小さな村 2
うっすらと雪化粧をした街道に立ち、小さな鞄を持つシモンは、ほぅっと白い息を吐いた。
風は、ほとんど無かった。
そのせいか。凍えた大気が地表に留まり、研ぎ澄まされた刃のような冷気がちりちりと肌を刺す。街道の上に留まるシモンの足許を冷やしていく。
空の様子を覗うと、ゆったりと流れる厚い雲の狭間から、柔らかな陽が覗いた。
シモンの隣では、大きめの鞄を持ったセオバルドが、目的の村を通るという幌馬車を見つけて、乗せてもらえないかと交渉していた。
セオバルドとシモンを馭者台から見下ろす初老の男性――幌馬車の主人が、人の好い笑顔を浮かべて快く応じる。
「いいよ。荷を運ぶ途中で通るからね。構わないさ。少し狭いが荷台で良ければ乗っていきな」
「ありがとうございます」
礼を述べたセオバルドに、ただ……と、声を潜めた幌馬車の主人は、ほんの少し顔を曇らせた。
「あまり触れて回らないよう言われているんだがね、あの村は最近妙な噂が立っているじゃないか。お前さんたち、村に知り合いでもいるのかい?」
(妙な噂?)
きょとんとしたシモンが、「いいえ」と返事をしかけると、セオバルドが声を被せ、「ええ」と答えた。
思わず言葉を呑み込むシモンの隣で、セオバルドは涼やかに微笑む。
「知り合いがいるんです」
すぐさま、幌馬車の主人は眉を寄せて、暗い顔をした。
「……そうか。それは心配だな。まぁ、長居はしないことだ」
「ええ、そうします」
(ん?)
幌馬車の主人とセオバルドの間では、会話が通じているようだったが、ひとりだけ理解できないシモンは、ふたりの顔を交互に見比べる。
ある程度、セオバルドが村の事情を知っているものと踏んだのだろう。幌馬車の主人の口がほんの少し軽くなった。
「……あの村は、短い間に若い男ばかりが亡くなっているんだろう? 何があったかは知らないが、ちょうどあんたたち位の歳だって聞いたから、あそこへ行くのならふたりとも、よく気をつけることだね。まぁ、私みたいな年寄りは、いつ何があったっておかしくはないんだろうが」
幌馬車の主人は冗談めかして、はははっと笑い飛ばした。
雲間から零れる柔らかな日差しを受けて、幌を被る荷台は外に比べて大分暖かだった。
緩やかに街道を走りだした幌馬車の荷台で、詳しい話を何も聞かされていないシモンは、すぐ隣に座るセオバルドに声を落としてこっそりと尋ねる。
「先生。さっきの話って、依頼に関係するものなんですか?」
セオバルドは、幌馬車の揺れなのか肯定なのか判別できないほど小さく頷く。
だが。
「依頼を受けるまで、誰にも口外しないようにと言われている」
彼が口にしたのは、今は話すことができないという理由のみ。
困惑するシモンは、小首を傾げる。
「僕も先生と一緒に行くのに、ですか?」
「それが向こうの提示した条件であるのだから、知れば面倒事に巻き込まれるやもしれない。依頼を受けない可能性がある以上、君はまだ知らない方がいい……」
会話を切り上げて口をつぐむセオバルドは、村の状況について、それ以上の説明をする気はなさそうだった。
シモンは諦めて、幌馬車の後ろの景色をぼんやりと眺める。
今住んでいる町の景色は、徐々に遠ざかり小さくなっていく。
空を流れる雲が陽を隠し、微かに雲から透け落ちる朧げな光は、雪化粧された灰色の町を柔らかに包み込む。
白と、青みがかる淡い灰色で描かれた、一枚の絵画を思わせる町の景色を目に映しながら、シモンは町に初めて来た時の事を思い出そうとした。
――ここを、通って来たのだろうか。
セオバルドの所へ身を寄せてから、シモンが町を出るのは初めてではない。
けれど、どこをどう歩いて来たのか、町の近辺の様子は全く記憶になかった。
あの時は疲労と空腹で、首も上げられず足許ばかりを見ていたから。
周りの景色を見る余裕なんてなかったから……。
どの道を通って、どの方面からやって来たのか覚えていないのも仕方がない。そんなふうにシモンは考える。
色褪せた冬の、のどかな街道の景色はとても単調で、規則正しい馬の歩調が心地よい揺れとなる。
狭い荷台の上。触れ合うほど近くにセオバルドの存在を感じる。人がそばにいるのだという確かな温もりを覚える。
以前、人攫いから逃げる為に独り、幌馬車の荷台に潜り込んだ時の心細さも緊張もない。
ほのかに暖かく静かな幌馬車の中で、シモンはうとうとと舟を漕ぎだした。
半日近く、幌馬車に揺られて――。
やがて、村らしい家並みが見えてくると、幌馬車の主人が馭者台から声を張った。
「ほら、あんたたち。村に着いたよ!」
目的の村に到着したと知らされ、セオバルドとシモンは幌馬車から降りた。幌馬車の主人に礼を述べて見送り、空を見上げてみると、陽は高いところにある。
夕暮れまでにはまだ少し、時間がありそうだ。
セオバルドの後に続いて、村に足を踏み入れたシモンは、すぐに眉をひそめた。
――なんだろう……?
村の奥から吹く風に運ばれ、なにか臭う気がする。
気のせいというほど微かなものでもなく、だからといって強いものでもない。
セオバルドに臭いのことを尋ねてみようと隣に並んだシモンは、彼が村の奥を見ていることに気づく。その視線を追い、こちらへと歩いて来るひとりの男性の姿を捉えたシモンは、臭いについて訊くのを止めた。
村の中から現れた男性は、セオバルドとシモンの前に立ち、軽く会釈をした。
顔を上げた男性は、長身のセオバルドと目線の高さが変わらない。身体を使う仕事に携わっているのか。がっしりと引き締まった体躯であることが服の上からでも見て取れる。……セオバルドよりも身体つきが一回り大きい。
「お待ちしていました」
丁寧な言葉とは裏腹に、笑み一つ浮かべることのない男性の目付きは鋭い。固く事務的な声音から、歓迎の意は感じられなかった。
「……お話を、伺います」
「こちらへどうぞ。村長の家に案内いたします」
セオバルドが一歩前へ出て応対すると、男性はくるりと身を翻し、先に立って歩き始めた。
村の風景は、のどかだった。
表通りは馬車が一台通れるほどの道幅で、道に沿って暖色の煉瓦造りの民家が並ぶ。煙の立ち昇る煙突は、暖かな屋内を彷彿とさせた。
家並みの反対側には小川が流れ、所々に手入れの行き届いた畑も見える。だが、冬の午後ともあって人影はほとんど無い。
道でたまにすれ違う村人もあったが、彼らは表情が暗く俯きがちで、シモンが挨拶をしても無言で会釈を返し、目を逸らす。しかし少し離れると、他所から来たセオバルドやシモンをこっそりと振り返り訝しむ。
他所者が珍しいといったふうでもない。
「……?」
そんな村人たちに、シモンは何ともいえない違和感を覚えた。
道沿いを流れていた小川がくねり、その上に架かる橋を渡って更に村の奥へと進む。
何軒かの家を横目に通り過ぎ、案内をする男性が、一軒の大きな家の前で立ち止まった。
「こちらです。村長がお待ちになっているので、どうぞ。……お入りください」
道中一言も話すことなく案内を終えた男性は、先に家の中へと入っていった。
すぅっと目を細めて扉を見据えるセオバルドは、すぐに家に入ろうとはしない。
「先生? 入らないんですか?」
問われたセオバルドが、シモンに視線を転じる。
「シモン。私は村長と話をしてくるから、村を一回りしてくるといい。ただし、陽が沈んで暗くなる前……。否、薄暗くなる前までに、ここへと戻ってくるように」
「え? あ、……はい」
戸惑うシモンをよそに、セオバルドは村長の家へと入っていった。
独りぽつんと残されたシモンは、こてっと首を傾げる。
詳しい説明の無いまま村まで連れて来られて、話し合いの席にまで同席させてもらえないとは思っていなかった。
(同席しても、邪魔になる……ってことかな)
事情の分からないシモンが同席したところで、積極的に話すことはない。
むしろ、セオバルドや村長だけの方が、話しがスムーズに進むのかもしれない。
依頼を受けるとなれば、流石に詳細を教えてもらえるだろう。
それならそれで、ここに立っていても仕方がない。
気持ちを切り替えたシモンは、初めて訪れた村を探索してみようと、踵を返す。
そして。
「……ん?」
はたと動きを止める。
村に入った時から気になっていた、鼻孔の奥に張りつく微かな臭い。
(あ……れ?)
風向きのせいか、それとも場所のせいか。漂う臭いが少し強くなったように感じる。
なんとなく、どこかで嗅いだことのあるような嫌な臭い。
だが、臭いの正体がよくわからない。
疑問符を頭に浮かべるシモンは、小首を傾げながら来た道を引き返し始めた。
小川に架かる橋を渡り始めたシモンは、足を止めて小川を見下ろす。
橋の下には、さらさらとした清流があった。水底には、いつからそこにあるのかもわからない、色褪せた落ち葉が張り付き、澄んだ水に閉じ込められている。
小川に目を落とすシモンの耳に、かさ……と乾いた草の擦れる音が届く。
風に靡く草の音とは違うもの。
生きた物が、草を掻き分けて立てたもの。
(何かいる……)
そこに何か存在するのだと、示す音。
きょろきょろとするシモンは、小川のすぐ脇の草叢の蠢くものに、目を凝らす。
「……!」
『それ』を視界に捉えた瞬間、身体が芯から凍り付くように錯覚し、肌が粟立った。
おぞましさと気持ちの悪さが全身を覆う。
本能が反射的に『それ』の存在を拒絶した。顔は自然と無表情を作り出し、『それ』から目を背ける。音を立てないようにそっと踵を後ろに引く。
……一瞬、視界に入った『それ』は蛇のようなもの。
けれど、頭部や上半身にあたる部分が人とも蛇ともつかない、異形のもの。
『それ』に気づかない振りをしつつ、シモンは足早に橋を越えた。
「ねぇ」
唐突に声を掛けられて、橋を下りたシモンは、びくんと身体を震わせて固まった。
声のした方にぎこちなく顔を向けると、栗色の長い髪を後ろで束ねて編んだ少女の、大きな濃褐色の瞳と視線が重なる。
あどけなさを残す面持ちの少女は、十代後半といった年齢だろうか。
色味の無い、際立って白い肌をした少女は、外で作業をしてきた帰りなのか。小脇に空の籠を抱えている。
「もしかして貴方、村長のお客? 確か今日来るって聞いていたのだけど」
「はい。あ、でも僕は付き添いですが……」
俯きがちな少女は神妙な顔つきで周囲に目を配り、自分たちに向けられる視線がないことを確認すると、声を潜める。
「それなら、蛇女のことで来たのでしょう?」
「蛇女?」
シモンが首を傾げて鸚鵡返しに繰り返すと、少女は心底驚いたように目を瞠る。
「知らないの……? 知らないで、この村に来たの?」
「えぇ、……っと」
答えに困ったシモンに、信じられないといった少女の視線が突き刺さる。
堪らなくなったシモンは、視線を泳がせた。
「あのー、蛇女って何ですか?」
知らないものは、知らない。
シモンは、困惑と羞恥の入り混じった曖昧な笑顔を浮かべて、少女に尋ねた。
少女がぱっちりとした瞳を瞬かせる間の、ほんのわずかな沈黙の後――。
ふぅ、と吐息を洩らした少女は表情を和らげ、興味深そうにシモンを眺める。
「今、外の仕事が終わったところだから、家に来る? さっきお菓子を貰ったから、お茶くらいなら出すけれど」
「あ、お邪魔します」
ちょうど小腹もすいているし、これといった目的もなく村を歩いていただけ。
見ず知らずの村の人に親切に声をかけられたシモンは、驚きや喜びといった感情から、ぱぁっと明るい顔をした。
頷いて了承を示す少女は、橋のたもとから数軒先の家を見遣る。
「……すぐそこの家よ」
さぁっ、と冷たい風が吹いてシモンの頬を撫でていく。
はっきりと強くなった臭いに、シモンはわずかに顔をしかめた。
ねっとりと鼻孔に纏わりつくのは、生臭いような臭い。
――ほのかに甘い……、痛んだ肉が腐り溶けるような臭いだった。




