんやりと反芻するシモンの瞳が驚愕に見開かれた。色を失うシモンに、セオバルドは目だけで頷く。
「ミリア、か」
小さな溜息を洩らしたセオバルドは、蛇女へと視線を移す。
「この村に漂う腐臭と蛇女の様相からして、魔物の基となったのは、ミリアという娘の死体で間違いないだろう」
死体。
絶句したシモンは目を瞬かせる。瞼に、蛇女となったミリアの虚ろな瞳が浮かび、反射的にきつく目を瞑った。
「どうして……」
すぐには事実を現実として受け入れることができそうにない。うまく整理することのできないシモンは、ただ、ふるふると首を横に振った。
零れ落ちたシモンの問いに答える形で、「状況からの判断になるが」と前置きをしたセオバルドは、語り出した。
「なにか強い思念を抱えて死んだミリアの魂は、旅立つことができずに、その場に留まった」
こくん、とシモンの喉が上下する。
「……思念?」
「そう。彼女の思考や感情だ。……残された彼女の思念は、遺体から……、もしくはその側から離れることができないほどに暗く重いものだったのだろう。だからこそ魔物を引き寄せ、喰われて尚、半分人の姿を残してしまった」
魔物となっても、姿を残すほどに強く重い確固たる思念。
それが紛れもなくミリアのものであるのなら、彼女の魂と人としての心の一片は呑まれて消えてしまうことなく、まだ魔物の中に在ったのだ。
――それなら。
「じゃぁ、……僕が会って話したのは魔物ではなく、ミリア、だったんですね……?」
胸苦しさを覚えて声を詰まらせたシモンに、セオバルドは緩く首を横に振った。
揺るぎない意思を持つ冷徹な青い瞳が、シモンを見据えた。
「身体を共有している以上、人であった部分の記憶や感情、思想が混濁していた可能性は否めないが、あれは死者を喰らった魔物だよ。……魔物はミリアが生きていた時の記憶を基に、彼女の振りをして村の生活に溶け込み、人を襲っていたのだから」
やるせない想いを抱えたシモンは俯いて、きゅっと両手を拳に握る。
それは。
「何の、為に……?」
「ゆっくりと朽ちていく、ミリアの身体を維持するために。魔物と化しても、残してしまった人としての半身は死体のままだから」
魔物であっても、死者を生き返らせることはできない。
死を覆すことはできないのだと、理を説いたセオバルドは、優に一呼吸置く。
そして――。
「この村は、蛇女の餌場だ」
――感情のこもらない声で、淡々と答えた。




