小さな村 3
招かれて上がった少女の家は、――そう。
とても寒かった。
シモンは家の中に視線を巡らせるが、音もなく、人の気配が感じられない。
落ち着きなくきょろきょろと見回すシモンを、少女は可笑しそうに、くすりと笑う。
「誰もいないの。私、独り暮らしなのよ。……最近まで兄がいたのだけれど」
だから気楽にして、と少女は呟いた。
外で話をした時とは打って変わって、くつろいだ表情。自然な笑みだった。
シモンをダイニングテーブルに案内すると、少女は、つい、と離れキッチンに立つ。
「今、紅茶を淹れるから、どうぞ座っていて」
テーブルの椅子を引き腰掛けるシモンに、お湯を沸かし始めた少女が名乗る。
「私はミリア。貴方は?」
「シモンです」
ポットに茶葉を入れてお湯を注ぎ、カップをふたつ並べるミリアは、手許に目を落としたまま頷く。
「そう、シモン。……貴方、歳はいくつ?」
私は十七よ、と静かな口調でミリアは自分の年齢を告げた。
紅茶の注がれたカップから白い湯気が立ち昇り、キッチンに香りが広がった。
トレイを持ったミリアが、紅茶をシモンの許へと運ぶ。
こと……、と小さな音を立ててカップが置かれると、シモンは「ありがとう」とミリアに礼を述べ、頬を緩めた。
「歳は、十四です」
ミリアは驚いたように軽く目を瞠り、わずかに声を高くして言った。
「そうなの? ……ごめんなさい。もう少し幼いかと思ったわ」
「よく言われるんです」
にっこりと笑みを浮かべて、気にしていないのだとシモンは首を横に振った。
十四歳の少年であれば、少し骨格が華奢なのだろうが、本当は少女であるのだから。
微かに眉を寄せて、小首を傾げたミリアはシモンの顔を覗き込む。
「……一緒に村に来た男の人は、貴方のお兄さん?」
「いいえ、僕には身寄りがないので。あの人は雇い主です。家事や仕事の手伝いをする代わりに、住まわせてもらっているんです」
「そう。シモンはもう、家を出て働いているのね」
えらいわ、と。
シモンの境遇を知ったミリアが、労わるように優しく笑った。
はにかむシモンは、紅茶の淹れられたカップを両手で包み込む。
冷たくなった掌に熱が伝わり、じんわりと温まる。
ほっと一息ついたシモンは、肌に風を感じて、開け放された窓に視線を移す。
家に入ってからずっと気になっていたことを、シモンは遠慮がちに尋ねる。
「窓は、開けたままなんですか? その……。寒く、ないんですか?」
冬であるのに――。
あちこちの窓が開いているからか、外から風が吹き込んで、家の中は酷く冷えていた。
それに、外で嗅いだのと同じ、異臭がする。
ミリアは臭いが気にならないのだろうか。シモンは疑問に思うが、家の中で臭いのことを尋ねるのは憚られた。
「蛇女のことがあって、夜はみんな窓を閉め切ってしまうから。昼間に風通しを良くして換気をしているのよ」
「へぇ……。そうなんですね」
臭いについて触れないミリアに、シモンは曖昧に返してカップに口を付けた。
「あら、ごめんなさい。お菓子がまだだったわね」
テーブルの上に大きめのお皿を置いたミリアは、その上に、紙で包装された丸い物を置く。中身が零れてしまわないよう丁寧に結わえてある細紐を、白い指先が解く。
広げられた包み紙から、厚みのあるショートブレッドがたっぷりと出てきた。
皿から零れ落ちそうな山盛りのショートブレッドに、シモンは一瞬、嫌な臭いのことを忘れて顔を輝かせる。
「どうぞ」
シモンの方へ、す……、っと皿を押して寄越したミリアは、向かい側の椅子に腰を掛けた。
「いただきます」
遠慮なく皿に手を伸ばし、次から次へ。サクサクとショートブレッドを頬張るシモンを、テーブルに頬杖を付いたミリアが、ぼんやりと眺めた。
じっと自分を見つめるミリアのくりっとした濃褐色の瞳に気づき、がつがつと食べてしまったことを恥じ入るシモンは、わずかに俯いて頬を赤くした。
脳裏に「はしたない!」と目を吊り上げるシェリーの顔が浮かぶ。
一度きちんと姿勢を正して、行儀よくカップを口許に運んだ。
「美味しい」
小腹が満たされ幸せな気分で微笑むシモンに、ミリアはくすりと笑う。
「シモンったら、本当に美味しそうに食べるのね」
柔らかに目を細めて頬を緩めるミリアは、シモンの方に皿をそっと押し出し、もっと食べるよう促す。
笑顔で応えたシモンは、ショートブレッドを一つ摘まんで、口へと放った。
「蛇女はね、夜に人を襲うのよ。今までに村の若い男ばかりが三人ほど、喰われたの」
頬杖をついてシモンを眺めていたミリアが、凪いだ水面のように起伏の無い声音で、唐突に話し始めた。
「一人目は二か月前、……私の兄よ」
シモンが口を動かすのを止めた。
ごくん、と口の中のものを呑み下し、何か聞き間違えたのかとミリアの顔を穴のあくほど見つめ、固まった。
「朝起きたら兄が家にいなくて。近くの畑で倒れていたのを、村の人が見つけたの。全身の骨が砕かれて、体中の血液を抜かれて。……真っ白になって死んでいたわ」
濃褐色の大きな瞳は遠くを映すように虚ろで、ミリアは自分の兄のことを淡々と、まるで他人事のように話した。
シモンは、なにか悪い作り話を聞かされている気がして、ミリアの瞳の中に嘘を探す。
そんなシモンに構わず、ミリアは静かに……。無色透明の氷を思わせる声音で冷ややかに続ける。
「二人目は、一か月ほど前。すぐ隣の家の若い夫婦の旦那さんよ。そして、三人目はつい二週間ほど前に、近くの家の十五歳の男の子が、同じ様に真っ白になって死んでいたの」
語られる非日常の一幕に、シモンはきゅっと肝を冷やす。
「……誰か、その蛇女を見た人がいるんですか?」
軽く伏せられた瞼から覗くミリアの瞳が、壁の向こうにある隣家を透かし見るように、横に滑る。
ミリアの唇が、薄らと開いた。
――隣の家の、奥さんが。
「……夜中に外へ出て行って、ちっとも戻らない旦那さんを探しに行ったら、上半身が女の大きな蛇に巻き付かれているのを見たのですって。恐ろしくて物陰から一歩も動けなかったそうよ」
成す術もなく、目の前で夫を亡くした女性の不幸を聞かされ、シモンは咄嗟に言葉が出ない。
表情を曇らせ、目を伏せたシモンは躊躇いがちに言葉を紡ぐ。
「そんな状況でも、奥さんが無事だったのなら……、まだ」
良かったです、と。
シモンは、そう言おうとした。
だが、無感情なミリアの声がシモンの言葉を遮る。
「正気を失って、すぐに後を追ってしまったのだけれど」
言葉を失い、目を瞠るシモンに「でもね」と、ミリアはふわりと柔らかに笑った。
「今頃は、あの世で一緒になっていると思うの」
亡くなった夫を妻が追って、あの世で再び一緒になる。――それを。
然も幸せなことと言わんばかりのミリアに、シモンは気を呑まれて黙り込んだ。
困惑の表情を浮かべるシモンに、ミリアが恍惚とした眼差しを向ける。
夢見がちに甘やかな声音で、囁く。
「ねぇ、シモン。死は悲しいだけのものじゃないわ。一つの永遠なの。愛した人の心をずっと抱き締めていられる。……そこに、裏切りはないのよ」
そうでしょう? ミリアの唇が小さく動いた。
死の先に喜びを見出し、それを密やかに打ち明けるミリアの考えが理解できずに、シモンは戸惑う。
「何の、話……?」
死んだ後のことなんてわからない。その先があることなんて知らない。
「……わからない?」
濃褐色の大きな瞳が、まっすぐにシモンを見据える。
するり、とミリアの細い腕が伸びて、指先がシモンの頬を、つぅ、と撫でた。
視線を逸らすことのできないシモンに。ミリアは小さな子供に優しく諭す口調で、けれど、ほのかな熱を帯びた声音で言葉を連ねた。
「他の誰もが触れられなくなって、忘れ去られてしまって。ようやく自分だけのものになるのよ」
開け放たれている窓から、陽光が射し込み、ミリアの真っ白い頬を朱く染め上げた。
ほの暗くなりつつある部屋で、柔らかな朱に浮かび上がるミリアに目を奪われていたシモンは、はっとして時間の経過に気づく。
「すみません。陽が傾く前に戻るようにと言われているので、そろそろ戻ります。温かな紅茶とショートブレッド、ご馳走様でした」
「お腹が空いていたみたいだから、良かったわ。シモンは年の割には小柄だものね。食事はちゃんと摂った方がいいわ」
くすくす、とミリアは笑う。
ショートブレッドを元のように紙に包み直し、紐で結わえる。指先で紐を摘まみ上げたミリアは、シモンに歩み寄るとそれを差し出した。
「持って行って」
「全部? ミリアの分は?」
ミリアはショートブレッドを一つも口にしていない。貰ってしまっていいのかと、シモンは小首を傾げる。
いいの、とミリアは緩く首を振った。
シモンが両手で包みを受けたのを見届けて、ミリアは紐を放す。するりと滑らかに身を翻し、彼女はテーブルの上の空になったカップを持ち上げて、キッチンへと運んだ。
「私ね、数日以内に村を出るのよ。近くにある大きな町へ行くの」
キッチンに立つミリアが淡い笑みを湛えてシモンを振り返り、「楽しみだわ」と一人ごちる。
「もう、村へは戻らないんですか?」
「……ええ」
異形のものに肉親が襲われるという辛い出来事のあった村を出て、心機一転、新しい場所で生活を始めるのだろうか。
唯一の肉親である兄を失い大きな町へ行くというミリアに、シモンは祖母を無くして村を出た自分を少し重ねる。
一人で新しい環境に馴染むまでには、きっと大変なこともあるだろう。
胸の前で両手を祈りの形に組んだシモンは、双眸を閉じる。
村を出るというミリアの為に、心を込めて祈る。
「ミリアの新しい生活が、より良いものになりますように……」
「ありがとう、シモン。……貴方、いい子ね」
嬉しそうな声音で礼を述べたミリアは、心から幸せそうに微笑んだ。
冷たい風が吹き抜けて枯草を揺すり、微かな葉擦れの音を立てた。
ミリアの家を出たシモンは、辺りを見回す。
西の空を見遣ると、薄雲の切れ間から夕陽が覗いていた。陽光を浴びた村の景色は朱く染まり、忍び寄る薄闇が、草木の伸ばす細く長い影とシモンの影の境を曖昧にした。
夜が近い。
蛇女のことがあるからか。昼間にはちらほらあった人影もなくなり、シモンはそこはかとなく不安になる。
薄暗くなる前に村長の家へ戻ろうと、シモンは足早に歩を進めた。小川に架かる橋に差し掛かり、中ほどでぴたりと足を止めた。
そろり、と橋の下へ視線を滑らせる。
(まだ、いるのかな……)
ミリアから蛇女の話を聞いたから。先程、草叢にいた蛇のようなものが気になった。
人の手首ほどの太さしかなかったあれは、人を絞める蛇女と同一のものではなさそうだが……。
橋の縁に立ち、注意深く川辺の草叢や橋の下を覗き込む。
だが……。
草が不自然に揺れる様子もなく、何も変な物は見えない。
蛇のようなものはどこかへ行ってしまったらしい。シモンがほっと息を吐きだしたその時、水面に映る自分の影の背後に、もう一つ黒い影が映りこんだ。
「え?」
振り返ろうとした、直後。
頭に衝撃を受けて、シモンの視界が暗くなった。




