小さな村 9
村の景色を覆い隠していた夜の闇が、やわらいでゆく。
空は深い濃紺となり、端には淡い紫がとけて滲んでいる。
濃紺の空に懸かる小さな月は、柔く白い光を湛えた擦り硝子のようになった。
じきに、夜が明ける。
わずかな明かりにも目が慣れて、周辺一帯の景色がぼんやりと見渡せるようになった。さらさらと涼しげな音色を奏でる細流も、黒い草叢がそよぐ風に靡くのも、薄らと見える。
――草叢の脇に横たわる、蛇女の死骸も。
朝を迎える前に、セオバルドは村長を蛇女の許へと連れて来た。
「蛇女と呼ばれた魔物の死骸です。もう動くことはないので。……どうぞ、近くでご覧になって下さい」
カンテラの灯りを掲げる村長は、神妙な顔つきで用心深く蛇女の下半身に近づいた。人の形をした上半身部分に回り込み、恐る恐る顔を覗き込む――。
「ひっ……!」
跳ねるにも似た勢いで上半身を反らし、鋭くも掠れた悲鳴を上げた。カンテラの灯りに浮かび上がる村長の双眸は大きく見開かれ、顔は驚きと恐怖に引き攣っている。
「あぁ……、あ……、ああっ!」
言葉にならない声を吐き出し、よろめきながら後退った。
「これで、依頼された仕事は完了とさせていただきます。よろしいですね?」
セオバルドは冷然として、口頭で確認を取る。
口許を戦慄かせる村長は、眼球だけをぎょろりとセオバルドに向けた。言葉を発しないまま、一呼吸ほどの時間が流れる。
村長から、不服や否定といった意思は感じられない。
「……了承した、と受け取らせていただきます」
涼しい顔をして、セオバルドは懐から小さな革袋を取り出した。
「シモン、おいで」
そばに寄ったシモンを伴い、セオバルドは蛇女の脇に立つと、革袋の紐を緩める。その中身を蛇女の上に振り撒いた。
さら……、と微細な粉が舞い、ゆったりと蛇女に降りかかった。
「瘴気を祓い、場を清めるために合わせた香だ。これで魔物の骸は跡形もなく消えてなくなる。……それから、シモン。これを」
セオバルドは畳まれていた薄布を丁寧に広げ、包まれていた何かを、繊細な力加減でそうっと摘まみ上げる。もう一方の手でシモンの手を掬い上げると、その掌に摘まんでいたものを置いた。
渡されたものは、重みを感じさせないもの。
だが、確かに掌にある。
皮膚に伝わるのは、花弁の滑らかさ、羽毛の軽さ――。まるで水面に張る薄氷を思わせる透明なもの。少しでも力を込めたら、たちまち崩れてしまいそうに、儚くもろいもの。
シモンは細心の注意を払い、掌に乗せられたものを壊さないよう摘まみ上げて、それを翳す。
指先から舞い散るのは、夜空に瞬く白金の星を思わせる光の粒子。
目を凝らした指先に在るのは、刹那の煌めきを放つ、薄く虹を浮かべる玻璃色の小さな翅。
「これは、……妖精の、翅?」
冬の始まりの日、セオバルドが森に住む魔の者、オーグルから手に入れたもの。
「ああ。この世に残されたミリアの魂……。暗い想いに捕らわれ、魔物に取り込まれた彼女に翅を与えて、君が送り出してあげるといい」
「ミリアの魂に、翅を?」
どう使うのかもよくわからず、当惑するシモンに、セオバルドは小さく頷く。
「故人に、……花を、手向けるように」
「はい」
(故人を、送る……)
弔いの気持ちと共に、シモンは軽く瞼を閉じて、両手で妖精の翅を大事に胸に抱く。
心を鎮めて。
哀愁が静かに胸を満たしていくのを感じながら、蛇女の死骸に一歩寄る。
蛇女の――人の形を遺した胸の上に、妖精の翅を丁寧に置く。両掌を合わせて胸の前で組み、冥福を祈る。
シモンの祈りに応えるように妖精の翅が白く淡い光を放ち、ふわりと浮かび上がった。妖精の翅は、白金の粉を散らしながら蛇女の上に留まる。
……じわり、と。
蛇女の表皮から、黒い煤に似たものが滲み出た。
表皮に集り、ぞわぞわと這い回る黒い煤は、細かな羽虫の群れに似ていた。それらは淡く発光する妖精の翅に、吸い寄せられていく。
妖精の翅に集まり、纏わりつくことで濃い闇となり、徐々に儚い光を呑み込んでいく。
シモンには、黒い煤がミリアの残した思念と、彼女を喰った魔物の一部のように思えた。
だから。
シモンは、持っていた短剣の柄を握り、すらりと鞘から抜き取った。
清めの術の施された短剣の、柄に嵌め込まれた魔石には、シモンの魔力が込められたまま。
両手で短剣の柄を持って構え呼吸を整えると、妖精の翅を覆う黒い煤に、すっ……、と刀身を差し込んだ。
ミリアの声や笑顔を思い浮かべ、彼女に呼びかける。
「……ミリア」
しめやかな旋律に詩を添えて、そこにいるミリアに語りかける。
――歌う。
哀しみを拭い 憂いを鎮め、
苦痛を和らげ 煩いを忘れ、
貴方の心は 今 冷たき骸を離れ 旅立ちの時を迎える。
軽やかに舞う精霊と共に 貴方の心は 野辺を渡り 空高く巡る。
あたたかに降り注ぐ光は 貴方を導き 永遠の安息へと誘う。
亡き人を悼み偲ぶ想いは、紡がれた言葉と共に旋律に込められ、やわらかに伸びやかに通る。薄明にまどろむ村にしっとりと響く。
不意に、シモンは歌を口ずさむのを止めた。
手許の短剣が黒い煤の中で、ぽわ……と白い光を灯した。白い光に触れた黒い煤がほろりと崩れる。内側からさらさらとほどけて、消失する。
黒い煤を清めて役を終えた短剣が鎮まると、妖精の翅を包み込んでいるのは、細やかな粒子の白い靄のようなもの。
白い靄は、すぅっと妖精の翅に吸い込まれて溶け込み、一つになる。
妖精の翅は息づくように一度、優しい清らかな光を放ち、ゆっくりと形を変えた。
浮かび上がるのは、実体のあるようで無い、白い蝶。
わずかに白んだ空から降る、透明な光を集めて翅としたような、ほのかに透き通る白い蝶だった。
蝶は翅を広げて、ふわ……と宙に浮いた。横たわる蛇女の亡骸を離れ、シモンの周りをひらひらと舞う。蝶の白い翅がひらめくたびに、深い濃藍の景色の中に、白金の粉が星粒の如くきらきらと散る。
風に戯れる白い花弁のように、軽やかに飛び回る蝶をせつなく見つめたシモンは、そっと目を伏せた。
――別れを歌う。
その姿が 現世になくとも
胸に響く 貴方の声、
瞼に映る 優しい微笑み、
在りし日の姿は 私と共に。
私は願い そして 祈る
現世を離れる 貴方の心が
至福と共にあらんことを。
細く冷たい風の流れに乗って、ふらり、と蝶がシモンのそばを離れた。
儚く頼りなげな蝶は、想いを乗せた詩に送り出されて、風に流されることなくまっすぐに空へと昇っていく。
空の端に、陽光が朧げに滲んだ。
明るみの増した青紫の空に吸い込まれ、白い蝶がほどけて消えるのを見届けたシモンは、静かに瞼を閉じる。
悲哀の想いをそっと心の底にしまい込み、ミリアの笑顔を思い浮かべる。
ほんの一時――。わずかな時間だったが言葉を交わした少女を想い、黙祷をする。
どうか旅立つミリアの魂が安らかでありますように、と。シモンは、改めて彼女のために祈る。
祈りを終えたシモンが顔を上げると、セオバルドは隣に並び、カンテラの炎を死骸に移した。
セオバルドと共に数歩下がったシモンの目の前で、明るい赤色の炎が蛇女の表皮を舐めるように這い、薄く覆っていく。
炎に煽られ、清々しくも甘やかな香りが漂い、鼻孔を掠めた。
蛇女を包み込んだ赤い炎は、あたたかみのある橙になる。揺らめく炎は、黄色から緑へ、青、そして藍……紫、と暗色へ。炎は虹の色を順に映しだすかのように、ゆっくりと色彩を転じさせていく。
清めの炎に焼かれる蛇女の姿形は、崩れるそばから淡い金色の粉となって宙に浮き上がっていく。
やわらかな霧雨を思わせる金色の粒子は、空へ降るように舞い上がり、すぅっと宙にとけていく。
やがて、蛇女の死骸を包んでいた炎も透明に近い陽炎となり、最後に一粒、金の粒子を空へと送り出すと景色をわずかに歪ませて、消えた。
蛇女の死骸のあった場所は、まるで元から何もなかったかのように、静かな景色が広がっていた。
ただ、清涼な香りだけが、ほのかに残る。
蛇女に関するすべてのことを終えたセオバルドが、一人時を止めてしまったかのように動けないでいる村長を、振り返った。
何も無くなった場所の、ただ一点を茫然自失の様相で見つめていた村長は、セオバルドの視線に気づき、ぎこちなく顔を合わせた。
村人であるミリアが蛇女だったことも、死骸が跡形もなく消えたことにも、理解が追い付かないのだろう。
セオバルドは、低く囁く。
「……この村の娘が蛇女だったということは、他所には黙っておいてさしあげます。蛇女のことは他所に知られない方が、貴方がたにとって都合がいいでしょうから。……ただし、先に交わした約束を守っていただけるのなら」
依頼内容やその詳細、対価の情報など一切を口外しないこと。
そして、セオバルドが今後、この村からの依頼を受けることは一切ないこと。
みるみるうちに青褪め、村長が慄然とする。景色の一部に縫い付けられたかのように固まり、両の目で穴のあくほどにセオバルドを凝視する。
セオバルドは冷ややかに細められた青い瞳で、射るように村長を見つめ返した。
視線が交錯する両者の間に言葉はなく、息苦しさを覚えるほどの重い沈黙が漂う。
村の娘が蛇女となって村人に紛れ、次々と人を喰い殺していた。それが他所に知られれば、他にも同類が潜んでいるのでは……と疑われかねない。疑いは憶測を呼び、村への差別と孤立に繋がる。
潔白を証明することができない、疑わしい村に近づきたい人間はおそらく誰もいない。
そういうことなのだろうと、シモンは考える。
セオバルドの視線から逃れるように、村長が一歩下がり項垂れた。
「約束する……。だから、頼む……! 他所には洩らさないでくれ……っ」
必死に縋りつくような村長の言葉に、シモンは蛇女の死骸のあった場所に視線を戻す。
セオバルドに向けられた村長の眼差しは、蛇女の遺体を見ていた時のものとよく似ていた。
(同じなんだ……)
それが魔物であれ、不思議な術を使う者であれ、理解のできない者からすれば、同じ括りである異質なもの。
村長や彼のそばにいた男性は、自分たちに危害を加えるかもしれない異質なものを好まなかった。
だから、彼らはセオバルドやシモンを冷遇した。
魔力を持たない人のすべてが、彼らと同様ではないのだろう。
けれど、村長らの言動を目の当たりにしたシモンは、そうした考えの人もいるのだということを、心の片隅に留めておいた。
「我々は、これで失礼します」
荷を持ったセオバルドが、シモンの背に手を添えて、この場を離れるよう促した。
最後まで礼を欠かさず、きっちりと村長に挨拶をしたセオバルドに倣い、シモンも一礼する。
「……失礼します」
白んでいた空の端が黄金に燃えて、眩い陽光が地表に差しこんだ。
――昨日となんら変わらない静かな村の風景が、明るい朝に彩られた。




